家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

麿君の外出

2005-12-24 11:34:20 | Weblog


平成10年9月19日
初めて我が家にやってきた虎柄の子猫が「麿」という名を付けられ一緒に生活することになった。

同年10月28日水曜日
暴走族風の車に撥ねられてから一切外出しなくなった。
それからは2階ベランダから下を覗き込み通りかかる猫に呼びかける程度が外の世界とのわずかな繋がりであった。たまに玄関から出るときには決まって動物病院に行くときであって麿君にとっては、最悪の外出であった。

そして平成17年11月25日(金) 事件は起きた
私の膝にいた麿君がポトンと降りて部屋を出て行った。
すると玄関ドアの施錠を外す音がした。「ガシャン」という音で私は妻が帰宅したことを知ったのだが麿君は、その前から妻が帰ったことを察知していた。
玄関に入ってくるなり妻の声が聞こえた。誰かと携帯電話で話をしていた。
しばらくすると今度は隣の部屋の固定電話で喋っている声が聞こえた。
私はパソコンに集中していた。
裏庭で「チャリン」という金属音が聞こえた。風で何かが落ちたのではなく誰かがいるという気配を感じた。
私はカーテンをサッと開けサッシをガラガラと開けた。この頃の5時過ぎはもう夜のように暗い。体を少し出すとセンサーライトが瞬間に点いた。猫が通っていた。猫のほうも驚き私を見上げた。
何と「麿君」だった。
私は驚いたがすぐに納得できた。妻が帰宅して玄関ドアを開け放したまま電話に夢中になっていた、その時出てしまったのだ。
隣の部屋で電話している妻のところに行き
「電話を切れ」という合図をした。
妻は私の形相から緊急事態を察して、すぐに話を切り上げた。
「麿君が外にいるぞ。玄関で電話しているときに逃げたのだ」と言うと
「えぇ」と驚き、すぐに自分の落ち度に気付いて「ごめんね」と言った。
捜索のため私は裏口から妻は玄関から外に出た。
ほどなく裏庭で麿君を見つけた。私が呼んでも全く帰って来ようとしない。一歩近づいてみた。その時庭に置いてある植木鉢に足が触れ大きな音を立てた。すると麿君は、その音に驚いて逃げた。しかしそちらの方向には妻がいる。妻も麿君の姿を確認し「麿君麿君」と呼んでいる。
私が更に近づこうとすると妻の側に逃げる。これはちょうど良いと思いもう少し接近した。
妻が捕らえたかなと思ったのだが、「いなくなっちゃった」という言葉が聞こえた。
「何やってんだよ」と私は激高して言った。

私は一旦家に戻り懐中電灯を2個持って出た。妻に一つを渡しふた手に分かれて探そうと言った。
まず私は一軒置いて隣のアパートの敷地に入った。
居た。麿君は私に「ニャー」と、か細い声で鳴く。姿を確かめようと懐中電灯で照らすと、その光が怖いらしく逃げていってしまう。それではと直接照らすのを止めた。
「おいで。麿君おいで」などと言いながら近づいた。しかし私の姿すら怖くてブロック塀に飛び上がり次の瞬間別の家の敷地に降りてしまった。瞬間に見た麿君の尻尾が太くボサボサになっていた。そうとう恐怖の状態であることが見て取れた。
降りてからは不安になったらしく「アーオ。アーオ」と鳴いた。その寂しげな鳴き声は麿君の居場所を示している。
すかさず妻に電話をかける。呼び出し音はなるが、しかしなぜか妻は応答しない。
代わりに「電源が入っていないか電波の届かない場所に・・・・・・」などと余計に逆上したくなるメッセージが私の耳に入れられた。

麿君が入りこんだ家の玄関側に妻の灯す懐中電灯の光が見えた。
「おおい。ここだよ。ここに居るよ」と妻に大声で伝えた。もはや近所迷惑を顧みず焦りのままに行動した。
妻は、その家の住民に断わり猫捜索の承諾をもらった。その家の夫婦も出てきて裏に居た私と話をする。できるだけ繊細に探したい私たちとは裏腹に、その家の主は
裏に通じる空き地に放置してあるゴミなどの言い訳を言いつつ、且つそれらを音を立てながら無造作にどけつつやって来た。そして「ここから追えばあっちに出るかな?」と言う。もうそんなことを言っているうちに麿君は充分に追われた気持ちになり、そのまた隣の家に入り込んで行った。

麿君の姿を見失った妻が私の近くにやってきた。
「おい電話に出ろよ」と言うと、すぐに「はい分かりました」と言う。
二人で話していたところにアパートの住人が自転車で帰宅した。
わけを話して敷地に入ることの追認を受けた。
妻はその住人と一緒に探し始め私は、さきほど妻が居たところに移った。ちょうど夫婦が入れ替わったような形になった。
「ああ大変シロが襲い掛かる」という妻の声が聞こえた。
見ると近所の家の飼い猫のシロが麿君を追い詰めていた。先ほど不安げに鳴いた麿君の声が期せずして他の猫を集めてしまう結果になったのだ。

シロは麿君と同い年の猫で小さい頃は一緒に遊んだ仲間である。麿君は家から全く外出しない猫となったがシロは従来の飼い猫のように、ある家に帰属するが外での行動は全く規制されないという生活をしていた。その結果、シロはこの辺りのボス的な存在になり広範なテリトリーを徘徊する毎日であった。
そのシロがかつての友達を威嚇している。かつては麿君がリーダー的に遊んでいたが今や形勢は全く逆転していた。

私は、その家の住人に、ことをかいつまんで説明し裏に入らせてもらった。
「ウワーオゥ。ファーッ」「イャァオウ  ワーオゥ」「ファーッ」などと不気味な声の響き渡る闇の通路、私が入っていくと依然として睨み合い威嚇の声を掛け合っていた2匹の猫は動きを見せた。通路に居た麿君が逃げたのだ。そこへブロック塀の上をゆっくり歩いていたシロが襲い掛かり2匹が一体となってグルグルと回りながら場所を移した。私もすぐに向きを変えて走っていった。その家の玄関先に停めてある車の下で再び睨み合っている。車のバンパーの下にシロの姿が見えた。私は走っていって思い切り蹴り上げた。しかし、そこは猫。私の蹴りなどが当たるはずも無かった。
次の瞬間「フギャー」という声と共に2匹が分かれた。車の下から出て行くシロの姿が見えた。悠々とした足どりで自宅の方向に戻っていく。尻尾が相変わらずホワンホワンと上下に揺れる。
私はシロがとても憎くかった。運動神経も悪く木にも登れないし足も遅い。そんな猫失格のような奴が・・・・・。数々の喧嘩に因って片耳が折れ曲がり、片足をひきずり、体に対してアンバランスに見えるほどの大きな顔にはギョロリと光るふてぶてしい小さな眼がある。この7年間の過ごし方の違いが体形や行動となって如実に現れていた。
それは人間界でも、どうしようもない奴が全くの善良な市民を理不尽に襲うようなケースにも思われた。
シロが去って言った後麿君の行方は全く分からなくなった。シロに追いやられたため、もうこの近くには居ないかもしれないと思い捜索範囲を広げた。しかし隣接する住宅地を探してみたが見つからない。

冷静に考えてみれば夜猫を探そうとすることが無理なのだと気づいた。もし仮に見つかったとしても呼びかけに応じてくれまい。また逃げていってしまうだろう。先ほども私の姿が怖かったのだから、シロに威嚇された今はもっと恐怖感が増しているに違いない。

私は妻に「家に帰って待とう」と言った。
麿君が帰って来たくなるのを待つしかない。

裏口を開けたまま、できるだけ我々の常の生活のように話し声を聞かせようという作戦にした。妻は麿君の餌の入っている容器を持ってきた。容器を振るとカリンカリンとキャットフードの音がする。

妻が「玄関に猫の声がする」と言った。私には聞こえなかったが私は裏口から探してみようと思い裏口からでようとした。すると麿君が居た。
「麿君」と声を掛けるとササッと逃げてしまう。
玄関に居る妻を呼び戻した。
「裏に麿君が居るのだけど呼ぶと逃げてしまうから」と言うと妻は顔を見せずに部屋の中で「麿君。おいで」と餌の容器を振った。
しばらくして妻が裏口からそーっと覗くと、家の中に入りたいけど怒られてしかたなく外に居る、というような姿の麿君を見つけた。できるだけ刺激の少ない声で
「マーロ君。さぁ、おいで。いい子だね」とやると、すっと家の中に入ってきた。
あわてず窓を閉めて一件落着。17:15~18:30までの7年ぶりの外出であった。

戻ってきた麿君の体を雑巾で拭きながら怪我は無いかと探した。私が麿君の体を支え妻が体を拭いていく。その時私のズボンとシャツに麿君の放出物がかかった。水様便のような物で猛烈に臭い。また体の毛がまとまって抜けている。帰宅してもまだなお興奮していることが分かった。
幸い怪我は全く無かった。シロから喰らった一撃も、たいしたことはなかったようだ。

落ち着いてから考えた。
捜索している間私はパニックしている妻が腹立たしくてしかたがなかった。麿君を自分の不注意で逃がしてしまった上にケータイもマナーモードにしていたことを忘れていて、私からの連絡が全く届かず連係プレーができなかった。誰にでも不注意はあることだが、その後の処置如何で失ったものの回復が可能なことは多い。このように不注意に不注意を重ねることは問題を大きく複雑にしていってしまう。
しかし逃がしてしまったことを素直に認め、さらに反省しながら探している妻を罵倒することはできなかった。逃がしてしまっていちばん辛いのは妻なのだろうから。
「こんな時こそ、しっかりしてくれよ」とは大声で言ったが「馬鹿ヤロウ!」のような言葉は浴びせなかった。正直、浴びせて私のストレスをぶつけたかった。私にも麿君は掛買いの無い存在なのだ。

また今危篤状態の妻の母親が麿君を連れて行ってしまうのか、とも考えた。
交通事故に合わせるなり猫同士喧嘩をさせることによって麿君の命を奪ってしまう。
妻の母親は常に感情的に行動するタイプで、しかも自分の失敗は、いつも他人のせいにしてきていた。特に身近に居た妻に対しては、ひどかった。今死の瀬戸際に居て妻の大切にしているものを奪い去り妻の涙を見てからあの世に行くのかと。
だがそれも私の思い過ごしであったようだ。3日後の11月28日午前9時15分妻の母親は静かに息を引き取った。

シロが麿君を攻撃したが全く怪我をさせていないし深追いもしなかった。結局それはシロの挨拶程度のものだったのかもしれない。人間には猫同士の喧嘩にしか見えないが、その実お互いの演技であったのかもしれない。
妻はその夜下痢をした。何年ぶりかだという。麿君が戻った段階でお腹がゴロゴロとなったという。その後も立て続けに4回トイレに駆け込んだ。やはり精神的にかなりのショックがあったのだろう。
私の怒鳴り声が原因だと後日妻は証言した。

数日たった現在でも麿君の異常さは完全には直っていない。
隙あらば逃げ出そうという姿勢が見られる。
玄関が開く瞬間を良く知っていて、玄関の隅で待っている。幼い子たちがピアノのレッスンに来たときには最大のチャンスが到来する。
危険極まりないので、そんなときには麿君を2階に連れて行き下に下りて来られないように扉をロックしておく。
1時間ちょっとの外出が7年ぶりに外界と接触して、それはそれは目眩めく感覚を覚えたに違いない。危険というのは一面甘い誘惑なのは猫も人間もかわりはないのだろう。

妻の下痢も治り私の膝でトロトロとまどろむ麿君を見るにつけ不意に起きた麿君外出事件が最も良い方向で終息したことに感謝し、この家族に、今まで以上に幸せを感じている。