カフェテラス

テラスの片隅で一人心に呟くように

恋野 あじさい園

2007年06月18日 | ☆季節



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今年も訪ねた紫陽花の里
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「恋野の紫陽花、これから見に行く?」
「うん、あと1周で終わるから待って。」
ウォーキング中の携帯のやり取りで、恋野行きを決めた。
彼女と同じコースを歩いているが、行く時間も、歩くペースも違うのでいつも別行動の歩きだが、駐車場にある車でその日、運動に来ているかどうかがお互いに分かる。
駐車場に戻ると彼女の車に便乗して和歌山県橋本市恋野のあじさい園に行った。
和歌山県といっても上野公園とは隣接で、一度家に帰るよりも距離的に近い。

前日の雨で紫陽花の花は生き生きしていた。
やはり紫陽花は雨に似合う花だ。
行って驚いたのは、あじさい園の傍の池の周りが綺麗に整備されていたことだ。
この里では紫陽花と共に周囲の景観にも力を入れているのだろう。
高齢者施設の車が2台、紫陽花の間の道を通ってゆっくりと山に登って行った。

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法輪寺三重塔 斑鳩三塔

2007年06月18日 | ☆ ふるさと・大和


法輪寺南門

民俗公園からの帰り、斑鳩三塔の一つでまだ行っていなかった、法輪寺に立ち寄った。
お参りはまた別の日にゆっくりとしたかったので、塔のある風景を外から写真に頂いた。

「推古30年(622)山背大兄王が父聖徳太子のために建立したと伝えられます。
法隆寺式伽藍配置をとり、七堂伽藍が完備していました。」

広域情報(県内市町村紹介)の斑鳩町のページにはこのように書かれていた。
しかし創建当時からの長い時代の中で、沢山の災害を受けて今日に至っていることを知った。


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マウスオン・ワンクリック・3画像

「斑鳩町三井(法隆寺から徒歩15分)
法隆寺、法起寺とともに斑鳩三塔とその美しさをたたえられた三重塔は、昭和19年(1944)に落雷で焼失してしまいました。
その後、「五重塔」の作者露伴の子である作家の幸田文さんをはしめ、多くの人々の尽力で昭和50年に昔ながらの工法と規模で再建されたというエピソードは、あまりにも有名です。」


『1944年(昭和19年)7月21日、三重塔が雷により焼失する。』

京都、奈良は神社仏閣の由緒ある貴重な文化財があるため、戦火から免れたことは確かであるが、米国の賢明な計らいも虚しく、法輪寺の三重塔が消失してしまった直接の原因は落雷だったというものの、落雷から守るための避雷針は、太平洋戦争の金属供出で撤去されていたとのことである。

当時、どの家庭からもあらゆる鉄製品が、供出されたことは国民学校低学年だった私の記憶にもある。
再建以前の三重塔は、戦争の犠牲になったともいえよう。
多くの人の善意の浄財で再建された塔を見上げて、現在の平和が末永く続きますようにと願わずにいられない。

塔の風鐸の音は天の奏でる音と言われている。
この音を、聴きながらゆっくりお参りしたいと思う。

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タイサンボクの花

2007年06月17日 | ☆季節

民俗公園の散策を十分に楽しんだ。
矢田丘陵に吹く緑の風が心地よい。
風が香りを運んできた。
大山蓮華に似た香りだが微妙に違う。
甘い香りに導かれて見上げた高木のあちこちから顔を覗かせている真っ白な大きな花を見つけた。

「泰山木(タイサンボク)は上品で風格のある木である。かなり成長してから花が咲くようになるが、春の白木蓮や初夏のホオノキと同じような大きな白い花を付ける。モクレン科を代表する花である。モクレン科に属するものは、前述の他、コブシ、オオヤマレンゲ、タムシバ、ユリノキ、などがある」


図鑑では上のように書かれていた。
中学校の時、校庭の隅にタイサンボクがあった。
しかし花の記憶がないのは、まだ若木だったのだろう。
今年は、白木蓮、辛夷、大山蓮華、ユリノキと、モクレン科の花の季節を楽しんだが、大和郡山市矢田の民俗公園で、まるでモクレン科の女王のような花との出会いがさらに印象深かった。

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ふうわりといい香りが頭上から
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大和民俗公園 ② 山の恵み

2007年06月16日 | ☆ ふるさと・大和


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マウスオン・2画像

大和民俗公園の広い敷地内には、適度に休憩スペースがある。
吉野集落の傍の藤棚は、いい木陰を作っている。
長い藤の実が沢山ぶら下がっている。
花の季節には綺麗な花が見られたことだろう。


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マウスオン・ワンクリック・3画像

山深い十津川から移築された民家旧木村家である。
外壁は全て木材を使っていることも、さすが木に恵まれた山間の民家の特徴だ。

入ってすぐ左に別棟にツシニ階の建物があり、階下に物置などが造られている。
一段上が母屋になっているのも、山の傾斜地をうまく利用したものであろう。
屋根は杉皮で葺いてあり、谷から吹き上げる強い風に耐えるように置石をしているのも、山間の民家の造りの知恵と工夫だと感じた。


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マウスオン・ワンクリック・3画像
旧前坊家は、吉野山の門前通りに建てられていたものを、移築したと説明板にあった。
やはり吉野の豊かな山の恵みをを材料としていることが窺える。
外壁は木材部分もあるが、主に杉皮を使っている。
神官の家であったらしいが、かなり大きい吉野建てで、離れへの渡り廊下がある立派な造りは、鄙びた山の宿を連想するようだ。



大和民俗公園の4つの地方別の古民家を見てまわったが、それぞれの地方の先人の知恵による、環境風土に合った建物を、興味深く見ることが出来た。



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大和の古民家 ① 宇陀・東山集落の旧岩本家

2007年06月15日 | ☆ ふるさと・大和


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宇陀・東山集落・旧岩本家・その1
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大和民俗公園の古民家は4つのブロックに分かれている。
先日来た時は、「町や」と「国中(くんなか)奈良盆地」のブロックを見たところで、大雨になって見るのを打ち切った。
今回は3つ目のブロックの民家の中で、重要文化財の岩本家をUPした。
二段のスライドショーにしたのは、意図したものでなく、縮小する時に画像を皆500にしてホルダーに入れてしまったからだ。

一つのスライドショーにして12枚、各6枚ずつを両脇に置くつもりでいた。
これには400に縮小しなければ収まらないだろうと思われた。
アドレスも、画像の題も全てメモ帳にコピーしてから気が付いた。

もう一度小さくする気力もない。
つまり面倒なので500のままの大きさで するのにはこのように2つのスライドショーに分ける手軽さを選んだ。
これがB型人間の私の「まぁええわ」的な面である。

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旧岩本家・その2
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このような造りの家は、田舎に行くと子供の頃には、よく見られた。
こんなに立派な家ではなかったが、かまどやトイレ、農具など、懐かしいものがこの岩本家には沢山あった。
農耕に使う牛小屋が玄関土間の端にあって、家族同様に牛が大切にされていた時代だった。
深い軒のある縁側に座って、子供の頃を思いやったりしていると、涼しい風が開け放した裏庭の方から吹いてきて心地よい。
夏を涼し過ごす暮らしの工夫もされている住まいである。




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