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   ある日のできごと、心の呟き、よしなしごとetc

秋の旅(その2 三井寺)    20241018

2024年10月25日 | 
10月18日は、「光る君へ」の影響で、紫式部にかかわりのあるお寺へ詣でました。

先ず三井寺へ。
「三井寺」のことを「園城寺(おんじょうじ)」とも言うとは知りませんでした。

大門(仁王門)  

           ※三間一戸楼門 入母屋造 桧皮葺

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https://miidera1200.jp/より引用

三井寺は、紫式部にとって仏縁の深い寺でした。
彼女の父親の為時は、晩年を迎えて三井寺で出家したことが伝え
られています。親戚のなかにも三井寺の僧となった人がいます。
母親の兄弟だった康延は、宮中の仏事や天皇の安穏を祈る内供
奉十禅師に任命されていました。また、彼女の異母兄弟の定暹も
寛弘二年(一〇〇五)ころに三井寺で密教の伝授を受け、阿遮
梨となって一条天皇の生母・藤原詮子の追善法要や一条天皇の
大葬の御前僧の一人として参列しています。
『紫式部日記』には、寛弘五(一〇〇八)年に藤原道長の長女
で一条天皇の中宮彰子が出産のため、道長の邸宅に里下りした
ときの出来事が記されています。壮大な寝殿造りの庭園は秋の気
配に包まれ、もののあわれを感じさせる雰囲気です。邸内では安
産を祈って忿怒の五大明王が安置され、三井寺の勝算、心誉、
斎祇といった有験の僧によって密教修法が行われており、護摩壇
からは赤々と炎が燃え盛っています。祈祷に苦しむ物怪のののし
る声が響き渡り、彼女も「いみじう、こはきなりけり」と記しています。
自然の威力に対し神仏の救済を求めた当時の人々の祈りの深さが
伝わってくる印象的な一節です。
ふじわらためとき
藤原為時 [紫式部の父]
長和5年(1016年)4月29日に三井寺にて出家。
三十六歌仙の一人で「小倉百人一首」にも採録された
藤原兼輔を祖父に、「後撰和歌集」などに採録された
藤原雅正を父に生まれ、自身も和漢どちらにも秀でた人であった。
じょうせん
定暹 [紫式部の異母兄弟] 三井寺の阿闍梨*
東三条院追善供養の法華八講に延暦寺の僧として出仕、
一条帝の大葬の百僧の中にも選ばれている。
園城寺寺伝血脈には三井寺18代長吏付法7人の
一人として記載されている。
こうえん
康延 [紫式部の叔父]
三井寺の阿闍梨*
宮中の仏事や天皇の安穏を祈る
内供奉十禅師に任命されている。
*阿闍梨(あじゃり): 密教で修行を完了し伝法灌頂の職位をうけた僧。また弟子たちの模範となる高僧の敬称。
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釈迦堂  

金堂  

    ※現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたもの
    ※本尊弥勒菩薩 

三井の晩鐘  

      


霊泉 閼伽井屋  


三重塔に降る雨  


唐院灌頂堂(とういんかんじょうどう)は、三井寺の中で最も清浄な聖域

   


三井寺には見るべきところがたくさんあります。

  


衆宝観音 

   

      

         


西国札所第14番 長等山(ながらさん) 園城寺(三井寺)
観音堂  

       
 
※堂内に安置されているご本尊「如意輪観世音菩薩像」は、奈良時代の僧「智証大師(ちしょうだいし)」が、自ら刻んだものとされている秘仏

展望台からの景色  

ここだけが紅葉していました。 

    


三井寺を出て、お昼ご飯を食べに行きました。

途中の圓満院門跡で見たお言葉  
  
        怠らず 張りつめず 何でも ほどほど

キンモクセイの芳香  

マンホール   
 

開運そば  

店内にはたくさんの絵馬が飾られていました。

     

開運そば   900円

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