もっとも、あれから彼と全く連絡を取っていないのだから、詳しく知らないのは当然ではあるけれど…。
しかし、彼女はどうして、そこまで詳しく知っているのだろう…?
「なんで宮嶋翔君の代役がこのヒトなのか、納得いかないんですよねぇ」
と、馬川朋美はポスターのなかの、その若手俳優の顔写真を指さした。
「このヒトはっきり言って、素質ゼロよ。顔がそこそこいけるってくらいで。そんなのが宮嶋翔君の代役や . . . 本文を読む
それから取り留めのない会話になって、それが一段落したところで僕は何となく入口を見ると、これから混雑しそうな雰囲気だったので、僕たちはそれを汐に外へ出ることにした。
僕が会計カウンターに立つと、近くにいたウェイトレスが、「ありがとうございました」とこちらへ来ようとしたところ、その前のテーブルで下げ物をしていた山内晴哉“らしき”が、
「あ、自分行きます」
と引き取って、彼がこちらへやって来た。 . . . 本文を読む
「あ、それで、近江さんにお渡ししたかったのって…」
実はこれなんです、と馬川朋美がバッグから取り出したのは、松岡映丘(まつおか えいきゅう) の作品集だった。
松岡映丘とは、明治末期から昭和初期にかけて大和絵の復興に尽力した画家で、日本の近代絵画史にも、もちろんその名を刻んでいる大家だ。
僕にとっては大先輩とも言えるこの偉大な画家の画集を、是非とも手に入れたいものと、出会って間もない頃に . . . 本文を読む
昭和2年(1927年)に開業した当時の車輌をイメージして新造された銀座線“新1000系”に、渋谷で初めてお目に掛かった。
導入されてまだ一ヶ月あまりだが、ノスタルジックなボディーカラーのためか、東急東横の横っ腹を行く銀座線の定番風景に、新車ならではの魅力を失うことなく既に溶け込んでいるのは見事だ。
銀座線“新1000系”は、今年度は試作車であるこの一編成のみの運行で、本格的な導入は来年度以降 . . . 本文を読む
“晴哉”と“はるや”の瞳(め)が、初めて逢う…。
「ああ、それですね…」
「これ、モデルとか、いんの?」
「まあ、一応…」
「カノジョ?」
「まさか…!」
「ふーん」
山内晴哉は再び、“たかしま はるや”さんへと視線を戻した。
彼が僕の作品に興味を持ってくれたらしいことは、ありがたかった。
いつか、「さんさ時雨」を口ずさんだ彼のことだ、少なからず和モノに関心があるのだろう。
. . . 本文を読む
いつも起床する時間の僅か二分前に、電話着信で起こされた。
たとえちょっとでも、予定より早い時間に叩き起こされるのって、一日が始まっていきなり損をさせられたような気分になる。
相手はバイト先の事務所。
復旧したから、やっぱり全員出て来い、かな…?
予想はハズレ。
昨日の強風で屋根が激しく損傷したため、倉庫内の在庫品も全てダメになり、早期の復旧は絶望的、
『…それで大変に申し訳ないん . . . 本文を読む
やがて、誰かに肩を軽く揺すられて、僕は意識を取り戻した。
ハッと頭を上げると、中年の男性が、
「電車、動き出したみたいですよ」
と声を掛けながら通り過ぎて行くところだった。
「あ、ありがとうございます。すみません…」
僕は茫としたまま立ち上がり、辺りを見た。
それまでコンコース外から凄まじい勢いで聞こえていた風の音は止んでいた。
うたた寝の間に、ピークは過ぎたらしい。
“大変 . . . 本文を読む
「ところで、かつて子役だっと云うそのお知り合いの方は、今は何をなさっているんですか?」
それだけはちょっと気になったので、訊いてみた。
「そいつさ、高校に入ってからミュージシャンに憧れて、仲間とバンド組んで活動を始めたんだ」
「ミュージシャン」
「そいつはヴォーカルでね。自分達でCD出したり、PV撮ったり、そこそこファンも付いたりして、けっこう順調にやってたらしいけど、結局最後は仲間割れし . . . 本文を読む
そこへ、パンパンに膨らんだショルダーバッグを肩に引っ掛けた母親と、やけに大人びた服装をした小学校低学年くらいの娘とが、僕たちの前を通り過ぎて行った。
母親は、やはり使えないらしいスマホに指を頻りに走らせながら、「これじゃオーディションに間に合わないわ…」などと焦りまくっていた。
そのオーディションとやらを受ける当人であるらしい娘の方は、“もう終わった”、みたいな表情(かお)。
そんな母娘が改 . . . 本文を読む
「あ、お疲れ様です…」
おやおや、こんなところで会うとは。
「ケータイ、そっちもやっぱダメ?」
「そうですね。圏外ですよ」
「そっか…」
いつ着替えたのか、山内晴哉はパーカーにジーパンといった、ごく普通の服装だった。
見るからにむさ苦しいウインドよりも、こちらの方がよっぽど似合っているような…。
「家、どっちの方なの?」
自宅の最寄駅で答えると、
「川の向こうか。ちょっと距離ある . . . 本文を読む
翌朝。
僕は起床すると、TVのニュースに注意してみた。
昨夜の萬世橋駅での“事故”について、報道されていないかと。
『酔っ払いの男性、萬世橋駅の階段から転落、重傷』
みたいな見出しでね。
もちろん、どこも取り上げているわけがなかった。
パソコンを開いてニュースサイトでも調べてみたけれど、結果は同じ。
ああいった酔っ払い絡みのトラブルなんて、街では日常茶飯事。
そんなのいちいち相 . . . 本文を読む
遅延でいつもより混雑気味の電車内。
予定が狂うことに苛立つわたしの目に映ったのは、
ベビーカーをたたんで脇に立て、
赤ちゃんを胸に抱いて立つ、
若い母親の姿。
車内が混雑していてもベビーカーをたたまない“厚顔無知”が蔓延しているなか、
まだこういう若い親がいることに、
わたしの苛立つ気持ちは、
いつの間にか消えていた。 . . . 本文を読む
翌日。
山内晴哉は「体調不良ということでお休み…」と始業前の朝礼で聞かされて、なぜかちょっとだけ、つまらなく思ったりする。
この日の晩は何だか過ごしやすい陽気だった。
アパートへ直帰は勿体ない。
ちょっと街をぶらついてやろう。
まずは萬世橋駅で下車して。
別に萬世橋駅でなくてもいいんだけれどね。
あの駅舎が好きなんだ。
明治45年に開業した時のままの、あのノスタルジックな . . . 本文を読む
午後の作業が始まって暫くしてから、ケータイへメールの着信があった。
チラッとディスプレイを見ると、翔から。
昼休み中に翔へメールしようと思っていて、ボールペンと「さんさ時雨」と山内晴哉との一件があったために、すっかり忘れてしまっていたことに気が付いた。
そんな時に向こうの方からメールしてくるというのも、何かの因縁?
十五時の小休止の時に、休憩室で開いた。
『“紅旗征戎、吾事に非ず . . . 本文を読む
当然ながら、休憩室にも彼の姿はなかった。
そこで、午後の作業が始まったら何とか見つけて返すことにした。
でもその前に、自分のボールペンを探そう。
あれだって元手がかかっているんだ。
食事を済ませると、ピッキング商品が棚に所狭しと詰め込まれた作業エリアの、自分が午前中に通ったコースをもう一度探して歩いた。
昼休み中は節電で照明を消しているから、構内は薄暗い。
健康食品を保管している . . . 本文を読む