『大西郷の悟りの道』―「敬天愛人」とキリスト教 単行本(ソフトカバー) ? 2015/4/23
坂本 陽明 (著)
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amazon 内容紹介
西郷隆盛の思想の主柱をなす「敬天愛人」。その源流を探る――。 「敬天愛人」の思想が東洋儒教思想に拠るのは自明とされてきた。 今、著者は西郷とキリスト教の接点を検証し、もう一つの西郷の宗教的境地、究極の愛の生き方から、「敬天愛人」の源流を探る。 「西郷の思想形成の過程を丹念に追い、類例のない西郷論を新たに構築した。」 ――西郷南洲顕彰館館長 高 毅 「西郷隆盛が、生き方のモットーとした「敬天愛人」に、キリスト教的見解を加えて論じている点で、本書は、まさに画期的である。」 ――医学博士 石原結實
登録情報
単行本(ソフトカバー): 238ページ
出版社: 南方新社; 1版 (2015/4/23)
言語: 日本語
発売日: 2015/4/23
私にとって本書を理解するためのキーワードの一つは「陽明学」なのだが、それはさて置き、その周辺の事柄について調べるにとどめたい。
司馬遼太郎も指摘しているように陽明学に心酔した人は、破滅の道をたどるしかないのであろうか。
幕末の吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山、大塩平八郎、昭和では三島由紀夫も挙げておこう。高い志をもってことにあたり、最期は非業の死、というイメージが強い。(例外もあるが)
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先週、記録的な視聴率の低迷がいわれる大河ドラマ『花燃ゆ』総集編をたまたま見た。
禁門の変のシーンであっただろうか。
長州藩の前に立ちはだかる西郷吉之助の姿が一瞬あった。
吉田松陰の妹で主人公の「文」の夫、久坂玄瑞は松陰の評価も高い。
久坂らは朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で、聞き入れられず自害するとというころで、総集編は終わり、ドラマはどうやら今後、新しい展開をみせそうだった。
一瞬見たあれは元治元年(1864年)6月、御所での長州と会津・桑名の衝突、戦闘に、援軍として駆けつける薩摩藩の軍賦役(軍司令官)としての西郷の姿だったのだろう。
その禁門の変があった元治元年(1864年)の2月、西郷は2度目の遠島を許され、沖永良部島から痛む足をひきずり鹿児島に帰ってきたのであった。(王陽明もまた、意に反してはるか僻地に左遷された経験をもつ)
本書の説明する、その後の西郷の行動と思想の詳しい検証から、西郷の「敬天愛人」とキリスト教と結びつきは、説得力があった。
西郷は王陽明の主著『伝習録講義』、陽明学者・大塩平八郎の『洗心洞箚記』(せんしんどうさつき)、王陽明の先駆をなした陳龍川の『龍川文集』、陽明学者・佐藤一斎『 言志録』などを学び、これらの書物は、奄美・沖永良部へも携えて行った。(本書P48で知った)
西郷が『書経』のなかの言葉「敬天愛人」について考えを深めていったのも、奄美での体験が大きいと考えられている。
西郷は毀誉褒貶からは超然としてあるのだろうとは思うものの(そう思えるようになったのも最近だ)
奄美にいると(にもかかわずと言うべきか)西郷に対して若干の偏見と複雑の気持ちをもってしまいがちでいた。
本書は、それは知識不足だと気付かせてくれた。その意味でも本書は私にとって画期的であった。
(西郷の反知性主義(と簡単にかたづけることはできないが)と行動主義の限界も感じるのだが、それも知識の不足か)
時代は大きく変わろうとしている。
いまどきナゼ西郷か?と問われそうだが、右とか左とかを越えて西郷の読み方も変わるだろう。
きょう16日午後、憲法解釈の変更により集団的自衛権行使を可能とする安保法案が衆院本会議で可決、参院に送付された。
使節団出発後、留守政府の西郷内閣が行った改革は学制・徴兵令・地租改正・太陽暦の採用・司法制度の整備・キリスト教弾圧の中止などかなり大きいのだが、「征韓論」ばかりが言われる。
<ここに西郷と大久保の資質の違いについて、調べて書く>
アメリカ映画『ラストサムライ』2003年は、架空の物語であるが、三島由紀夫が『革命哲学としての陽明学』の中で、西郷隆盛は死にいたるまで大塩平八郎を愛読したと指摘した西郷の悲劇的な生涯が、物語の出発点になったという。wikikedia
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沖永良部で、西郷の牢をたびたび訪ねた、流人の学者・川口雪蓬も陽明学を修め、書を能くすといわれる。
川口雪蓬については、改定 名瀬市誌(1巻歴史編 平成8) p519 にやや詳しい記述がある。
ああ、とりとめのない記事になってしまいました。
西郷が少年期に仲間らと読んだ「近思録」は朱子学の入門書であるが、誤解もある。朱子学は単なる世間でいわれるような「封建道徳」の書ではない。
西郷と陽明学については、いくつかの議論がある。
海音寺潮五郎の大長編史伝 『西郷隆盛』第一巻 新装版 朝日新聞 P42~43で朱子学と陽明学について世間の誤解に異論をとなえている。このページを誤解なく要約するのは簡単ではないので、最後の西郷や高杉の時代「彼らの学問の根底は飽くまでも朱子学だ(中略)陽明明学は維新運動に挺身するようになってから、陽明やその学派の書を二三読んでいるにすぎない」 「とくに言いそえておく。西郷は陽明学の書は一冊も読んでいない。」という部分だけ指摘しておこう。
追記 『西郷隆盛』第三巻 p321~323 「西郷と陽明学」で「以上、縷述して来た通りであるから、概述して、西郷は陽明学徒とあるといってよいと思うが、その悟達は陽明学によって達したのではなく、独自の工夫で達し、その達した所が陽明と同じであったという次第である。」と述べている。
西郷の奄美大島龍郷移住も一年ちかくが過ぎ、生活にもなれ島民にしたわれながら充実した日々がつづき、ご隠居斉興の死など藩でも京、江戸でも情勢が急変しているなか一節として登場する。王陽明が左遷されたはるか僻地の貴州省「龍場」と「龍郷」は地名も似ている。王陽明が37歳、西郷は33歳、歳も近い。「知行合一」「敬天愛人」の内容も同じであることも説かれ、やがて物語りは桜田門外の変へと移っていく。この文脈は、興味深い。
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