映像:宮澤賢治記念館の入口に童話『猫の事務所』を思わせる寓話人形が置かれていた。
宮澤賢治は農学者というより童話作家で知っている人が多い。以下作品名はみなどれも懐かしい。
『銀河鉄道の夜』 『風の又三郎』 『ポラーノの広場』 『グスコーブドリの伝記』『どんぐりと山猫』『狼森と笊森、盗森』『注文の多い料理店』『烏の北斗七星』『水仙月の四日』『山男の四月』『かしわばやしの夜』『月夜のでんしんばしら』『鹿踊りのはじまり』『よだかの星』『カイロ団長』『ツェねずみ』『雪わたり』『やまなし』『氷河鼠の毛皮』『シグナルとシグナレス』『オツベルと象』『ざしき童子のはなし』『猫の事務所』『ビジテリアン大祭『雁の童子』『土神ときつね』『楢ノ木大学士の野宿』『マリヴロンと少女』『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』『虔十公園林』『なめとこ山の熊』『北守将軍と三人兄弟の医者』『セロ弾きのゴーシュ』
宮澤賢治記念館は小高い丘にある。門を入ると左手に大きな彫刻石版が展示。賢治の
童話からイメージしたもの。自らの「存在」への罪悪感から体を燃やして星へと転生す
るよだか、翼が流れ星の様に砕け散るまで空高く昇りついに星となる。若くして亡く
なった賢治そのものだ。砕け散り、空に輝く。流星群は宮沢賢治の魂、珠玉の作品達。
高村山荘で孤高の詩人を脳内に取込み、今度は花巻市の東部にある宮沢賢治記念館
へ向かう。光太郎と賢治の関係はやはり文学的な繋がりで同じ花巻市に二人の記念
館があるのは必然であった。宮澤賢治記念館への途中、まったく偶然に賢治の詩碑
を発見!した。その場所は宮沢賢治が農学校時代用水路の実地指導をした地だった。
~春と修羅より『渇水と座禅』~:宮沢賢治
にごって泡だつ苗代の水に
一ぴきのぶりき色した鷺の影が
ぼんやりとして移行しながら
夜どほしの蛙の声のまゝ
ねむくわびしい朝間になった
さうして今日は雨もふらず
みんなはあっちにもこっちにも
植えたばかりの田のくろを
じっとうごかず座ってゐて
めいめい同じ公案を
ここで二昼夜商量する……
栗の木の下の青いくらがり
ころころ鳴らす樋〔ドヒ〕の上に
出羽三山の碑をしょって
水下ひと目に見渡しながら
遅れた稲の活着の日数
分けつの日数出穂の時期を
二たび三たび計算すれば
石はつめたく
わづかな雲の縞が冴えて
西の岩鐘一列くもる
映像:山荘で初めて迎えた冬の作品「雪白く積めり」の詩碑が昭和33年に山荘の
そばハンノキ林の中に建てられた。詩碑の碑文は詩集「典型」の冒頭である。
高村山荘には光太郎の60年が凝縮されていた。そして智恵子は此処から十和田湖半
の乙女の像となって安住の地を得た。それは日本米欧を跨ぎ、最終的に本州の奥地
に委ねられたスケールの大きい軌跡だ。私達はこの物語を見過ごす事無く、偉大な
詩人・彫刻家のキラ星のごとくちりばめられた芸術情感を鑑賞しなければならない。
これが日本の美(自然・芸術・文学)なのだ。詩碑に刻まれた『雪白く積めり』は
62歳の高村光太郎の傷心と決意、当時のこの地の環境を手に取るように理解できる。
~雪白く積めり~ :高村光太郎
『雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点点とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に坐す。
風なきに雪蒲々と鳴つて梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峯はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
わづかに杉の枯葉をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を援めんとす。
敗れたるもの卻(かへつ)て心平らかにして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり 』
解説:妻智恵子を失い、戦争に敗れた日本と、それを鼓舞した自分に失意した
高村光太郎は宮澤賢治の縁で疎開した花巻、大田村で厳しい自給自足の
生活に入る。この詩歌は花巻での最初の冬に書いた決意の詩なのである。
映像:病弱な智恵子が里で静養中、高村光太郎と智恵子はよくこの小高い丘から
実家の方角を二人で眺めたという。(2008.04.26)
詩碑の丘。高村光太郎がここから妻智恵子の実家の屋並を眺め歌った詩が好きで、
学生の頃、弘前公園の本丸からよくまねっこし、『あれが岩木山、あの光るのが
岩木川、ここはあなたの生まれたふるさと…』と詠んだものだ。初恋の人がいた。
解説:智恵子は福島県の醸造元の長女として生まれた。大正期、日本女子大学校
に入るほどの才女でもあった智恵子は高村光太郎と運命の出会いをするが、実家
の没落と共に歯車が狂った智恵子は文字通り、「智恵子抄」の人になってしまった。
『智恵子抄』の好きなフレーズを光太郎&智恵子、ブログを見ている貴方に捧ぐ。
~樹下の二人~:智恵子抄
『・・・あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。
あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。』
~あどけない話~ :智恵子抄
『智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。』
この詩集を手に取ってから四十年も経て、今詩碑の丘に佇み、詩を朗読し、
彼(か)の時代と少しも変わっていない己を複雑に感ずる。芸術は永遠、色褪
せヤしない。寧ろ空白の時間をどうやって埋めようかと今は時間を惜しむ。
時はどうでもいいものは忘却させるが大切なものは更に鮮明にする不思議。
参照#高村光太郎 (無垢の愛) 探訪紀行
映像:青森県十和田湖畔の乙女の像の原型となった智恵子像。
高村山荘に隣接の記念館正面に光太郎が愛する妻智恵子のブロンズ像が置かれている。
光太郎&智恵子の愛は哀しく切ない。実家が没落した頃から、魂が変調した智恵子を、
無垢な魂として愛した光太郎の優しさ、慈愛。その結実として十和田湖の乙女の像
に智恵子の裸体を刻む。智恵子の像を作りたいと思っていたところへ青森県から神秘
の湖のシンボル創作の依頼が舞い込んだ。光太郎は東京のアトリエに戻る。時に70歳。
映像:高村光太郎はこの地から、妻智恵子の実家のある福島県阿武隈地方へ向かって、
『智恵子!』とを呼んだという。その智恵子は郷里二本松の空を好んだのだった。
高村光太郎は散策でよく裏山の、この場所に来たそうだ。とある月夜には『智恵子~!』
と大きな声で呼ぶ光太郎の姿があったそうな。以来この丘を『智恵子展望台』と村人が言
うようになった・・・。光太郎と智恵子の愛は彼の作品にも多く確認することが出来る。
参照:高村光太郎はとうとう、智恵子の身体を十和田湖畔に「乙女の像」として残した。
映像:壁に刻んだ時刻を糸影が伝う事により時間を把握。その日時計を再現したもの。
高村光太郎は、岩手県花巻市の山村で文明を拒絶したかのように晴耕雨読、自給自足
の生活をした。日が昇れば目覚め、日が没すると眠る。当時としては73歳という長命
はこの7年間の質素で規則正しい精神的な生活が、一汁一菜がもたらしたものなのか。
同時期の歌人石川啄木(3才下)は26歳、詩人宮澤賢治(7才下)は37歳で没した。如何
に光太郎が長命で且現代的な文学者であったかは、彼の作品、生涯からも推測できる。
映像:高村光太郎の詩編「道程」(最愛の智恵子を失い、厳格な父とも死別の頃)
『僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る ・・・(道程)』高校時代この詩に触れ、なんと
勇気づけられられたものか。そして父を亡くした筆者にとって同感を禁じ得ない詩だった。
『・・・ただわたくしは今日も此処にたって ノオトルダム ド パリのカテドラル あなたを
見上げたいばかりに ぬれて来ました あなたにさはりたいばかりに あなたの石のはだ
に人しれず接吻したいばかりに・・・(雨にうたるるカテドラル)』。
ゲーテでも、ハイネでもリルケでもない高村光太郎という日本人の口語体の詩に深く感銘
した。その高村光太郎が隠遁した高村山荘は余りにも質素で、そこまで彼を追い詰めた悲
しみを思わずにはいられない。光太郎はこの隠遁から突如、十和田湖畔の乙女の像を製作
するために立ち上がる。東京のアトリエに帰り、愛する妻の面影を乙女の像に刻み込んだ。
参照#①老骨に鞭打った力作『十和田湖畔乙女の像』(最愛の妻に永遠を与えたのだった)
②日本画家東山魁夷作「道」(芸術は詩であれ絵画であれ人々を感動させる)
映像:山荘内部、囲炉裏と七輪、壁の本棚、文机、鉄瓶、食器・・・が其の儘保存。
高村光太郎が晩年を過ごした山荘は壁、板戸、障子、土間・・・全てに魂が刻み込
まれている。60歳代7年の歳月、もっとも平穏に過ごすべき時期、毎日を修験者
の様に自然と共に生きた。生活空間は4畳半の囲炉裏間と半間の土間。土壁と障
子が外界との仕切り。敷地での自給自足。石川啄木の哀しみと宮澤賢治の慈愛を
この地で確かめる様な日々。彼の視線の彼方には最愛の妻智恵子の幻影がチラつく。
岩手県ゆかりの文学者は石川啄木、宮澤賢治そして宮澤賢治の縁で花巻の地に庵を結んだ
高村光太郎。最愛の妻智恵子を亡くして、まるで仙人のような生活を山村で7年過ごした。
パリで感動の詩を成した人とは別人のような自給自足生活の場が『高村山荘』として保存。
花巻温泉には九つの歌碑がある。その中で、台渓流釜淵の滝に面しているのがこの碑だ。
碑文: 大釜や 滝が沸かせる 水煙
解説:滝の名称から流れ落ちる様を沸き立ち昇る蒸気に見立て季語は水煙。水量の多い夏
巌谷小波:「日本昔話」、「日本お伽噺」、「世界お伽噺」を刊行した児童文学の開拓者。
台温泉街の散策地、散策路を台川上流へとゆるゆる歩くとやがて大きな球岩盤に清水が
ひろげられた様な滝に遭遇する。一寸とした休憩処があり湯疲れを癒すには絶好の場所。
鄙びた台温泉は花巻温泉と違い奥手にこの様な昔の保養温泉地の面影が残る場所である。
記録:高さ約8.5m、幅30m、北上川水系瀬川
台川渓流を歩く、『熊注意』のたて看板があちらこちらに。
その一角に形の良い石碑が、下村梅南の歌碑。
碑文:山の秋の 水はさやけし とちの実の 水底ふかく 沈めるが見ゆ
下村梅南:ジャーナリスト&歌人、NHK会長など歴任。彼が訪れて後、新台温泉
と呼ばれていたこの地を『花巻温泉郷』と呼ぶようになったという。