クルマ好きなら誰しも一度くらいクルマ屋になりたいと思うでしょう。
何たって色々なクルマを見て触れて乗れるんですから!
私自身も夢はCGの編集部員かクルマ屋が理想だなんて嘯いていた口ですね(^^;。
クルマ屋になりたいからと言って誰しもなりません?!
どちらかいうとクルマ屋ってヤクザな商売ですね(苦笑)。
私自身も決して漠然とクルマ屋に対する憧れはあったもののあえて計画性が
あった訳でもなく、ましては脱サラで一旗揚げようと言う気もさらさらありませんでした。
どちらかいうとヒョンなことからクルマ屋になってしまったという極めて
不純な?動機かもしれません。
Drの生い立ちを少し書きます。
昭和○X年京都の右京区太秦で生まれました。
太秦と言えばあの映画村が有名です。
当時、クルマは全く一般家庭には普及してなく医者かタクシーか商用車くらい
しか走ってない時代でした。
医者が往診に自家用車で我が家に来ると「乗せて~」とダダを捏ねて一周乗せて
貰いました(笑)。
小さいながら商売をしていたので店で中古のトラックを買いました。
たとえ中古トラックと言えどもクルマには違いありませんから私(幼少)にと
ってはそれでも嬉しくて仕方ありません。
朝の6時頃から起き出しトラックの運転席に座りやれワイパー動かしたりミッション、クラッチ等のお勉強をしこたまやったものでした(苦笑)。
又、店の運転手が配達に行くときは必ず同行?します。
出入りの運送屋のトラックでも平気で乗り込みました(^^;。
たまに高級乗用車が来ると目の色が変わります(苦笑)。
運送屋のオヤジが黒セドリックに乗って来たときは急に運送屋の子になります(笑)
当時まだ名神高速道路は未開通の時代でした。
日本のモーターリゼーションは全く遠い頃でそれからずいぶんしてからマイカー
ブームなるものが始まりました。
今から思えば当時クルマを所有出来た人はとても幸せだと思います。
道路は未整備ながらガラガラですしある意味で本当に移動手段としてのクルマの
価値が発揮出来たと思います。
輸入車なんか本当に鎖国の時代で高い関税をかけられ一部のハイヤーくらいで
まずお目にかかれませんでした。
思い起こせば当時はクルマならなんでもよかったのです?!
トラックでもオート三輪でも・・・
そんな時代だったのですね!
当時の私は自動車大好き少年で雑誌の付録の「自動車手帳」なるものと毎日睨めっこですから国産車ならボディやインパネの一部を見ただけで「これはクラウン!」
とか当てられるまでにオタクでした(苦笑)。
この太秦時代はクルマ以外の学校の成績なども比較的優秀で末は博士か大臣かとまでは言われませんでしたが(笑)、夢は科学技術者でした。
しかし家庭の事情で転校を余儀なくされ比較的環境の良かった太秦から柄の悪い?
某地区(近所には五番町夕霧廊があります)に引っ越してからDrの苦難は始まるのでした・・
続く
上の画像は若いときののDr
下の画像は創設時のH.T.C
右の6畳一間のスズキハウスが事務所で社員はDr一人でありました(^^;
何たって色々なクルマを見て触れて乗れるんですから!
私自身も夢はCGの編集部員かクルマ屋が理想だなんて嘯いていた口ですね(^^;。
クルマ屋になりたいからと言って誰しもなりません?!
どちらかいうとクルマ屋ってヤクザな商売ですね(苦笑)。
私自身も決して漠然とクルマ屋に対する憧れはあったもののあえて計画性が
あった訳でもなく、ましては脱サラで一旗揚げようと言う気もさらさらありませんでした。
どちらかいうとヒョンなことからクルマ屋になってしまったという極めて
不純な?動機かもしれません。
Drの生い立ちを少し書きます。
昭和○X年京都の右京区太秦で生まれました。
太秦と言えばあの映画村が有名です。
当時、クルマは全く一般家庭には普及してなく医者かタクシーか商用車くらい
しか走ってない時代でした。
医者が往診に自家用車で我が家に来ると「乗せて~」とダダを捏ねて一周乗せて
貰いました(笑)。
小さいながら商売をしていたので店で中古のトラックを買いました。
たとえ中古トラックと言えどもクルマには違いありませんから私(幼少)にと
ってはそれでも嬉しくて仕方ありません。
朝の6時頃から起き出しトラックの運転席に座りやれワイパー動かしたりミッション、クラッチ等のお勉強をしこたまやったものでした(苦笑)。
又、店の運転手が配達に行くときは必ず同行?します。
出入りの運送屋のトラックでも平気で乗り込みました(^^;。
たまに高級乗用車が来ると目の色が変わります(苦笑)。
運送屋のオヤジが黒セドリックに乗って来たときは急に運送屋の子になります(笑)
当時まだ名神高速道路は未開通の時代でした。
日本のモーターリゼーションは全く遠い頃でそれからずいぶんしてからマイカー
ブームなるものが始まりました。
今から思えば当時クルマを所有出来た人はとても幸せだと思います。
道路は未整備ながらガラガラですしある意味で本当に移動手段としてのクルマの
価値が発揮出来たと思います。
輸入車なんか本当に鎖国の時代で高い関税をかけられ一部のハイヤーくらいで
まずお目にかかれませんでした。
思い起こせば当時はクルマならなんでもよかったのです?!
トラックでもオート三輪でも・・・
そんな時代だったのですね!
当時の私は自動車大好き少年で雑誌の付録の「自動車手帳」なるものと毎日睨めっこですから国産車ならボディやインパネの一部を見ただけで「これはクラウン!」
とか当てられるまでにオタクでした(苦笑)。
この太秦時代はクルマ以外の学校の成績なども比較的優秀で末は博士か大臣かとまでは言われませんでしたが(笑)、夢は科学技術者でした。
しかし家庭の事情で転校を余儀なくされ比較的環境の良かった太秦から柄の悪い?
某地区(近所には五番町夕霧廊があります)に引っ越してからDrの苦難は始まるのでした・・
続く
上の画像は若いときののDr
下の画像は創設時のH.T.C
右の6畳一間のスズキハウスが事務所で社員はDr一人でありました(^^;