家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

犬と歩きたい

2015-09-08 09:51:34 | Weblog
毎日振り続く雨の中の晴れ。

この一瞬の輝きの日、予定通りに駒ヶ根もみじクラフトに出かけた。

会場には老若男女が楽しそうにテントの店をのぞいている。

私は犬が気になった。

飼い主と一緒に歩くのだが、混み合う中でも、まるで一心同体に歩いている。

邪魔になってしまう犬はいない。

飼い主との毎日の充分な散歩が容易に想像できた。

背中に革製のバッグを背負っていたりハンチングを被ったり派手な洋服を着ている犬もいた。

「幸せそうだな、この犬たち」

日陰で休んでいる犬を見て飼い主に尋ねた。

「この犬は何という種類ですか」

「ポーチュギーズウォータードッグです」と答えた。

「ポルトガルの水の犬ですか」と言うと「そうです」と答えた。

「水のある環境にお住まいですか」と問うと「用水がありまして、そこに飛び込んで流れているペットボトルを拾って戻ります」と教えてくれた。

仕事のできる喜びを感じているから、こんなに落ち着いているのだなと感じた。

別の所に移動した。

テーブルに相席させてもらうことにした。

そのテーブルの横には黒いプードルと白っぽい犬が並んで座っていた。

私たちより少し年配の夫婦が飼っているようだ。

「この子は昨日お預かりしたばかりです。こちらの子は、もう年で明日逝くかもしれません」と言った。

聴導犬という人間のために働く犬を預かっているボランティアだった。

「この子(プードル)は若くて明日から訓練に入ります。白い犬(柴犬とポメラニアンのミックス)は最期を看取ってあげようとして預かっているのです」と言った。

我が家にも犬がいた。

ミニチュアシュナウザー犬で名前をカイザーと言った。

16歳で召されるまで家族として過ごした。

最期を看取る時には、たいへん辛い思いをした。

それが嫌で犬はもう飼うまいと決心したのだ。

「あの辛い感情を乗り越えている人たちなのだなぁ」と尊敬の眼差しの私。

気持ち良い場所を犬と一種に歩く喜びを再び味わいたい。

だが犬を看取る勇気はない。

たまには知り合いの犬を借りて仮初の幸せを感じるのが現実的で、ずる賢いやり方だと思った。