★調所笑左衛門の天保改革の本命は奄美の黒糖 重豪の命佐藤 信淵の助言で財政改革断行5百万両借金で破綻寸の藩を救う後調所が元凶のお家騒動が起こる 騒動の最初の研究は三田村鳶魚「島津家お由羅騒動」 それを元に直木賞の直木五十三『南国太平記』 があるが調所には奄美史書同様詳しくはない
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2015, 7月 19
佐藤信淵は、天保元年の春、調所に、財政建て直し方策として「薩藩経緯記」をあたえ、つぎのように言いそえた。(暮れには実行に移される)海音寺潮五郎の大長編史伝 『西郷隆盛』第一巻 新装版 朝日新聞
その要約
- 500万両の利子を放棄させ、2万両ずつほどの250年賦にさせよ
- 殿様はじめ役人の倹約を旨とせよ(14万両で足りる 予算を立て割り振ること)
- 産物のロスをなくす(薩摩の米は包装が粗悪でこぼれ米が多い)百姓のためでもあり貴家のためでもあり即効性もある)、また藩の一手販売にすれは利益莫大であろう)
- 多雨高熱の地の天恵を活かし殖産興業(ことの砂糖 煙草 織物 漆器 泡盛など 品質優秀にせよ)を奨励せよ
- 唐交易を大々的にはじめよ(将軍岳父の重豪の小遣い稼ぎの名目にせよ 交易の額は秘中の秘であるぞ)
- 公儀対策として別途、10年を目途に積み立てをせよ(さすれば、楽しみもまたあるはずでござる)
奄美方言の積もりが実は薩摩由来っチよく有る 有名な薩摩弁「ごわす」も京公卿言葉の名残 ★8代重豪は薩摩人の粗豪、偏狭・頑迷、独特な言葉、非社交性の原因たる鎖国をやめ武士らの言語、服装、挙措等を矯正 ☆重豪の蘭癖に奄美領民も苦しんが都会化策は進取の気風を生み維新運動への素地となった
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2015, 7月 19 <script charset="utf-8" type="text/javascript" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script> >
キヨソネの絵を見て高村光雲が西郷の知己・親戚の話を聴き造った上野の銅像。夫人の「こげな人じゃなか」は多分顔でなく(人前での)身なりの事 ★半生が江戸下町職人だった光雲は西郷が庶民の味方で、官僚ではいられない心根に共感したのであろう。鹿児島の銅像(軍服)より神に近く日本人的な顔にな
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2015, 7月 18
江戸中期幕命で薩摩藩が行った木曽三川治水工事 設計した幕府に「先ず15万両あれば」言われ、薩摩は30万はかかると大阪商人から22万余両(30万から利息天引き)を借金。10万程を追加。終には総計40万両(160億~320億円)多数の自害者。 返済は税、特に奄美群島の黒糖に目がつけ
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2015, 7月 18