奄美 海風blog

写真。植物や本 ネットで映画感想。相撲見てツイート
04年4月~14年11月ブログ人
トップへはタイトルをクリック

奄美の高倉の用と美を考える

2005年02月11日 | 歴史 民俗
050211-Takakura-Granary-1
昨日の秋名(あきな)に次いで、高倉の写真を撮ろうと、大和村に向かった。現地で、充電中のカメラのバッテリーを忘れたことに気づき、引き換えした。
もう一度行く時間も気力もなく、近くの奄美文化センターへ。
結局、高倉の屋外展示はここが一番充実していると思った。おまけに今日は、屋根の葺き替え作業をしていたので、蔵の中まで覗くことができ、ラッキー。

050211-Takakura-Granary
高倉の屋根のすぐ下の部分が、稲の脱穀・調整までの一時的保と、翌年までの種籾の保管場所(穀物倉庫)として使われたという。
釘は使わず、倉庫の中の穀物を、台風や、湿気、ネズミの害から守る構造になっている。
第一印象はは「素朴」。民俗学の基本のひとつは「比べる」ことらしいのだが、いろいろ見ていると、奄美の高倉は実に美しいのだ。
それに、蔵を上にあげるというのは、単純なようだが実にいい考えだということに気づいた。
昔の、富農、豪農とか分銀者(ぶぎんしゃ)になった気持ちで考えた(平成の、どろぼうになったつもりでもよいのだが)。
一枚の板を階段状にけずった、ハシゴがなければ蔵には登れない。登って物色中に気づかれ、ハシゴをはずされたら、現行犯逮捕も容易だ。入り口は狭く、中は暗い。下からハシゴで出口をふさぐことも出来るだろう。ハシゴでつつかれ、頭でもクォラワサれたらドロボウはたまらない。(昔の奄美にドロボウ対策は必要だったかどうかはあとで考える)
子供や女性は、蔵には登ることは許されなかったと聞いた。
高倉は、形は違うが東南アジアのラオスや、沖縄、八丈島、アイヌにもあるらしい。

古代以来の伝統をうけつぐ奄美の高倉の調査研究をしている学生さんたちがいることはたのもしいが、つくりきる人がおらんくなったら、絶滅だって危惧される。
1971年、奄美諸島の高倉は、茅葺、トタン屋根合計1152棟、1984年には501棟に激減。

参考 下野敏見 著 『奄美、吐【カ】喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』 鹿児島県の伝統文化シリーズ (3) 2005年2月10日発行

今日の写真は、とりあえずここ奄美海風荘アルバム高倉Takakura-Granaryにアップしました。

奄美の高倉を見ることができる主な屋外展示施設
奄美文化センター、一万人ひろば(名瀬市)
大浜海浜公園(名瀬市)
奄美パーク(笠利町)
大和村大和浜のボレグラ(群倉)県道脇
鹿児島県立博物館(鹿児島市)
など


<余談>
『南極のペンギン』という本の著者とこの高倉とのつながりはありませんが、この本の「奄美の画家と少女」という章の画家とは田中一村のことで、上の写真4枚目の高倉のイメージの建物は田中一村記念美術館です。







文化の里

2005年02月10日 | ドライブ
050210-akina
公爵さん(さん付けでいいのかな)、コメントありがとうございます。
「ショッチョガマ」、「平瀬マンカイ」はすっかり有名になりました。

050210-kanban

名瀬から、秋名、里、幾里、東の付近の手前。
奄美の国道、県道で両側が水田というのは、ここ以外に思い当たりません。




どぅくさが命

2005年02月08日 | ドライブ
050208-pole「どぅ」は胴で体。自分という意味のときもある。「くさ」はこそ。KuSaのuとaをoに替えると「意味が移る」。すべてがそうではない

ナントカ主義、第一主義、至上主義とかいうと難しいギロンになりそうです。
「命(ぬち)どぅ宝」はすこし重い。

「我思う、故に我あり、じゃぁないですよね。」
「そんな単純?なことではないと思うよ、もっと有難い意味が」
「スピード落とせってことですかね?」
これ以上ギロンすすまない。


運転中後ろを振り向くのは危険、バックミラーで、ポールの反対面には、大島紬 龍郷柄発祥の地とあった。
本場奄美大島紬

ここは、龍郷町(たつごうちょう)嘉渡(かど)。県道のカーブ。奄美北部の東シナ海側ドライブコース。海に沈む夕日が美しい。

そんなに、急がないでどこへ行く


仏像墓、1725年ごろの奄美

2005年02月03日 | 歴史 民俗
050203-sakura奄美自然観察の森は、とっくに春だった。ここのヒカン桜の開花宣言は1月5日。宣言は、名勝地といわれる沖縄県名護市より一足早かったので、気温の低い山間部から咲き始めるというヒカン桜の特徴とともに、多くのメディアが伝えた。名瀬の平地で「花見」の名所といわれるところはあまり聞かない。
マイクロバスで来ていた地元のお年寄りたちは、すこし寒そうに見えた。いや、着込んでいたので、暖かそうに見えた、というべきか。





050203-kanban
西郷南州謫居跡まで2.4km」という案内標識に従って森を降りた所のこの標識の前で、右腕を曲げ、ひとさし指で「あっち行く?」ことにした。大概の観光の人は、「こっち」に行く所だ。
後ろは集落の共同墓地。その後ろは県道、水色のきれいな内海は龍郷湾。は、シーカヤックを楽しむ観光客の人の姿を時折見かける所でもある。写真には空色の空も写っている。
050203-Buddhist-image
ここへ曲がるすこし手前の道路脇に、龍郷町教育委員会の説明板がある。
それによると、この仏像墓が町の文化財に指定されたのは、昭和54年12月20日。
等身大の地蔵と破風式の墓石ともに1725年代のもの。
石質は加治木石と思われるが、当時これだけの彫刻を施した墓石は龍郷町ではここだけ。
笠利家十代頃の由緒ある人々の墓らしい。

地蔵の円柱石には、享保十乙巴歳七月・・・と読める。
刻字はおどろくほど鮮明だが、読めない漢字もあった。

2005-1725=280年前
1725-1611(奄美5島、薩摩藩の直轄領となる)=114年経っている。

1777年、藩による奄美の砂糖の惣買い入れ(第一次)。
1778年、藩から派遣された徒目付の得能左平次という人は島民の良き理解者といわれる。
その彼の大島紀行文にある、当時の大島の島民の様子を記した次の文は、奄美の歴史書で、たびたび見かける。
「家々の労(つかれ)言うもさらなり。腰打ちかけて足を休むる家なく、渇きさえ忍び兼ねるほどなり」
漢字とカタカナの文を読むのに精一杯で、この文で昔の奄美の島民全体をイメージしていたら、この仏像を見たら「衝撃」を受けます。あるいは、この記事同様、「意味写らん」かった知れません。

この、1725年(享保10年)、徳之島の面縄(おもなわ)に尾張の船が漂着、破船している。
徳之島に二ヶ月あまり滞在した、この船の船頭の当時の徳之島での見聞が、「徳之島物語」として書き残されている。
(徳之島郷土研究会報第11号 昭和60年12月発行にその解読文)
何の偏見ももたない、本土の人の目をとおして、当時の徳之島、その他の奄美の人々の、意外に豊かな暮らしぶりや、島の人々の温和な性格などを垣間見ることができる。
その後の島はどうなったか、これから勉強する。

墓のまわりは、きれいに手入れされていた。生花はない。
この墓の敷地の隣には何もないもうひとつの敷地が。

OCNブログ人、今日も不調。

050203-Buddhist-images-2

嘉徳鍋加那の墓と比べる
2004.12.28
嘉徳鍋加那節




落ち葉から春

2005年02月02日 | 気象 お天気
050202-otiba
強風が吹く、名瀬の街を取り囲む山の林道は、場所により、ほとんど無風。
名瀬の街は、すこし見ないうちに新しいお店が出来たり、廃業したりと、めまぐるしい。
林道脇の植物は、景気に関係なく、着実に移りかわっていきます。
全国各地の吹雪の様子を伝えるニュース映像を重ねて見れば、ここでは春のおとづれ、の兆し。
そうでないと間に合わないハズだと思ってカレンダーを見て、保存ボタンを押す。

12 11.8 無し 北北西 4 58 無し 1019.8



斜面の木

2005年02月01日 | 本と雑誌
050201-akatuti削りたての土の色はあざやかなオレンジ色。うすいピンク色に見えることもある。
写真を撮った時の実際の土の色も、もっと赤かった。

奄美ルネサンスともいわれる赤土文化のことを書こうと思ったが、写真の色が悪いので、以下3冊の本の名前を書いて話題を変えます。

伊集田實劇作集』-劇団「熱風座」とその周辺
       道の島通信社 228頁 2000円

伊集田實 著 『犬田布騒動記』 海風社

伊集田ヨシ著 『徳之島望郷』 日本随筆家協会

車の中から風景写真を撮るときは、車の窓に写った、車内の物がカメラに写らないよう注意が必要です。
ウィンドーにレンズを近づけることで防げます。
写真が悪いので、土の色から目をそらして、山の木をご覧下さい。
電柱のように、運転席に対して垂直には伸びてません。何に対して垂直といえばいいのでしょうか。髪の毛のようです。

12 11.2 無し 北北西 5 54 0.1 1013.8