奄美大島、名瀬付近で、かつてよく使われた方言「はめつける」は嵌り込んで一生懸命励む、ほどの意味の、いかにも奄美の方言と思ってた。
奄美方言の積もりが実は薩摩由来っチよく有る 有名な薩摩弁「ごわす」も京公卿言葉の名残 ★8代重豪は薩摩人の粗豪、偏狭・頑迷、独特な言葉、非社交性の原因たる鎖国をやめ武士らの言語、服装、挙措等を矯正 ☆重豪の蘭癖に奄美領民も苦しんが都会化策は進取の気風を生み維新運動への素地となった
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2015, 7月 19
西郷p376「ところで、あとがまがまた入っちょる塩梅(あんべ)でごわしてなあ。不埒なことでごわすが、これもよろしゅう頼みもす」
木場伝内 「ほう、そらまたハメツケ(精励)方(かた)ごわしたなあ。ようごわす、ようごわす。引き受けもしたぞ」p377
こんな場合決して深刻な顔と深刻な表情では語り合わない、仲のよい薩摩人同士の諧謔まじりの問答。最も薩摩的な男の対話調。であると。
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上野の銅像から説き起こされた第一巻
維新の尊王論や薩摩藩の歴史を説き、西郷の成長の過程が描かれ、
やがて斉彬の抜擢、水戸・徳川斉昭側近・藤田東湖からの薫陶、藩政改革、お家騒動、ペリー来航 将軍世子問題 井伊直弼登場
のあたりで終わる。奄美渡海の話は斉彬の登場、お由羅騒動あたりで、ややくわしくなる。
第二巻
斉彬の急死、安政の大弾圧が厳しくなり、西郷の身辺もあわただしくなり。
西郷は悲観にくれて僧月照と合い抱き合い錦江湾に身を投げ、一人蘇生する。
幕府捕吏の追及を逃れ藩命により奄美大島での移住が始まる。
最初は島に慣れず、自棄になる西郷だが、次第に互いの理解が深まり、
精神の安定、充実を取り戻す。その次第は、「西郷と陽明学」の一節が加わり、重厚な筆致。
奄美の人々の言葉はわかりやすいよう、よく知られた鹿児島言葉風になっている。
しかし、めくじら立てるととではあるまいと思えば、そう違和感はない。
ある日、地元の達人の猟師と行った狩場で失敗。猪狩の腕を貶され、恐縮する西郷。つづく失敗。だいばん猪、捕り逃がす。罵倒にもめげず(こいは、まこて、重ねがさね、あいすまんこつでごわすっ)再度教えを請う西郷。猪は捕れず。「あっげっ、げえ、もう、あんたみたいないんがには、教え切らんど、ちゃ、ばあど。しった、3回もばくらせばや~。(←この方言は私の想像)それでもくらいつく西郷の姿。狩場ではリーダーの命令は絶対だ。英雄といえども・・だ。西郷あとで豚を馳走して礼をあらわす。このあたりの描写は圧巻だ。
そんな中、島の名家(龍家)の流れをくむ美しい娘との結婚。人々の申し出はことわりきれなかった。
長男(菊次郎 後の京都市長など)誕生とつづいて、新居の落成、などできごとがつづき
ついに、風雲急を告げる鹿児島から待望?の召還状が西郷のもとへ届く。
冒頭の鹿児島弁のやりとりは、鹿児島から赴任してきた役人と西郷の会話だ。お腹の子は菊草(のち大山巌の弟の大山誠之助の妻となる 菊子)と思われる。
読みなれた目であらためてみれば、島の中のよい男同士の会話のようにも聞こえる。
むしろ、島特有の諧謔まじり、冗談まじりのまじめな話のようにも思える。
たぶん多くの日本人にも、うなずけるところがあるのではなかろうか。
そうであれば、やはり西郷は(内村鑑三)いう『代表的日本人』なのだと思う、ところが随所にあった。
つづく