映像:消え入りそうな滝の袂に大町桂月の碑があった。
奥入瀬渓流の終点、奥入瀬川の始まりの地『立田の滝』にある大町桂月の石碑。
桂月はこの先の名湯『蔦温泉』をこよなく愛した。この渓流界隈は云わば庭だ。
『立田姫 錦をさらす大巌に
みだれて 9・3 白糸の滝』
(蔦温泉より奥入瀬渓流遡上途中にて詠む:大町桂月)
解釈:立田姫とは秋をつかさどる女神の事で、目の覚めるような紅葉に、
さすがの麗人(女神)も裾を乱したような趣の滝の風情だと推察。
映像:再開した谷地温泉、下の湯( 冷泉)は久し振りにゆったり時間が流れていた(2008.8.29)
谷地温泉に着くと自家発電の音が懐かしく迎える。谷地温泉は電気の無い秘湯だ。外来受入時間
10時だがもう10人程冷泉に浸かっていた。36度の掛け湯(2源泉混合)で入念に身体を慣
らし38度の冷泉に40分入り、上の湯〈41度)に10分、今朝ほどの右肩のギコチなさはス
ッカリ失せた。この間、そんなに急激に混み合う事もなく、温泉場の雰囲気が蘇った。
今回の再開は小生にとっても懐かしい人との出会いでもあった。新支配人が青函温泉フォーラム
でお世話になった湯の川の方、企画マネージャーが面識のある方のお孫さんと言う事で、この様
なスタッフを抱える経営グループに感謝とエールを送りたい。
経緯:営業権を握っていた旧古牧温泉が経営破綻し昨年秋から閉鎖、今回伊藤園ホテルグループ
が経営権を取得、一部再雇用という形で見事日本の温泉資産が復活。
日本三大秘湯:四国祖谷温泉、北海道ニセコ薬師温泉そして、本州ここ谷地温泉。
映像:秋田港ポートタワー『セリオン』
男鹿半島を探査し、菅江真澄とは逆の道順を辿り、秋田市に舞い戻
る。海岸線を南下すると秋田港北端に大きなランドマークが見えて
くる。セリオンだ。総ガラス張りの綺麗な塔は青空と同化していた。
菅江真澄遊覧記;男鹿の秋風
『久保田の布金山応供寺を出立し…しばらく語りあううちに日も傾
き、土崎の港(秋田港)にきたころはもう暗くなった。…むかし
はここを麻裳(おも)の浦、面の港ともよんだということである…』
セリオン:平成6年4月にオープン。セリオンは海=SEAと展示館=
PAVILIONの合成語。愛称は全国約6,300件もの応募の中から選ば
れた。外部が6,272枚もの特殊強化ガラスで囲まれたガラスタワー。
( 男鹿半島物語 ~完~)
五城目の山の中、道路からそれた丘の上の一軒宿がある。秋田県北では珍しい白濁硫黄泉。ここもゆっくりと時間が流れていた。地元の方が多い、秋田弁が脳幹をゆする、それくらい静かな温泉場。五城目は菅江真澄の秋田県北紀行の基地的存在だった。当時は谷地中部落と呼ばれ市がたつ程の集落。その様子が彼の紀行から読み取れる。
『…きょうは餅あいの塩を買うならわしといって、人びとが五城の目の市に群れをなして行く。男鹿半島のあたりからも、人馬が八郎潟の氷をわたって来た。』(菅江真澄遊覧記:氷魚の村君)より
解説:1月12日の「塩」の市は五城の目の市がもっとも盛んで、近在から人々が集ったとの事。凍てついた八郎潟の湖面を馬でわたる様は暖冬の今では、想像もできない。単なる日誌が当時の男鹿地域の気象、風俗、自然を記している。
【Data】含食塩・重曹ー硫黄泉 45.7℃ pH 7.7 源泉:松橋1号線 250ℓ/m
八郎潟のど真ん中に温泉が湧いた、分析したら国内屈指の美人湯、半循環であるが湯の香
(古代臭)が地球の恵みを教えてくれる。今回久し振りに大潟村へやって来た。北海道を
思わせる景観が好きだ。真っ直ぐな道、広がる水田、大規模農業の見本のような畑。ここ
も日本の原風景。とても昔、水面下とは思えない。ここ大潟村に沸くのが名湯『潟の湯』。
【Data】食塩泉(ナトリウム6508mg含)40.1℃ ph7.1 源泉:大潟混合温泉
映像:日本一低い山と記された標柱の傍らに大潟富士(海抜0m)と称する円錐の土盛。
男鹿半島の付け根に拡がる八郎潟。男鹿半島は昔島で、大規模な地殻変動(地震)で陸
続きに。昭和に干拓の国家プロジェクトが始動し、人工的に出来た農地が今の大潟村。
オランダから干拓技師を招く大事業だ。この水路の側にあるのが映像の記念碑。山には
見えないが八郎潟を干拓して出来のだから規模的には「山」といっても良いかもしれない。
記録:菅江真澄は八郎潟(八竜湖)を記録している。『こうして日が傾くまで歩きまわり、
男鹿の島山の近くまで来た。どこもみな真白な山を遠く近く眺め、見わたす限り、果て
しない湖上の景色のおもしろさばかりか世にも珍しい蜃気楼の立つ事さえ見られて・・・』
(菅江真澄遊覧記:氷魚の村君)より
映像:鹿狩で追い詰めた鹿を木碑の先の断崖に落とした事から「鹿落とし」と呼ばれた。
地名にはその発祥の云われからついているものが多い。地域学に縁る者は先ず、地名からその土地を考察する。しかし、昭和、平成の大合併策でこうした地域独特の「地名」が失われるケースが多い。ここ、男鹿半島の名前の由来はやはり『鹿』。中世、近世この近辺は鹿で溢れていた事が菅江真澄の書物で推察される。
『山の陰から多くの鹿が笹原をかき鳴らして群がり去って行った。筍を食べていたのだろうか。この山にほかの獣はいないが鹿ばかりはたいそう多くすんで田畑のものを食いつくすというので、秋になると田ごとに縄綱を張り巡らすが女鹿は綱の目をくぐって稲を食うと、案内人は愁い顔で語った。それで牡鹿(男鹿)と地名がつけられたのであろうと思った。』
〈菅江真澄遊覧紀:男鹿の春風)より
牡鹿が嘶く半島がやがて『男鹿半島』と呼ばれた事は容易に想像できる。小生、北海道霧多布岬で霧の中に野生鹿を見たときの感動が蘇る。参考⇒霧多布大鹿
映像:入道崎に沈む夕陽(2008.5.10取材)
男鹿の温泉で温まった身体を冷やすには、入道崎の夕陽鑑賞が最適〈日本の夕陽百選)。日本海側は何処でも夕陽が綺麗だが特に男鹿半島の夕陽は潮騒、風の凪ぎ、波の動き、岩礁、島影が夕陽を魅きたてる。
『…岬は菅生の崎(八森町)をさして子(北)にあたり、丑寅(東北)に岩木山、卯辰(東南東)に森吉岳、巽(東南)に寒風山・赤神岳などが見える。夜が明けてゆく頃、それらが雲の中から姿を現わしてゆく景色はことにすばらしいであろう。』(菅江真澄遊覧記:男鹿の鈴風)
解説:男鹿半島の突端入道崎、遠く北に岩木山も見えるとは、この時代空気が清澄なことが窺える。なによりも面白いのは、夕陽の名所なのに明け方の景色を想像しているところだ。おそらく、菅江真澄は日中、夕陽は何回も見たが、明け方の景観を見てないのだろう。
映像:男鹿温泉郷、国民宿舎「男鹿」の湯船には地域の常連さんが憩っていた。
男鹿半島の観光拠点といえば男鹿温泉郷、その中の公共の宿が国民宿舎「男鹿」
二階大浴場は日帰り入浴も可能。ギラギラ陽光&潮風に晒された肌を潤すには
丁度いい。菅江真澄も北浦の湯本で入浴した。その様子は次のように記される。
『…湯本についた。この温泉の味はからくて緑礬の気がある。この夕べは村長
平賀のもとに宿った。・・・』 (菅江真澄遊覧記:男鹿の春風)より
【Data】食塩泉 56.5℃ PH6.4 源泉名:男鹿温泉
考察:菅江真澄は江戸時代の紀行家である。北日本の温泉について詳細な考察
をして、紀行文「菅江真澄遊覧記」にも各地の温泉が多数記されている。
映像:菅江真澄が目撃した真山神社境内にある『夜籠り堂』
菅江真澄の時代は神仏混交の世で境内に薬師堂があった。その名残が今に伝えられる。
『夕方真山の村に帰ってきて、関金七という人のもとに宿をかりた。今度は近くの部
落から老女が大勢集まってきて、薬師の前で夜籠りしをし、念仏を唱える。更けると
歌をうたい踊りをして、堂の板敷を夜通し踏み鳴らして・・・』 (菅江真澄遊覧記:男鹿の春風)
解説:地域の社寺には催事、奇習、奇祭がある、まして道の奥の地域は人々の交流が
大事なものであった筈、それがこの様な紀行集で残されていることはこの地域にあっ
て貴重なもの。民族学者柳田国男が菅江真澄に心酔したのはこの几帳面な記述による。
真山神社:男鹿半島にあって程よく管理・保存された神社伽藍に神官、巫女がおり、
生計が成り立っていることが推察され、男鹿地域の信仰が篤いことが分かる。此処の
社務所は伝統行事『なまはげ』祭りの事務局的な立場にもある。
社格:県社 祭神:瓊瓊杵尊、武甕槌
東北6県では水族館がないのは岩手県だけ。この男鹿水族館は人工降雪機を擁した白熊の展示がユニークである。菅江真澄が賞賛した景勝地にあり、多くの観光客を楽しませていたが、1983年の日本海中部地震で水族館周辺も津波に襲われ、スイス人観光客1名が犠牲となった。その後の衰退を機に経営を刷新2004年にリニュアルした。
風光明媚な水族館が苦戦する事由は、時代はただ魚を展示するだけの施設は要求していない。そこで遊べて学べて癒されなければならない。そして何よりも楽しくなければならない。それと変化、来る度に発見!これは容易でない。
映像:露天風呂から見た日本海。水平線180度眼下に広がり圧巻。
戸賀の海を見下す丘にある一軒宿。男鹿水族館GAOの真上に位
置する。大海原を手中にできる露天風呂は男鹿半島随一だろう。
夕陽を独り占め。菅江真澄遊覧記に男鹿半島戸賀浦の記述あり。
【Data】含重曹ー食塩泉 40℃ pH7.2 源泉:戸賀温泉
『…やがて塩戸の浦についた。戸賀の浦の家々に海越しに向か
い合っている眺めや、ここかしこに立ったり臥したりしてい
る岩群の姿がことのほかおもしろいほ・・・』菅江真澄遊覧記
解説:表現は文学者というよりは科学者的な写実表現、恐らく
、現在の男鹿水族館の近辺を表していると推測される。
男鹿半島の中で戸賀湾に次ぐ漁港湾、かつては自然の入り江を形成していたが、防波堤が築かれ日本の多くの海岸線同様自然な景観は失われた。国土を守ることは自然を破壊することでもある。
日本海中部地震の津波によって、遠足の小学生13名が亡くなったのが記憶に生々しい。
映像:日本海に浮き出た菅江真澄碑、海からでないと見れない『しらいとの滝』を歌う。
『風あらき 磯のしら糸滝かたみ
波のよるひる やけてみたれん』
滝は木碑の下から垂直に流れ、絹糸が絡まりながら海に落ちていくように見え、木々に隠
れ全貌が中々見られないらしい。 小船で海側から眺めた菅江真澄は舟が苦手だったようだ。
参照#菅江真澄(紀行家・歌人)探訪 紀行
男鹿半島に椿が自生している箇所がある。『国指定天然記念物椿自生北限地帯』と表示
板が設置。この一帯の村は「椿」と呼ばれていた。良く見ると『青森県夏泊半島ととも
にヤブツバキ群落は植生価値が高い』と記。菅江真澄はこの椿から青森県夏泊椿を想起。
菅江真澄遊覧記:
『・・・椿の浦と言う所に中山という小さな磯山がある。椿ばかりが生い茂っていた。
津軽の平内の浦も椿ばかり茂る磯山があった。同じ津軽の深浦の艫作(へなし)
岬にも椿崎と言って荒磯の岩に椿を祀っている。出羽の八森山の浦も椿を呼び、
磯山にびっしりと生い茂っていた。 象潟町の三崎山にもあった。椿は海辺に・・・』