ドンキホーテがドン・キホーテであってドンキ・ホーテでないなんて気がついたのは何時頃だったでしょうか。多分、もう4、50歳にもなっていたような気がします。
子供の頃に思い込んでしまった言葉は少々のことでは間違っているなんて気がつきません。一生気がつかずに終わるものもきっと沢山有る筈です。自分の勉強不足を恥じるべきなのでしょうが、この程度のことは誰にでもあると割り切った方が精神衛生には良さそうです。
それでも気がついたときには驚きと恥ずかしさの混じった複雑な気持ちになります。ドンキホーテは私と同じ様な人が多いようです。
11月5日読売新聞、コラム「なぜなに日本語」より
切れ目はどこ? その1
セルバンテスの小説の主人公を「ドンキ・ホーテ」と区切ったら間違いです。貴族の名前に付く敬称がドンなので、「ドン・キホーテ」が正解。枕草子の作者は、性は清少、名は納言?いえ、お父さんの清原元輔の性にちなむ「清」と、位を表す「少納言」を合わせた呼び名といわれますから、区切るなら「清・少納言」でしょう。
全く見通しが立たないのを「五里霧中」とたとえます。「手がかりがつかめず、捜査は五里霧中だ」などと使います。でも「五里」先まで「霧中」なのではありません。「五里霧」でひとつの言葉です。「五里霧」は、昔、中国で道術の使い手が起こしたとされる五里四方に立ちこめる深い霧を指します。「五里霧」の「中」では、方角が分からず、どちらに進めばよいのか見当もつかないというところから生まれた言葉です。「霧中」を誤って「夢中」と書くことがありますが、これは「五里」で切ってしまうのが、原因のひとつかもしれません。(用語委員会・関根健一)
「清少納言」も「五里霧中」もこんないわれがあるとは知りませんでした。こうして見ると、本当にいい加減に言葉を覚えています。と言うか気にもしていない。
しかし、こうなると何気なく使っている言葉の殆どが何も知らずに思い込みだけで覚えたものだけに使うことが恐ろしくなります。とは言いながらも、今更すべての言葉の意味を調べるのも大変です。
気になるものは調べて、それ以外は気にせずに行きましょう。
それにしても日本語の難しいこと!