映像:むつ湾越しに見る本州最北端の都市はまるで洋上都市のように見える。
青森県むつ湾の奥に街が見えてきた。筆者の一週間の北海道温泉探査旅行を
8月4日から本ブログに紹介してきたが、漸く旅の完結編を迎える事となった。
来年も、北海道なのか九州、甲信越なのか、温泉の有る地域探査を検討中だ。
2011北海道温泉探査紀行 完 (2011.7月25日~7月30日)
映像:江戸時代の思想家吉田松陰の碑は竜飛岬から津軽(国際)海峡を睨む。
江戸末期の思想家吉田松陰は本州最北龍飛岬に立った。何を思ったのだろうか?
時に1852年、『…外国船が自由に往来している津軽海峡を此処龍飛岬から見た
かった願望の地である』と石碑に書き記されている。日本の将来を憂い、政治、
世相を憂い後に疑獄事件で斬首刑、日本は貴重な人材を失う。しかし吉田松陰
の憂いは弟子高杉晋作らに引き継がれ、維新を迎え、近代国家から現代に至る。
政治はいつの世でも、何処の国でもこの様な犠牲を強いる。まさに憂国の士だ。
映像:雪中行軍で遭難した青森歩兵第五連隊の後藤伍長像は生きるパワーを放つ。
指揮官によっては部隊がほぼ全滅するか否かをこの悲劇が物語っている。総勢210
名が青森~田代温泉の雪中行軍演習、片道20km、1月23日より1泊2日の予定の
筈が当時最大級の低気圧で暴風雪に遭遇。部隊は統率を失う中、最後まで斥候を果
たした後藤伍長が起立し仮死状態のまま発見された事象をこの銅像は表現している。
検証:210名の訓練部隊は最終的に11名しか生存しなかった。つまり、訓練で入山
した八甲田山中で199名の命が奪われた。この悲劇は小説や映画化されて多
くの人々の記憶にあるだろう。一方同じ時期弘前の31連隊38名が、弘前~
十和田~八甲田~青森220㌔を一週間で訓練行軍し全員生還している。偶然
とはいえ事前準備、指揮官の在り方等が青森第五連隊とで比較されるところ
参照#映画「八甲田山」
映像:秋晴れの裸島、背後に津軽半島、下北半島が見える(2008.10.5)
太宰治が引潮時に島の岩場で昼寝をし目が覚め満潮になり岸へ戻れなかった。
棟方志功が島のテッペンに突き刺さった鉄柱の経緯を聞いて怒った。(椿館亭主)
浅虫温泉と言えば、裸島が脳裏に浮かぶほど、浅虫の印象深く象徴的存在だ。
実話:小生が小学校時代遠足でこの島に来て引潮時に周辺でカニ採りをした。
青森県立美術館で芸術に親しんだ後、頭安めに縄文の丘を散策。美術館からは歩いて
数分、連絡路を抜けると直ぐ三内丸山の丘。ここに縄文時代の生活の場が復元・保存
されてる。まるでタイムトンネル。現代と古代の境目を逍遥する四次元の旅人になる。
映像:横浜町山手で探し当てた菜の花美観スポット。陸奥湾越しに恐山連峰を望む。
野辺地からいよいよ、下北半島へ。途中菜の花で町興しをしている、横浜町を通過。
折しも『菜の花フェスティバル』真っ最中。テレビの映像で見る限り海辺に一面に
咲いていたが、なるほど実感。菜の花畑、陸奥湾、恐山連峰これも日本の絶景景観。
津軽平野に美しい姿で眺めるられる岩木山。麓では秋が深まりつつある。何気ない
田園の風景も豊かな表情で存在する。これも岩木山があればこそのもの。絶景かな。
石川啄木の悲しい詩が甦る 『・・・ふるさとの山に向かいて言う事なし』
此の歌を口ずさみ、ず~っと山を見ていたい。
津軽青森はりんごの美味しい季節だ。りんご農家が大事に育てた
果実は素晴らしい形状と味になった。実りの秋を実感するりんご
畑。さまざまな種類のりんごの木を観察、気に入ったらもぎ取る。
効果:酸味と甘さが口に広がり古来『医者知らず』と言われ一日
一個で健康が保てるとか。やはり、青森県を代表する果実
天空を突き刺す奇岩白岩の列。恐山と対なす奇勝である。視界は海に開け後方の絶壁
は恐山へつながる地獄山道だ。恐山が地獄山なら此の地は浄土の浜だ。まさに仏の浦。
この岩礁の奇観・奇勝を青森県の観光の祖とも思われる大町桂月が歌に現わしている。
『神のわざ 鬼の手づくり 佛宇陀 人の世ならぬ 処なりけり』
( 大町桂月 )
下北半島を代表する景勝地、映画のロケが敢行された。三国連太郎が扮する殺人犯が
遭難し、上陸したのが此処。昭和の名映画『飢餓海峡』を鮮明にした場所なのである。
参照#大町桂月(酔仙人)探訪紀行
鰺ヶ沢町『熊の湯』を探査したついでにご当地の名所を訪ねた。岩木山を迂回する形
で渓流釣りの上流を遡るとやがて涼しげな滝音が聞こえてきた。くろくまの滝。西海
岸では唯一の山里の滝。この先は山深い白神山地に至る。此処はその先端部分である。
記録:落差85m 滝幅15m 赤石川水系(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町一ツ森町)