↑ 左旧版 右新版
きのうコメントにづづいて2日連続の西郷記事となってしまった。
このパンフレットはいただきものだが、きのう図書館には、旧版とこの新版と並んで、「ご自由にお持ちください」になっていた。
きょうは、最近読んだ西郷本で学んだ、うろ覚えに知識をもとに、このパンフレットを頼りに
できるだけ簡潔簡単にまとめてみたい。
さて。
英明の誉れ高い藩主・斉彬の求めに応じて提出した藩政改革に対する意見書が認められ
西郷は庭方役に抜擢され、中央で広く見聞を広めるが、やがて幕府に追われる身に。安政の大獄だ。
万策尽き、僧月照と相抱いて鹿児島の錦江湾に身を投じたが一人蘇生した西郷。
「土中の死骨」にもひとしい気持ちで西郷は奄美大島龍郷に潜居をはじめる。
変名は菊池源吾。”我の源は菊池なり”島での二人の子に西郷は、菊次郎 菊草となずける。
菊池一族は、九州肥後の国。南北朝時代の後醍醐天皇の子懐良親王を迎え九州における南朝方の全盛期を築いた、あの歴史につながる。西郷はその菊池一族の末裔である。(以下省略)
敬愛する藩主の死、慣れない島の気候や言葉や習慣にいらだち、はじめは島の人たちをばかしていたが、そんな西郷の誤りを打ち破ったのは外ならぬ島の人たちのあたたかい心や純粋で無邪気な島の子供たちとの触れ合いであった。やがて心をひらいていく西郷。
そして島随一の名家・龍家の出身の愛加那との正式な結婚式を挙げる。
一般にひろくイメージされがちな、いわゆる「愛人」ではない。
そのことはこのパンフレットを読めばよくわかるだろう。
このことはもっと強調されてよい。
愛加那との結婚によって西郷は、こんどは「心の蘇生」をはたす。
結婚を機に戸間(とま)から愛子と変名。
あの敬天愛人につながる西郷による命名なのかも知れない。
大島・龍郷に3年ほど。その半年後徳之島に二か月半、さらに沖永良部一年半の遠島。
島妻・愛加那、長男菊次郎、西郷唯一の娘の菊草の生き方にも西郷を癒し、敬天愛人の母体にもなった島人(しまんちゅ)の心の豊かさが感じられる。そしてそれは3度目の妻・鹿児島のイトも同じだ。
A3縦二つ折りをさらに横三つ折りの計12頁の体裁は旧版と変わらない。内容に若干の変更があって、その一番大きな点をあげれば、江戸末期の頃より奄美の女性たちによって織られ、現在の大島紬の技術へとつながるといわれる花織(中国から伝わった綾織)のカラー写真だろうか。ここでも愛で紡ぐ女性たちの情熱が語られる。
あと、斉彬によって奄美大島で試行され、次期藩主忠義により実行された薩摩藩の白糖製造の
の年譜と、工場の場所の地図と説明、それに表紙の「喜神を含み、下坐に生きる」という先哲の人生の教えの言葉だろうか。
あ、それから地図上の史跡説明の中の
⑨重野 安繹(しげの やすつぐ:日本初の文学博士)私塾跡の説明文が赤字で内容も充実しているのも見逃せない。
西郷と同時期に奄美大島南部の阿木名に遠島になり、竜郷への三日がかりの道のりを
互いに行き来し、島の子どもらに学問を教え、のち薩英戦争の戦後処理に辣腕を発揮し、また菊次郎二度目の渡米にあたり国学の指導にあたったという重野。
日本史のなかでも重大なできごとであるにも関わらず教科書の薩英戦争に記述は少なく、重野の知名度も西郷と比べるとあまりに低い。
一般の西郷本で、重野の奄美での話に触れているのは今まで読んだ記憶がたどれない。
あ、この版では、その重野が後に語った「島流しで、かえって学問を仕上げた」という言葉が追加で簡潔に紹介されている。追加は一行だが下線が施されていて、とても重要だ。
これだけの大学者が学問を仕上げるほどの書物が当時の島にあったという環境を思うと、これもまた今までの島の歴史感がおおきく揺らぎそう。重野が自分で持ち込んだ書籍だけでは、ないだろうと思われる。
重野 関連記事このブログ
「重野安繹先生流謫の地 寺子屋跡」 木碑 奄美 鹿児島県大島郡瀬戸内町阿木名(せとうちちょう・あぎな)
今回も、もう忘れていた西郷の事績や知らなかったトピックや、それらの意外なつながりなど、盛りだくさんな内容を、親しみやすく、巧みなレイアウトで充実させている。
よく言われる、維新後の西郷の行動の分かりにくさも、これを読めば、いくらか矛盾がとけるだろう。
これまでの奄美大島での西郷研究の遅れについても考えるきっかけになった。
平成29年度の県立奄美図書館生涯学習講座「あまみならでは学舎」
の11月の講座で、この奄美発の西郷(せご)どんに関する授業があるようだ。
なんとか万障繰り合わせて受講したい。
===
関連記事
奄美新聞 2016.11.10 カテゴリ:本社通信
奄美発の西郷像発信へ