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(マラッカ「鄭和博物館」の大船団模型)
【世界遺産の街マラッカ】
昨日、マレーシアのマラッカにやってきました。
約1週間、マラッカの街をブラブラ観光する予定です。
通常のマレーシア旅行だと、マラッカは首都クアラルンプールから日帰り旅行ですますことが多いかと思います。
一般的な関心度で言えば、その程度の街なのでしょう。
しかし、慌ただしい日帰り旅行では惜しいほどの魅力がある街です。
日本経済を支えるシーレーンの要、「マラッカ海峡」という交通の要衝にあり、歴史的にもアジア交易の中継地としての重要性から、ポルトガル、次いでオランダ、更にイギリスが進出(侵略)したため、これら列強が支配した時代の史跡が点在します。
また、マレー人と古くからこの地に暮らす華人の文化の融合した文化もマラッカの特徴です。手近なところでは、料理でその文化融合を確認できます。
そうしたことから世界遺産に認定されている街です。
4月に旅行したパキスタンはやはり“アウェイ”の感がありましたので、今回は世界遺産の街マラッカで何をするでもなく、どこに行くでもなく、グダグダとしようかという計画です。
【鄭和の西洋下り】
昨夜、クアラルンプールの空港からバスでマラッカに直行し、今日が観光初日。
今日訪れたスポットで一番印象に残ったのが鄭和博物館。
鄭和(ていわ)・・・中国・明の永楽帝の命を受けて、1405年から1433年、大船団を率いて7回に及ぶ遠征を行った人物で、その遠征先は東南アジア・インドは言うに及ばす、インド洋を渡り、アラビア(メッカなど)や東アフリカ(ソマリアのモガディシオなど)にまで及んでいます。
どのぐらいの大船団だったかと言えば、“『明史』によればその航海は下西洋(西洋下り)と呼ばれ、その船は長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)という巨艦であり、船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りにのぼった”【ウィキペディア】とのことです。
ヨーロッパの大航海時代の100年前の話です。
“約百年後、喜望峰を廻ったヴァスゴ・ダ・ガマの旗艦は120トン級が3隻170名。コロンブスの船団は250トン級が3隻、88名の乗組員だった”(「Melaka Guide」 http://melakajp.com/history/102.html)ことからも、その桁外れの規模がわかります。
遠征とは書きましたが、別に武力行使に行った訳でなく、一言で言えば大船団を見せつけることで、大帝国明の威信を世界に知らしめたということではないでしょうか。
もっとも、直接的利害関係のないインド・スリランカ・アラビア・東アフリカの国々は「遠路はるばるようこそ」で済みますが、中国の影響が直接及ぶ東南アジア諸国はそれでは済みません。
日本は幕末に4隻の黒船で上へ下への大騒ぎとなり、時代を動かす歯車が大きく回った訳ですが、鄭和の大船団を目にした東南アジア諸国の驚きはもっと大きかったでしょう。
見たこともない巨艦、海を埋め尽くす大船団が突如現れたのですから、明の威光に逆らうような選択肢はなかったでしょう。
マラッカ王国もそのひとつです。
マラッカ王国の対応については、前出Tony氏のサイト「Melaka Guide」“マラッカ王朝の繁栄と朝貢(前編)”(http://melakajp.com/history/102.html)“マラッカ王朝の繁栄と朝貢(後編)”(http://melakajp.com/history/103.html)に詳しく書かれています。
一日暑い中を歩き回って疲れていること、旅先でネット事情もよくないこともあり、グダグダ書くのはやめます。
鄭和の名前と偉業の概要ぐらいはもちろん知っていましたが、博物館でその一大事業の一端に触れ、あらためてそのスケールに感嘆した次第です。
現在、中国は南シナ海への進出を強めて関係諸国との軋轢を強めています。
また、「真珠の首飾り」戦略で、インドを包囲するようなインド洋進出も進めています。
600年前に鄭和が行った現在をはるかに凌ぐような大遠征に、類似性も違いも見ることができるでしょう。