Memoir:伊香保温泉階段歌碑・与謝野晶子歌碑(群馬県 2008.09.05撮影)
与謝野晶子と温泉地は深いかかわりがあり、全国の温泉地に足跡が残され
ている。娯楽の少ない明治では上流社会の娯楽場・温泉地での歌会・句会
が当時の流行であったと推察。伊香保での歌会で披露した歌文と思われる。
「伊香保の街」
榛名山(はるなさん)の一角に 段また段を成して
羅(ロー)馬(マ)時代の野外劇場の如く
斜めに刻み附けられた 桟敷形(さじきがた)の伊香保の街
屋根の上に屋根 部屋の上に部屋
すべてが温泉宿である そして榛(はり)の若葉の光が
柔かい緑で 街全體(たい)を濡らしてゐる
街を縦に貫く本道は 雑多の店に縁どられて
長い長い石の階段を作り 伊香保神社の前にまで
Hの字を無数に積み上げて (晶子)
解説:歌というよりは写実的に伊香保温泉の特徴を述べていると言っていい
だろう。伊香保温泉は天辺の伊香保神社の境内から階段状の温泉街に
源泉が導かれた日本で最初の集中配湯の温泉地といってもいいだろう。
与謝野晶子の短歌を階段に刻んだ伊香保温泉の旦那衆も又風流の極み。
説明:歌文最後の「Hの字」は石段の石組がHの様に見える事から表現された
もので温泉街の色っぽい話ではない、誤解のない様に歌を鑑賞のこと。
この階段状の光景がアニメ千と千尋のイメージの一つともされている。
光景は温泉地でないが台湾の観光地「九份(チュウフェン)」 に似てる。
参照#① 群馬県 温泉地 データ・ベース
② 与謝野晶子( 官能・情熱歌人)探訪紀行
③ 台湾観光地「九份( チュウフエン)」の景観
リニューアル:再掲 乙女の像 (十和田八幡平国立公園:2011.02.22 撮影)
異常なほどの酷暑では厳冬湖の厳しい景観を思い浮かべ涼を摂る
(過去の記録:2015.03.05)
十和田湖畔には人の造った構造物はそぐわない。素朴な景観ゆえに美しくもあり
倍増するものだが。しかし、乙女の像は美の緊張を打ち破り大自然に溶け込んだ。
詩歌:この像を造った詩人・彫刻家、高村光太郎がこの像に次の詩を添えている。
原文はこの像の土台の石板に彼の直筆で刻まれているが、読む人は少ない。
『天然四元の平手打ちをまともにうける
銅とスズの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立っている
いさぎよい金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪えて
立つなら幾千年でも黙ってたってろ』(高村光太朗)
解説:背景の湖面にカルデラ山が同じく、形と影に映っている。この像はそれを
意識して、影と形を、鏡に手を合わせる裸像にしたのだろう。老体にムチ
を打ち、最愛の智恵子の面影を刻み込んだ高村光太郎渾身の遺作であった。
乙女の像は対岸の子ノ口に設置予定だったが当時の関係者らの強い意向で
今の休屋に建てられた。月日を経る内に乙女の像は十和田湖の景観に同化。
そして十和田湖を訪れる観光客の殆どは湖畔の銅像に足を延ばすのである
参照#① 高村光太郎 ( 無垢の愛 ) 探査紀行
② 厳冬期の十和田湖絶景 2023.3.12
Memoir:石川啄木記念館に隣接啄木の宿柱に掲げられた短歌の木簡
石川啄木記念館には歌人啄木の人生が凝縮されているといっても過言
ではない。そして、保存の渋民尋常小学校隣接、啄木の寄宿家の柱に
掲げらた木簡。記された石川啄木の短歌にこころを奪われたのだった。
碑歌:「 かにかくに 渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川 」 (啄木 :一握の砂)
参照 # ① おもひでの川、おもひでの山の景観
② 石川啄木(哀しみの歌人)探訪紀行
感想:もうこの短歌に解説はいらないだろう。啄木の良さは分かりや
すい歌文の中に、一瞬の心の情感が、深く刻まれていると思う。
久し振り北海道:登別温泉から帰って、自宅の部屋から眺めた
八甲田山に、何故かこの短歌が浮かんだ。ふるさとはありがい。
いよいよ夏山シーズン、今年も八甲田山の大自然に抱かれたい。
※かにかくに:副詞であれこれと、いろいろと、の意味である。
映像:谷地温泉、自然湧出のいで湯の宿。自家発電の宿、電波が届かない宿
追悼:瀬戸内寂聴 99歳の大往生 2021.11.09
闘う作家、悟りと法話の尼僧&作家が亡くなった。巨星落ちる、男と女、家族、
何よりも人間としてどうあるべきかを探った女流作家瀬戸内晴美。その彼女が
大作「源氏物語」第九巻「早蕨・宿・東屋」を執筆する為 1996年 夏から秋に
谷地温泉投宿。筆者も、少しゆとりが出来たら、筆者も谷地温泉に長逗留して
瀬戸内晴美著源氏物語をジックリと読み解きたいと思うのだが・・・・・・・。
(過去の記録:2009,8.30)
自然の宝庫。源泉池には銀ヤンマが飛び交い谷地の森にはテンが棲む。耳を澄
ませば野鳥の囀りが聞こえる。温泉で体を癒し自然で心を癒す。一級の温泉地
の条件が備わっている。瀬戸内寂聴 (晴美)が長期滞在し執筆活動をしたのも頷
ける。文学碑こそないが此処もまた文学の湯の郷。
波乱に満ちた人生。夫の同僚と駆け落ち、人生を捨てる覚悟、悟り、常人に出
来ない経験をした彼女の顔は観音様の様に眩しいのは何故だろう?瀬戸内寂聴
が詠んだ俳句2首の色紙が新館休憩処の額縁に収められていた。
『 雪の壁 抜ければ谷地に 湯の煙 』(寂聴)
『 がたろうの ひるねの夢や ねむの花 』(寂聴)
※「がたろう」とは河童の異称
瀬戸内寂聴:1922年5月生、小説家、天台宗尼僧。文化功労者、文化勲章。徳
島県立高等女学校、東京女子大学卒。徳島県徳島市名誉市民。元天台寺
住職。代表作に 『夏の終り』 『場所』『現代語訳 源氏物語』など多数。
参照#① 八甲田山(登山口)温泉紀行
② 谷地温泉周辺に出没する可愛らしい珍獣「てん」
③ 瀬戸内寂静も癒された谷地温泉の交互浴の浴室浴槽
【静岡県温泉探査・沼津編 2019.5.24】
沼津駅前に降り立ち先ず目に飛び込んできたのが文豪井上靖の詞碑である。日本赤十字
奉仕団が沼津で青年期を過ごした井上靖の遅咲きの文学者の業績を称え、井上靖文学碑
第一号として建立した。反戦・平和の井上文学を意図とし次の様な詞が刻印されている。
碑文:『若し原子力より 大きな力を持つものがあると
すれば、それは愛だ。愛の力以外にはない 』 (井上 靖)
KEY:京都大学(旧帝大)卒、毎日新聞社入社、芥川賞受賞、平和アピール七人委員会
著作:風林火山、天平の甍、敦煌、青き狼、しろばんば、おろしや国粋夢譚、孔子 他
映像:菅江真澄が見聞したであろう外ヶ浜浅虫温泉の現代の様子(鳥瞰図風に撮影)
紀行家:菅江真澄は青森県・秋田県の各地を巡行して詳細に日記に書き残している。
その中には温泉地に関するものも数多く、江戸時代の温泉地の様子を調べる重要な
手がかりとなり、温泉史を紐解く資料でもある。青森県の代表的な浅虫温泉も記述。
記述:菅江真澄遊覧記二 ー 外ヶ浜づたひ{天明八年(1788)7月6日}ー
『かくて浅虫の浦につくと煤川の岸に・・・少し高い岩のたっているのを肌赤島
・・・鳥の形をしたのを鷗島・・・鳥居の見えるのが湯の島・・・出湯の村に宿をと
った。・・・滝の湯、目の湯(椿館)、柳の湯、おお湯、はだか湯などが、た
いそうきよらかに湧き、また軒を連ねた家々のうしろにも湯があってよい』
『・・・「とりわけこの津軽というところは温泉の数がたいそう多い」と答えた。
どこと何処にと尋ねると、「ご存知のとおり、関の湯の沢、碇ヶ関の湯、大
鰐、蔵館、嶽、湯谷(湯段)、切明、酸か湯、下湯、温湯、板留、要目、沖
浦、二升内、大川原、田代、根子、猿、笹内、・・・・そしてこの浅虫です」』
解説:菅江真澄は奥の細道を源義経北帰行の伝説を辿るかのように歩き、此の後、
安潟、油川、三厩から船で蝦夷地(松前藩)に渡って見聞をしたのである。
入国・出国の厳しい江戸時代、資金力・手形などを考えれば、スパイと間
違われても致仕方ないだろう。三河の出身で膨大な日記等は後に津軽藩に
疑われ多くを没収され、半ば追放の様な形で秋田藩に移住する。津軽藩は
徳川家康の宿敵石田三成の子孫を匿っていたので幕府の諜報活動、津軽藩
防御など時代の政争があった事は否めない。紀行家の他に何か任務を感ず。
参照#菅江真澄(紀行家・歌人)探訪紀行
【静岡県温泉探査・熱海編 2019.5.24】
映像:熱海温泉老舗温泉旅館竜宮閣の玄関に掲げられた堀辰雄の色紙・写真類
熱海温泉と堀辰雄・・・・意外な組み合わせ。堀辰雄といえば透明感のある繊細な小説家
というイメージ。太宰治、山頭火や中原中也のような無性に寂しい孤立的な文人では
ない。それが熱い源泉、夏のイメージ熱海温泉の竜宮閣に立ち寄る・・・この宿の縁戚。
色紙:竜宮閣現在のご主人の母上が堀辰雄と再従姉弟という関係がこの宿のゆかり。
『 向日葵は 西洋人より 背が高い
軽井沢にて 辰雄 』
解説:堀辰雄と言えば、サナトリウムで繰り広げられる物語「風立ちぬ」を思い起す
学生時代にはちょっと苦手な作風(か弱い、そんなイメージ)であった。堀辰雄
自身も肺結核を患っておりサナトリウム生活を送っている。その時の揮毫かな。
参照#熱海温泉 竜宮閣 福々の湯
≪ 緊急速報:新年号「令和」制定 日本政府首相官邸発表 2019.4.1 ≫
恐らく日本国の全国民がこの瞬間に何らかの形で関わった事と思う。自分が生きる時代を
誰かに委ねなければならないもどかしさで傍観した人もいただろう。その結果万葉集から
出典の「令和」が新元号と告知された。本ブログで万葉集に触れたのは本蘭記述のみだった。
「大化 (645年)」以来、248番目の元号改定は掲題の吉野川の流れの様に悠々な歴史を辿
ってきた事を改めて思う。そして、日本最古の万葉集「梅花の歌32首序文」に記述された
「初春の令月にして気淑く風和ぎ梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫らす」はやがて咲
く吉野桜に引き継がれる。きっと、吉野山の様な全山春爛漫の時代になって欲しいと願う。
参照#新元号『令和』ゆかりの地 大宰府天満宮(大伴旅人ら梅花の宴の地)
(過去の記録:2017.7.29)
奈良県、紀伊山地の経ヶ峰付近を水源とする川。吉野山山系を流れ
和歌山県に入り紀ノ川となって紀淡海峡にそそぐ。長さ 81kmの川。
吉野山を訪れてこの川を詠った歌人柿本人麻呂の歌が万葉集に残る。
長歌:柿本人麻呂(持統天皇吉野山行幸随行時の作・万葉集巻1-36)
やすみしし わが大君の 聞し食す 天の下に 国はしも 多に
あれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ
秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は 船並
めて 朝川渡り 船競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく
この山の いや高知らす 激つ瀧の都は みれど飽かぬかみ
反歌:柿本人麻呂(万葉集巻1-37)
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑の絶ゆることなく また還り見む
考察:平安の吉野山は貴族にはレジャー(リゾート)ランドであった。
吉野川に船を浮かべ宮人が涼みわたる姿は宮廷の威光を放って
華やかさは勿論宮廷遊びの最高の姿でもあった事が推察される
追記:万葉集にはこんな歌もある(万葉集 巻7-1131詠み人知らず)
原文・・・皆人之 戀三芳野 今日見者 諾母戀来 山川清見
皆人の 恋ふるみ芳野 今日見れば うべも恋ひけり 山川清み
(皆が行きたいという吉野山に今日来てみて納得しました。山も
川もすべてまことに風雅で、なんと魅力的なことなのでしょう)
参照#①奈良県吉野町「吉野山」 ②吉野山麓の名湯吉野温泉元湯
映像:前田家別邸の夏目漱石が浸かった湯殿。ここで前田卓(ツナ)女史と鉢合わせする。
夏目漱石ゆかりの温泉地:小天(おあま)温泉にやって来た。夏目漱石はよほど温泉
が好きなのか?それとも明治の社交場は温泉地という事情かここでも「坊ちゃん(道後
温泉)」同様名作を残している。実際にこの湯殿で起きたことを描いたのが小説「草枕」。
草枕:抜粋 { 宿の娘:那美(前田案山子(かがし)次女卓(ツナ))との遭遇シーン }
『・・・女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。・・・真白な姿が雲の底
から次第に浮き上がって来る・・頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もな
く肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と
分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、ま
た滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢を後ろへ抜いて、
勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に
受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足
が、すべての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する。世の中に・・これほど自然
で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決
して見出せぬ。・・・輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば・・・・
あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、・・・風を起して・・・・・・・
渦捲く煙りを劈いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女
の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向(むこ)うへ遠退(の)く・・・』
鑑定:さあ、この文章を観てどう思うだろうか?漱石は画像右上の階段から降りてく
る前田家の娘ツナ(出戻り)の裸体を文章で現した。東大出のエリート教授
が表現するとこの様に面倒臭いものとなる。イヤラシサなど微塵もないのだ。
しかし、一般人ならこれは覗き表現にすぎない。藝術とはこの様に昇華する。
参照#夏目漱石 (則天去私) 探訪紀行
長門湯本温泉に来たもう一つの目的は童謡詩人の金子みすゞに触れること。
金子みすゞは長門湯本温泉のもう少し先の仙崎が生誕の地で記念館もある。
しかし温泉街には石碑やそれらしきものが無く漸くモザイク画詩文に接す。
詩歌:「こだまでしょうか」
遊ぼうっていうと、遊ぼうっていう
馬鹿っていうと、馬鹿っていう
もう遊ばないっていうと、もう遊ばないっていう
そして、あとでさみしくなって
ごめんねっていうと、ごめんねっていう
こだまでしょうか、いいえ、誰でも。 (金子みすゞ)
鑑賞:なんて素直で、正直で、透明で、優しくて、純心で無垢なことばを
繰り出す人なんだろう。金子みすゞの詩は一貫してこの清らで涼や
かで、ほのぼのした言葉で溢れている。心がポワ~ンと解放される。
追想:帰りの列車の関係で、金子みすゞ記念館まで行けず、長門湯本温泉
でなんとか金子みすゞの影に接したく探した結果、映像のモザイク
画の民家を音信川沿いに発見。電車を乗り継いで来たかいがあった。
記録:この民家のモザイク画は、「みすゞ燦参sun実行委員会」が新名所
づくりを目指す「プロジェクトⅯ」の一環として制作されたものだ。
縦3メートル、横9メートルの壁画で、1枚1枚に観光客や市民が
メッセージなどを書き込んだ仙崎名物の蒲鉾板を8,000枚填め込んだ。
参照:金子みすゞ生誕の地仙崎にある金子みすゞ記念館(金子みすゞ記念館HP)
( 2018年 山口県 温泉観光紀行 完 )
≪速報:温泉地景観 矢立峠界隈 (秋田県 日影温泉)2018.6.29≫
羽州街道北辺の要衝。この先北北東は津軽藩領である。その要衝を
思わせる矢立路に繋がる側道。この道をイザベラバード、吉田松陰、
伊能忠敬などが縦走した。秋田杉に囲まれた日影温泉屋波が甦った。
・
記述:イザベラ・バード 「日本奥地旅行記」(平凡社:高橋健吉訳)
『・・・すばらしい森の奥に入っていく。ゆるやかな勾配の長いジ
グザグ道を登って矢立峠に出る。この頂上には方尖塔がある。
・・・秋田県と青森県の県境を示す。これは日本にしてはすばら
しい道路である。・・・私は日本で今まで見たどの峠よりもこの
峠を賞め讃えたい。・・・ブルーッヒ峠・・・ロッキー山脈の・・・・・
しかしいずれにもまさって樹木が素晴らしい。その巨大な杉』
価値:19世紀の旅行家・探検家のイザベラは世界中を巡っている。そ
の中で、矢立峠をロッキー山脈の峠よりも絶賛していることに
驚愕するとともに、三大美林の秋田杉の価値に改めて感心した。
記録:秋田杉の見分け方。尖塔の尖ったものが植林で成長したものだ。
一方、尖塔が丸みを帯びたものは長い年月を経た天然の秋田杉。
参照#矢立峠途中にある日影温泉
湯田温泉駅から中原中也の生誕地を目指して数分。左手に公園が見えて来た。
井上公園は明治の政治家井上馨の屋敷跡を整備したもので、明治の歴史的な
建築物(七郷落時代の寓居)を保存展示。その一角に中原中也の詩碑がある。
碑文:「帰郷」 より
『・・・これが私の古里だ さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと 年増の低い声もする
あゝおまへはなにをしてきたのだと・・・
吹き来る風が私に云ふ』(中原中也)
解説:中也は貧困の歌人石川啄木とは対照的であった。破産追われし寺小僧
と、裕福で名士の坊ちゃんとでは背景が違い過ぎる。しかし、何故か
望郷の思いは重複する。ともに古里に気楽に帰れない事情は似ている。
参照#①中原中也記念館 ②石川啄木歌碑「石川啄木(ふるさとの・・・宝徳寺)」
③中原中也(ダダイズム)探訪紀行
映像:純愛と博愛の作家有島武郎の評論が収められた新潮社文庫本(現在青空文庫参照可)
「惜しみなく愛は奪う」この衝撃的なフレーズが大正時代に綴られたことに驚きを覚える。
人を愛するということは、相手のすべてを奪って自己のものにすること・・・という評論は
国家主義時代の背景下にあって、個人主義を論じ、なによりも強い愛情表現は先進だろう。
原文:評論の一文を下記に抜粋
『・・・人は愛人を見出すことに誤謬(ごびょう)なきことが出来る。そして個性の全的要
求は容易に愛を異性に対して動かさせないだろう。その代り一度見出した愛人に
対しては、愛はその根柢から揺ゆらぎ動くだろう。かくてこそその愛は強い。そ
して尊い。愛に対する本能の覚醒(かくせい)なしには、縦令男女交際にいかなる制限
を加うるとも、いかなる修正を施すとも、その努力は徒労に終るばかりであろう』
10年振りの道後温泉はいろいろ変わっていた。本館東側後方に休憩スペースがあり
「漱石坊ちゃん之碑」が真新しく建てられていた。夏目漱石が小説「坊ちゃん」を
発表してから百年を記念しての建立。10年前の訪問時にはこの広場も碑も無かった。
碑文:坊っちゃん 夏目漱石
「親譲りの無鉄砲で小供の時分から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校
の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をし
たと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でも何でもない。新築の二階か
ら首を出して居たら、同級生の一人が冗談・・・」
参考:小説「坊ちゃん」での道後温泉の記述抜粋
「・・・温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その
上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十
円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢だと云い出した。余計なお世話だ。まだ
ある。湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある・・・」
参照#①上等での坊ちゃん団子 ②道後温泉本館全体像(愛媛温泉松山市)
感想:筆者も温泉の上等(貸室)に今年(2017年)休んで1,550円だった。作家夏目漱石
の時代は八銭というから値段はともかく、同じ湯浴みの伝統がいまにある感動。
吉野温泉元湯の案内文に「花の吉野山、人里離れた一軒宿 文人・修験者に
長く愛されてきた吉野の隠し湯」とある。この宿に一か月以上逗留したのが
島崎藤村である。筆者が心奪われた詩人・文学者。そのゆかりの宿を訪ねた。
記録:島崎藤村がこの宿を訪れた時は明治女学院の教え子佐藤輔子との情愛
に悩んでいた頃だ。藤村20歳、輔子21歳。この情愛の作品が 「初恋」 。
詩集若菜集に収められた詩文に胸を震わせた我青春を懐かしく回想す。
詩文:島崎藤村「若菜集」初恋より
『まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり・・・』
感慨:筆者は大学で島崎藤村の研究で知られる伊東一夫教授のゼミで島崎藤村
の「夜明け前」の講座を受講。しかし、苦学生時代であり、憧れの藤村
の足跡を辿ることは叶わなかったが、今回漸く藤村の足跡の一端を辿る。
考察:島崎藤村もまた生立ちから悲劇を背負っていた。父の近親相姦(姉)と
藤村自身も姪と関係を結ぶなど明治にあっては不義密通の呪われた家系
。また、尊敬していた北村透谷の自殺が彼の文学活動に大きく影響した。
大作「夜明け前」の深く重々しい筆致はこれらが反映されたのだろうか。
参照#①島崎藤村ゆかりの小諸の布引温泉 芸術&温泉文学者 探訪紀行