映像:大牟田市三池港内にある三井・三池炭鉱関連施設(世界産業遺産)
かんぽの宿柳川前バス停からローカル線で西鉄柳川駅に戻る。
そして西鉄大牟田駅で降りて、路線バスにて三池港へ向かう。
ここは筆者が訪れた直後世界遺産(近代化産業)に指定された。
解説:筆者はこの港が世界遺産になるとは知らなかった。柳川
から最終目的地雲仙へ最短コース:高速フェリーにのる為
に、港へ向かっただけであった。偶然とはいえ素晴らしい
映像:水郷の水路をどんこ舟が行き交うのを、浴室から観察できる素晴らしい景観だ
(柳川かんぽの宿:柳川市弥四郎町10-1)
今回柳川市のミッションはある温泉評論家の勧めで実現。最終目的地の雲仙温泉とは
余りにも距離が離れすぎて思いつかなかった、しかしI氏の一言で来訪を決めた。勿
論、柳川市は遠い憬れの地でもあったから。まさか、名湯の地とは思いもしなかった。
【Data】含食塩-重曹泉 48℃ PH8.2 源泉:第三号・四号混合泉 238ℓ /分(動力)
水郷の堀割水路に白壁の倉庫・・・・水郷の街ならでは景観。
その一隅に。歌人北原白秋の歌碑が建っていた。白壁は
柳川藩立花家別邸「お花」の倉周辺、白秋の郷愁の景観
碑文:『我つひに 還り来にけり 倉下や
揺るる水照の 影はありつつ 』 (白秋)
解釈:夢にみた故郷柳川に帰ってきた。忘れ時の光景
どんこ船が行き交う柳川下りの水路。水面に浮
かぶ白壁の蔵屋の影々はなんと懐かしいことか
解説:北原白秋は故郷を離れ東京で文壇活躍し北海道
九州まで旅して歩いたがなかなか郷里には帰る
機会がなく、20年ぶりに帰った時の作品である。
感想:ここで筆者が北の歌人として敬愛する石川啄木
と対比すると興味深い。村を追いだされた寺の
息子と裕福な商家の白秋。悲哀がちがい過ぎる
参照#① 同じく望郷の歌 石川啄木碑 (渋民公園)
② 北原白秋(自然派詩人/童謡歌人)探訪紀行
水郷の街柳川市は北原白秋の生家がある町でもある。柳川藩13万石の
城下町柳川は明治まで続く安定した風土で、裕福な商家に北原白秋が
育つ文学的土壌。柳川沿いの風情ある佇まいは一層詩情を掻き立てる。
記録:北原白秋生家は海産問屋から酒造業へと辿り一時期柳川一、二
の富裕で、白秋はそんな環境で育ったがやがて大火罹災、没落
へと辿る。現生家は平成に入り、復元され白秋資料館も兼ねる。
参照#北原白秋(自然派詩人/童謡歌人)探訪紀行
川下りで掘割を進むと水郷の沖端町に至る。川岸に詩人北原白秋
の詩碑が建っていた。ぶらり水郷を歩き、碑文の刻印を確かめる。
碑文:『町祠(まちほこら) 石の恵美須の 鯛の朱の
早や褪せはてて 夏西日なり』(白秋)
解釈:恵比須神社に祀られている恵比須さんが担いでいる真っ赤
な鯛はいつの間にか色褪せたが強烈な夕陽が照らしている。
感想:北原白秋の詩は官能的、唯美的象徴詩とも言われているが、
褪せた鯛の朱色と夏西日対比、時空を越えた表現が面白い。
参照#北原白秋(自然派詩人/童謡歌人)探訪紀行
映像:水郷の街柳川 川下り風景。終点近くに白秋の生家
柳川(やながわ)は学生時代(高校)の憬れの土地だった。
白い装丁の北原白秋詩集を手にした時が始まりであった。
柳川は水郷の里で知られる。詩集に水郷の写真があった。
参照:北原白秋(詩人)探訪紀行
古湯温泉での温泉探査を終えて、次の温泉地に移動した。
今回はレンタカー無。なんとなく、バスと汽車旅がした
かった。乗ったのがスーパーエクスプレス「みどり」だ
経路:古湯温泉から、嬉野経由で武雄温泉まで路線バス
武雄温泉からこのスーパーエキスプレスで佐賀へ
佐賀駅から再度路線バスで水郷の街柳川市に向う
映像:嬉野温泉の寿司屋で上がり前に、温泉豆腐を味わう。
嬉野温泉名物:温泉豆腐。今宵は嬉野温泉のある寿司屋で
ビール飲みだ。随分と贅沢に思うかもしれないが、ささやかな
自分へのご褒美、あと数日もすると?才の誕生日なのですよ。
食感:重曹泉で出来た豆腐のうまみが、寿司店の秘伝のたれ
でなんとも味わい深い風味が出ている。筆者は汁も完食
映像:佐賀県嬉野温泉嬉野橋の欄干の有田焼モニュメント
佐賀県といったら、有田焼きである。温泉街の、そこここに
有田焼のモニュメントが目立つ。陶器のすべすべ感と美肌
の湯のコラボ。嬉野温泉は陶器の有田・伊万里の里に近い。
映像:熊の川温泉 公衆浴場熊ノ川荘の浴室景観(公式HPより)
古湯温泉から嬉野温泉にバスで戻る途中にあるのが熊の川温泉。古湯
温泉とで国民保養温泉地指定。地域内には旅館が数軒と小さな温泉郷
古湯温泉の帰りがけにチョイ寄り。ここは合理的である。入浴料金は
700円は9時~、500円は15:00~、300円は17:00~、つまり地元
民の入浴に配慮した形。旅人は700円でゆっくりと入ることが出きる。
【Data】:単純弱放射能泉 30.2℃(60L/m) PH9.29
(ラドン含有量 34.62マッヘ/kg)源泉:熊の川温泉熊ノ川荘源泉
浴感:古湯温泉同様ぬる~い湯。左手前の浴槽が加温で40℃前後だが
窓際は源泉投入、天河川を眺めながらノンビリ入浴。名湯出湯。
映像:筆者が探査した鶴霊泉の中庭にひっそりと建つ斉藤茂吉歌碑
鶴霊泉で知られる古湯温泉は佐賀県で唯一の国民保養温泉地である。
その温泉地にも歌人:斉藤茂吉の足跡が標されていた。斉藤茂吉は
山形県を中心に温泉保養をしたが長崎医学専門学校教授として滞在。
歌碑:碑文(斉藤茂吉)
『うつせみの 病やしなふ
寂しさは
川上川の みなもとどころ』
歌意:如何に高名であろうが、現実の私の心身は些末な事柄で疲れ
て、病んでしまった。なんとも切なく哀しいことだろう。今
は、川添の温泉宿で水の流れに任せるように安らぐのみだよ
解説:斉藤茂吉はここ古湯温泉で療養していた。その頃の歌である。
斉藤茂吉も又悲劇の歌人であった。妻との不和や文学仲間の
自殺(芥川龍之介)、激しい癇癪持ちなど心の病も垣間見える
推察:鶴霊泉は源泉温泉36度という霊泉である事を考えればここで
療養するのは心身を整る必要のある病と推測される。しかも、
斉藤茂吉は有能な医学者であり皮膚病や腰痛・関節痛などの
理学的療養であれば、高温・重曹泉の嬉野温泉を選んだろう。
佐賀県内の温泉は、武雄温泉と嬉野温泉を先に紹介したが勿論これだけではない。その中で
、今回あるミッションが下された温泉地がある。砂湯:鶴霊泉の足元湧出を確認することだ。
【Data】単純温泉(アルカリ性) 36℃ PH9.28 源泉:富士町第二源泉(鶴霊泉)
解説:ミッションを依頼したのは温泉研究家I・T氏、筆者が嬉野温泉に行くよと言ったら
ついでに『鶴霊泉』の足元湧出が本当かどうか調べて欲しいというもの、ここはバス
で現地入り、真直ぐ『鶴霊泉』へ直行だ。古湯温泉郷は小さな鄙びた温泉地だった。
結果:鶴霊泉はご覧の映像の二つの湯船からなっており手前は加温の湯船、奥が源泉掛け流
しとなっている。湯船に砂が敷かれてなるほど霊泉の趣きである。 夏暑い九州では
癒しの湯。源泉は映像でもわかる通り樋から掛け落としだ。足元には小さなパイプに
穴を幾つかあけ湧出を演出。しかし本来の足元湧出とはことなる。温泉研究家諸氏は
どの様に判断するかだ。ぬる~い身体に優しいお湯が好きな方にはここは天国だろう。
映像:長崎街道の嬉野湯宿西口横跡。源泉が流され温泉宿場の風情だ
日本には江戸時代五街道という国内大動脈があった。
東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道だ。
その他に重要海道があるが九州ではここ長崎街道だ。
解説:映像を観て気付いた人もいるだろう。無色透明であるが、綺麗
な豆腐状の湯花が析出される。そうここは温泉豆腐でも有名だ。
重曹泉の特質を生かし温泉水を利用した蕩ける様な豆腐が美味。
映像:塩田川、嬉野橋の袂、嬉野温泉公衆浴場シーボルトの湯の浴室
嬉野温泉は長崎街道の要衝でもあった。長崎は江戸幕府にとって最先端
の文化を得る重要な港街。その長崎に辿り着く前の宿場がここ嬉野温泉。
かの蘭学医シーボルトも江戸の途中この温泉宿場に立寄ったはずである。
【Data】重曹泉 73.4℃ PH7.68 源泉:嬉野温泉 清流源泉
解説:江戸時代、蓮池藩の湯治場が前身とされ、版籍奉還により地元有
力者が共同経営を始めたが、1922年正月に大火で全焼。2年後に西洋建
築公衆浴場が再建された。設計はドイツ人建築家とされ、昭和40年迄
賑わったが、1996年に施設の老朽化などで閉鎖された。平成22年に「シ
ーボルトの湯」として再出発。 この5年間で入館者25万人を達成した。
参考:シーボルトの湯再建には平成18年に合併した旧嬉野町、塩田町の
合併債を活用したと思われる。総工費3億3千万円である
浴感:嬉野温泉は濃厚な重曹泉が持ち味。この施設のように循環にして
しまうと湯趣がなくなる。ここではお宿の源泉かけ流しを勧める。
嬉野温泉は美肌の湯で知られている。泉質が重曹泉ということが
その最大の根拠だが、古来温泉街中心部にある豊玉姫神社の遣い
主として『白なまず』が祀られている。これも又、美肌神なのだ。
参照#白なまず(佐賀県豊玉姫神社)
解説:豊玉姫神社
温泉街の中心部にある「豊玉姫神社」は、古来より海の神、水の神
として広く祟敬を集めている。祀られている豊玉姫は、海の神の娘
・竜宮城の乙姫様。肌が白くて美しかったことから、美肌の神様と
して親しまれている。境内には「なまず様」を祀った小さな社がある。