リニューアル再掲:世界文化遺産 姫路城 (兵庫県姫路市・2009.12.20)
映像:千姫居住区桜門橋周辺、天守群を望む撮影スポット。遠くに天守が聳える絶景
記録:筆者が訪問した後2009年から2015年まで平成の大修理が行われ、城郭全体が
白い漆喰が更新され、眩しい白色になり、文字通り、白鷺城と呼ぶに相応しい。
(過去の記録:2009.12.20)
日本の名城 NO.1姫路城。全体の姿が白鷺の趣きで白鷺城と呼ばれる。大阪伊丹空港
からリムジンバスで容易に来れた。城の歴史的価値を今回ジックリ味わう。歴史体感。
城郭:渦郭式平山城
城主:赤松氏~黒田氏~豊臣氏~池田氏~本田氏~松平氏‥‥~酒井氏
遺構:現存天守、櫓、門、塀、石垣、堀、土類、庭園
石高:姫路藩15万石(築城当初は52万石、千姫化粧料10万石)
指定:国宝(大小天守閣、イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟・附指定:台所1棟)
重要文化財(渡櫓27棟、門15棟、土塀32棟)、国特別史跡、
ミシュラン 三星(★★★)、日本百名城(指定59番)、平成百景、
美しい日本の風土100選、人と自然が織りなす日本の風景百選、
日本のさくら名所 100選、日本歴史公園100選、日本遺産・百選、
世界文化遺産(1993年12月11日登録)、現存天守12城。
家紋:剣片喰(最終城主 酒井氏 ※城主は赤松氏以来12氏49人も変わった)
映画:乱、大阪夏の陣、007は二度死ぬ、影武者、ラストサムライ等ロケ
参照#① 日本のお城 ② 日本の城門 ③ 日本の戦国武将
➃ 関西( 畿内 )温泉データ・ベース
リニューアル再掲:津軽と南部の確執の史跡、野辺地戦争墓所 (2008.12.08撮影)
映像:戊辰戦争の後半盛岡藩・八戸藩南部連合と弘前藩の兵士180人が激突。南部連合
軍は40名の死傷者を出し敗走背した。その時の死者27名を祀った墓石・史跡。
(過去の記録:2007.05.26)
下北半島に向かい青森を出て最初に遭遇する歴史的地所はこの野辺地戦争戦死者の墓所。
もう幾度この地を通ったろうか、しかしこの墓所を見る機会はなかった。今始めて見る。
津軽と南部の境は野辺地辺りということはなんとなく思っていたが、この歴史的墓所を
見て明確となる。小港まで津軽、野辺地からは南部(八戸藩)。この地を境に争ったのだ。
戊辰戦争:当初、東北の各藩は奥羽越列藩同盟で徳川江戸幕府支援の一枚岩であったが、
秋田、弘前藩が後半、官軍側にまわり、野辺地戦争となった。北前船などで日本
海側の藩が官軍(明治政府)優位との情報を得ていたのと、やはり仙台伊達藩か
ら遠く、影響力も少なかったのだろう。これで、津軽、南部の確執(津軽と南部
のウマが合わない、何かにと対立する)が更に深まったと推測。 (2007.5.26)
参照#上北地域(野辺地他)温泉地 データ・ベース
速報:大人の休日倶楽部2024年3月号記載、私のお気に入りスポット「行って良かった
城(東日本エリア)」ランキング第二位に選定された(一位 松本城、三位 鶴ヶ城)。
映像:天守台(石垣改修前)の上に鎮座する…弘前城の絶景美 (2008年12月4日撮影)
動画:2025年 弘前城雪燈籠まつりの instagram ➡
(過去の記録:2018.12.8)
もう、何度この景観を堪能したことか。お堀と城壁、鯱と甍、白壁と狭間、青空と白雲、
桜と松、お濠と水蓮、曲線と直線一つ一つは不揃いなのだが統合し調和された美に感動。
城郭:梯郭式平山城式 城主:津軽氏 家紋:津軽牡丹
石高:石高10万石(実数27万4482石)、現石14万2043石、明治政府の石高改めで表高
に対する現石が、1.4倍と国内一位。木造新田など西北の新田開発が背景にある。
遺構:現存天守、櫓(辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓)、門(三の丸追手門・三の丸東門
・二の丸南内門・二の丸東内門・四の丸北門(亀甲門))、石垣、土塁、堀
指定:国重要文化財(天守閣・辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓・三の丸追手門・三の丸東門
・二の丸南内門・二の丸東内門・四の丸北門(亀甲門))
国史跡、日本百名城(指定4番)、★ミシュラングリーンガイド一つ星
解説:日本の古城で天守閣が現存するのは12城(弘前、犬山・松本・丸岡・彦根・姫路・
松江・備中松山・丸亀・宇和島・高知・松山)のみで築城から400年近く天守閣
、3つの櫓、5つの城門、三重の水濠の築城形態現存、日本一の桜の名所、紅葉と
松、秀峰岩木山の借景美観そして規模こそ小さいが往時の城郭全体がその儘残る事
を総合すると、国宝姫路城にも劣らない名城とし世界的にも優れた観光資産である。
参照#① 弘前城 (津軽藩) 探訪紀行
② 日本城門 (史跡) 探訪紀行
③ 戦国武将 (奥方) 探訪紀行
➃ 日本の城 (史跡) 探訪紀行
臼杵城址 (大友宗麟築城) 【大分県(別府)温泉探査 紀行 2022.06.04】
久し振りの城郭見学。いにしえの夢が詰まった古城・城址を逍遥すると何かしら
郷愁が湧いてくる。筆者が弘前城のある街で青春を過ごした故なのかも知れない。
実際は封建時代で虐げられた人々もいた筈だが、結果的に歴史は勝組を昇華する。
城郭:連郭式平山城 築城主:大友宗麟 城主:稲葉氏(大友~福原~太田~稲葉)
家紋:折敷に三文字丸(稲葉氏) 遺構:曲輪、畳櫓、卯寅口門脇櫓、石垣、空堀、堀
石高:臼杵藩5万石 指定:大分県指定史跡、続日本100名城(指定193番目)
歴史:築城主とされる大友宗麟は安土桃山時代の戦国大名、洗礼を受けてキリシ
タン大名としても知られ、海外貿易を行った拠点が臼杵城であった。城郭
からは臼杵の港や、海外につながる海道が手に取るように観えたのだろう。
因みに、後の城主稲葉氏は徳川三代将軍家光乳母#春日野局の縁戚である。
記録:少年使節団(天正遣欧)伊東マンショは大友宗麟の名代としてローマに渡る。
参照#①日本の城郭 探訪紀行 ②大分県(別府)温泉探査 紀行
Ⅿémoire 歌碑句碑 :梶 子節 句碑 (姫路城西の丸) 2009.12.20
コロナ災禍の中、過去のデーターを整理していたら、気になる映像を見つけた。
当時は著名な歌人でないので気に留めなかったが、句碑の内容に再度この映像
を見直し、ブログ紹介となった。姫路城は千姫の終の棲家。それを歌った歌碑。
碑文: 千姫の 春やむかしの 夢の跡 ( 子 節 )
解釈:桜の姫路城は徳川家康の愛孫娘千姫の幸せな日々を彷彿とさせるものよ
解説:歌碑のある姫路城西の丸は千姫の生活空間であった。徳川家康の孫千姫
の最も幸せな時期がこの西の丸だったそうである。その事を句に成した。
梶 子節:明治14年~昭和34年。 昭和8年3月姫路市主催の城を詠む俳句展覧會
の出句作品。梶子節は兵庫県(播磨)の俳句界の黎明期を支えたとされる。
【山岳トレッキング ⑲岩手県 折爪岳 完 2020.08.02】
岩手県県北の折詰岳下山後、隣接する二戸市内にある九戸城址を観察した。筆者は九戸
という名称から九戸村にあるとばかり思っていたが、二戸市内の住宅街に史跡があった。
九戸城主九戸氏の末裔が青森県黒石市に在住(筆者知人)している 事から津軽と近い関係。
城考:九戸氏は南部氏に対抗して反乱し、豊臣秀吉の仕置きで鎮圧、斬首とされたが、
単なる南部の跡目相続争いが豊臣秀吉への反乱に迄発展した悲劇が城址に残る。
城郭:梯郭式平山城 石高:一万石 城主:九戸氏~南部氏 遺構:曲輪・石垣・土塁
家紋:九曜(九戸氏)~対い鶴に九曜(南部氏) 別称:福岡城(宮野城)
指定:国史跡、続日本100名城(平成29年104番) 参照#折爪岳トレッキング 紀行
映像:本丸から御廊下橋を挟んで二の丸方面を望んだ盛岡城址(不来方城:岩手公園)
【岩手・秋田ツーリング2019 2019年11月09日】
盛岡城は中津川と北上川の交差する丘に建設された。石高10万石という盛岡藩南部氏
の居城は意外に狭い。敵対する弘前藩津軽氏の弘前城敷地の総面積385,200㎡に対して
67,780㎥である。 しかし、花崗岩が主の石積は堅牢な城郭を構築し北の弘前藩を威圧。
映像:盛岡城の腰曲輪にある花崗岩石垣にこのお城の堅牢さを感じる。
【岩手・秋田ツーリング2019 2019年11月09日】
盛岡城は中津川と北上川の交差する丘に立地。石高10万石という盛岡藩南部氏
の居城は意外に狭く、敵対する弘前藩津軽氏の弘前城総面積 385,200㎡に対して
67,780㎥。 如何に弘前城が広大であるか分かる。しかし石積みの城壁は東北一と
言っていいだろう。其々の特性を有した南部と津軽の戦いは明治時代まで続いた。
城郭:連郭式平山城 石高:20万石実数10万石(盛岡8万、八戸2万) 城主:南部氏
家紋:南部鶴 遺構:石垣、土塁、堀、移築土蔵・門 別称:不来方城
指定:国史跡(盛岡城跡公園:別称岩手公園)、日本百名城(指定8番)
参照#①敵対比較される北斗の城「弘前城」 ②石川啄木碑(不来方の・・・岩手公園)
③日本のお城探訪 紀行
【信州温泉探査・国宝松本城 2019.6.30】
今回国宝松本城をジックリ観察した。姫路城や熊本城程大規模でないがやはり国宝らしさが
随所に観られる。松本城の美しさはシンプルな構造だ。この太鼓門は平成11年に復元された
ものである。やはりシンプルな美しさに尽きる。左の石垣巨石は玄蕃石という22.5tの玢岩
参照:①日本城門(史跡)探訪紀行 ②上田城の真田石(本丸東虎口)③弘前城の亀石(本丸虎口)
本年頭の絶景は、昨年訪問した国宝松本城天守。戦争と平和を現わす日本の古城である。
松本城の黒構えは戦闘を強く意識した外観であり内部も戦の為の備えであったが、その
シンプル過ぎるくらい単純な美は、現代では「国宝」で観光の目玉となり平和の象徴だ。
映像:国宝松本城の絶景ポイント。濠越しに雄姿が見え背景には南アルプス連峰の峰々。
信州の名城何時かは天守閣に立ちたいお城。戦乱のさなか歴史の渦中にあった信州の中、
外観は単純化され日本の城郭の典型。そう広くない城内からはどこからでも仰ぎみれる。
様々な角度から眺めたが映像の角度の眺めが一番形が良い。シンプルなお城が躍動する。
城郭:梯郭式+輪郭式平城 藩主:戸田松平氏 家紋:三つ葉葵 石高:6万石
遺構:現存天守(日本国内十二城)、石垣、土類、堀、二の丸土蔵
指定:国宝、国史跡、日本百名城(指定29)、筆者選定日本三名城(#姫路、#熊本、松本)
参照#①日本城門(史跡)探訪紀行 ②戦国武将(奥方)探訪紀行 ③弘前城(津軽藩)探訪紀行
【長野県温泉探査・上田城 2019.6.29(映像は2011.1.22)】
映像:南櫓と北櫓(画面左) に挟まれた形の上田城址東虎口門(本丸入口)
二回目の上田城訪問は雨だった。映像的には前回掲載のものが鮮明だった
ので其の儘とし、記録文だけ更新。初夏の上田城は解放感一杯だった。映
像は二の丸から本丸(現在真田神社)を望む方向。噂の真田石は右側にある。
城郭:梯郭式平城 城主:松平家(真田~仙石~松平) 家紋:丸に酢漿草
遺構:櫓、石垣、土塁、堀 石高:上田藩5万3千石
指定:国史跡(上田城址公園)、日本百名城(指定27番目)
観察:徳川軍を二度にわたり退けた戦歴のある名城。後に徳川方についた
真田信之に家康から与えられたが、結局真田は松代城に退けられた。
しかし真田氏への思いは根強く本丸内の神社を眞田神社と呼称した。
記録:上田城址は三つの櫓が残っている。南櫓、北櫓は明治政府が民間に
払い下げ、遊郭御座敷であったものを、元の場所に移築・復元した。
参照#①近隣の温泉 別所温泉「大師湯」 ②松代城址(信濃国松代藩)
③上田駅前に設置の真田幸村騎馬 ④日本の城郭 探訪紀行
【静岡県温泉探査・駿府城 2019.5.26】
駿府城内(本丸・二の丸)は石垣・堀他は何もない。勿論、時代の為政者の所業なのだが、
本丸中央部に徳川家康の立派な銅像が立っている。この銅像は徳川家康が好んだ鷹狩りの
容姿を現わしたもの。家康公の銅像は彼方此方で観察できるがやはりこの場所が相応しい。
記録:堤達男氏作。高さ6.5m(銅像3.5m)1616年、徳川家康は75歳の大往生を遂げた。
それは、大阪の豊臣滅亡の翌年だ。現代であれば100歳に迫る大往生となるだろう。
参照#①徳川家康公の墓 ②戦国武将(奥方)探訪紀行
映像:復元、駿府城二の丸巽櫓の風格ある景観 (静岡県温泉探査・駿府城編 2019.5.26)
とうとう駿府城に辿り着く。温泉探査の合間の古城巡りはなかなか思うようにいかない。
筆者が愛してやまない本州最北端の弘前城。そこから日本のど真ん中の駿府城への道程
は温泉探査の歩みだ。静岡の友人宅から歩いて約20分、ジックリと早朝の駿府城を探訪。
記録:日本百名城(41番) 輪郭式平城 築城主:徳川家康 築城:1585年 遺構:石垣 、堀
石高:駿府藩50万石(後に江戸幕府直轄、50万石は紀州藩並)再建:巽櫓、東御門、坤櫓
発見:現在、遺構の調査が進んでいる。歴史に名を刻んだ家康公の居城の歴史的な価値を
確認の結果、豊臣時代の天守台遺構の上に台座が築城された形跡、調査が更に進む。
復元:近年、巽櫓、東御門、坤櫓が忠実に復元されている。やはり、往年の六層天守閣が
復元されることが望ましい。戦いの砦ではなく、平和のシンボルとして拝観したい。
所感:徳川家康が晩年を過ごしたお城は規模こそ江戸城に適わないが主要大名が駿府通い
したほどの権力の中枢。そのお城は遺構しか現存しない。それもその筈、江戸幕府
を倒した西の勢力は遠慮なく破壊し、新政府の軍事拠点に目論んだのは疑いもない。
参照#①徳川家康公の奥津城(墓標) ②筆者が愛してやまない弘前城(津軽藩)の探訪紀行
映像:修善寺温泉の奥地にひっそりと葬られている源頼朝嫡男源頼家の墓所
(静岡県温泉探査・修善寺温泉編 2019.5.24)
伊豆修善寺温泉は温泉場として著名であるが、鎌倉幕府の光芒の地としても必見の場所。
修禅寺温泉街桂川竹林沿いを遡る先に指月殿がある。源頼朝と北条政子の待望の嫡子で、
頼朝が亡き後、第二代鎌倉殿(将軍)についたエリートが母方より幽閉・暗殺された地だ。
滅亡:源頼朝は実弟源義経を謀殺、その後継将軍頼家(嫡男)は母の政治的背景(北条氏)に
より実母北条政子の策謀?により幽閉・暗殺された。これで、弟実朝が第三代鎌倉
将軍となるが頼家の三男公暁に鎌倉八幡宮で暗殺され源氏は滅び政子北条氏の天下
となる。結果的に、北条政子という女性は源氏を喰い物にした張本人ということだ。
又、源頼朝は自らの策謀の果て武士本流の名家である源氏を滅亡させたことになる。
考証:その後の時代考証から幽閉された二代目頼家は若年から帝王学を授かり、北条の意
の儘にならない将軍で北条としては政子が溺愛し意の儘になる実朝を擁立希望した。
感慨:修禅寺で源頼家が暗殺された時、入浴中で、激しく抵抗したとのことで恐らく湯殿
は血の海だったに相違にない。修善寺温泉は文字通り、修羅場温泉の歴史を伝える。
参照# ①源頼朝が平清盛より伊豆幽閉中に、北条政子と逢引を重ねたという伊豆山神社
②源頼朝と北条政子との次男・源実朝が源頼家の子公暁に暗殺された鶴岡八幡宮
③頼家の叔父、中世の英雄:源義経の軌跡を辿った 源義経 (悲劇の英雄)探訪紀行