家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

チマッティ

2007-11-16 08:56:52 | Weblog
29年前長男の誕生記念に買ったオートバイが戻ってきた。

いろいろな事情からよそに預けてあった。

やっとモーガンの二階に落ち着くことになった。

子供たちが小学生のころには川原で乗ったりした。

次の代が乗ってくれることを期待して大事に保管しておこう。

クサギとり

2007-11-15 08:00:39 | Weblog
春野に生えている雑木クサギの実をとった。

高枝切りバサミで枝ごと下に下ろし花だけを籠に入れた。

幹線道路上でやっていたので「何をとっているのですか」と立ち寄る人もいた。

車の中からみんな見ていた。

クサギは読んで字のごとく臭い木であり枝の切り口から耐え難い臭気を発する。

なぜとるのかというと草木染めに使う。

実から出るブルーがたいへん美しいらしい。

早く次の「染め」段階に進みたい。


陳昌鉉氏

2007-11-14 12:16:16 | Weblog
弦楽器製作家の陳昌鉉氏の講演会に行ってきた。

有名なイタリアの弦楽器製作家アントニオ・ストラディバリを例に出されて分かり易く話をしていいただけた。

後半陳昌鉉氏製作のバイオリンを使った演奏が行われた。

ちょっとがっかりした。

「鼻が詰まっているし喉に痰がからんでいる」そう感じられたのだ。

バイオリンを持ち替えて演奏があった。

今度は低音に深みがあり高音に輝きがあり透明感があった。

しかし名器というほどではない。

演奏を終え演奏者が説明をした。

「初めに弾いたのが2007年製で後が2006年製」

これには驚かされた。

1年で、こんなにも違いが出るものかと。

成長しているのだなと。

ならストラディバリウスは270年以上経っているのだから、このバイオリンも270年後には素晴らしい音色になるに違いない。

この講演会のタイトル「音に夢あり」の意味が少し分かった気がした。

母と妹

2007-11-13 10:18:11 | Weblog
母を妹の所に連れて行った。

彼女はパーキンソン病に罹り介護つきのアパートで暮らしている。

母に「お姉ちゃん」と言って甘える姿がかわいい。

最近は亡くなった人のことをよく考えるという。

いちばん多く思い出すのは母親だと言った。

こんなとき母親だったら、どう教えてくれるだろうか、と思うという。

私も、おばあちゃんだったら、どう言うだろうか、と考えることがあり今でもそのおばあちゃんを頼りにしている部分がある。

頼りにされる人間にならなくっちゃと思う。

冥土の土産

2007-11-02 09:32:41 | Weblog
母と旅行に行った。

歩きに自信をなくしている母に車椅子も持っていくからという条件を出して承知させた。

母が冥土の土産に伊勢神宮を見たいと言うので鳥羽に宿泊し翌朝伊勢神宮に行くことにした。

内宮に着き車椅子を出して歩き始めた。

いつもは手押し車を押しているので、その代用として車椅子を押して歩いた。

五十鈴川にかかる宇治橋を渡っていると、母の姿を見て

「空で押しているならもったいないから、誰か乗せてもらえばいいのに。○○さんどう?」などという軽口が我々の後から聞こえてきた。

はじめは聞こえない振りをしていたが、一向に止む気配がないどころか、そこに入ってきた悪乗りおばさんもいて、我慢が出来なくなった私は歩きながら振り返ってみた。

メタボリック症候群のオヤジだった。

旗を持っているということは、あれでもガイドなのだろう。

便所用のサンダル履きだった。

私は特別恐い顔をしたわけではないが「止めろ」という意志が表れていたのだろう。

急に真面目になったメタボリックオヤジは「あれなら転ばない」だの言い始めた。

ついでに悪乗りおばさんも「大変だけどがんばるね」ぐらいのことを言う。

私は彼らの改心に満足して、それ以降は後を振り返ることはしなかった。

孝行少年になりきっている私は、それ以上続いていたら決して許さなかったと思う。

何も伊勢神宮まで来て大きな声を出したくもなかったから助かった。

五十鈴川で手を洗って母は昔訪れたときのことを思い出して嬉しそうだった。

樹齢1000年以上の巨木に感心したり池で泳ぐ鯉の鮮やかな姿を楽しんだ。



もう何人もの車椅子を押した経験がある私は、とうとう母の番になったかと思うと分かってはいたものの寂しさを感じた。

冥土の土産という言葉を出すと母は少し気が楽になるようだ。

「もうあと残り少ないから悪いけど連れて行ってね」という気持ちから、そう言うらしい。

「とんでもない。そんな簡単に冥土に送るか」と私の本音を隠して車椅子を押した。


砂利に車輪を取られて重かった。

だが舗装路に出ると、まるで空っぽのように軽くなった。

この実感は私自身の冥土の土産だと感じた。