田中英道さんが得意のユダヤ説で『京都はユダヤ人秦氏がつくった』とのタイトルで新しい本を書いてくれたようです。この説は大好きです。
それを宮崎さんが書評で取り上げてくれています。何時ものように他では見られない御自分の知識や体験が入った面白いものです。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和三年(2021) 1月31日(日曜日) 通巻第6785号
書評
ユダヤ人の埴輪があり、古墳も京都遷都も秦氏らが建築技術を支えた
漢族ではなく、「秦氏はユダヤ人だった」。弥生時代に日本人に同化した
田中英道『京都はユダヤ人秦氏がつくった』(育鵬社)
奇想天外、ぶっ飛びそうなタイトルである。ところが気をつけて精読すれば「古都京都の原形をつくった」のがユダヤ系の渡来 人、秦氏だと言っているので、題名とは落差がある。戦前から「日猶同祖論」はかなり人口に膾炙されていたが、軍部の一部は偽 書「シオンの議定書」を本物と思いこんでいた。
いまも未だアラブ諸国では信じられているらしい所謂「ユダヤ陰謀論」と、本書はいささかの関係もない。
ユダヤが世界を支配するなどとする戯言(ざれごと)の偽造文書はフランスの書類偽造集団が作ったのである。これを援用したの がロシアの秘密警察で、その後、ドイツに流れ、そして日独伊三国同盟時代に日本にも紹介された。
人類史を紐解けば、基本的に明らかとなることがある。
ホモ・サピエンスはアフリカで20万年まえに誕生し、長い、長い歳月をかけてアフリカから欧州へ中東へ移動した。ユーラシ アをゆっくりと東へ進み、わが国へはシベリアからマンモスを追った狩猟民が北海道、東北へ棲みつく。25000年前とされ、 この集団が縄文文明を築く北方系である。典型は三内丸山遺跡だ。
他方、中東、印度を経由した海洋族系はジャワ、ボルネオあたりから丸木舟で九州、四国、房総半島へ入り込んだ。およそ三万 五千年前、典型が薩摩の上野原縄文遺蹟、房総の墨古沢遺蹟だ。
弥生時代には、縄文人という「原日本人」にまざって大陸、半島から夥しい渡来人がやってきた。そして日本に棲み着くのだ が、多くが漢族、朝鮮族とこれまでは解釈されてきた。だが「漢族」と仕分けされた人々のなかにユダヤ人、遊牧民族が夥しく混 入していた。彼らはすばやく日本に同化した。
さて本書で田中氏が力説するのは、秦氏はユダヤ人であり、弥生から平安時代にかけて、とくに聖徳太子の御代までに夥しく やってきた。全盛は雄略天皇の頃で、数万人が日本に移住してきた。
「秦氏を厚遇した第二十一代雄略天皇と秦氏との間には密接な関係があり、分散していた秦氏の一族の統率を試み、養蚕業を奨 励するなど、とくに秦氏の技術を重用しました」と田中氏はいう。
しかし、「雄略天皇は日本の自立性を強く進めており、中国もそれをみとめていたのです。(シナの古書のいうところの倭国の五 王のひとつ)武、つまり雄略天皇の最後の(シナへの)遣使は四七八年です。資料上確実な倭国の次の遣使は六〇〇および六〇七 年の遣唐使」(78-79p)。
かくして秦氏らが日本の宗教に早々と同化し、古墳、平安京、神社(氷川、松尾神社など)、そして寺院(広隆寺など)を夥し く建設したというのだ。たとえば、氷川神社はスサノオを祀り、関東だけでも二万八千社。総本山は大宮一宮氷川神社だ。JR大 宮駅の東口から北東へおよそ15分ほど、敷地は宏大である。この氷川神社にも松尾神社の小祠がある。
スサノオは出雲で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠もる 八重垣つくれ その八重垣を」と謳った。
その『古事記』の原文(漢字)は次の通り。
「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」
このスサノオがなぜ渡来人と混同されたかと言えば、新羅降臨説があるからだ。
祗園は「シオン」から来ており、京都の太秦は「秦」氏集団の居住地だった。太秦は時代劇のスタジオがあるが、むかしは「兔 豆麻佐」と呼称された地域で酒と絹織物の産地だった。聖武天皇の御代に『太秦』となった。評者(宮崎)にとっては、太秦と聞 けば、保田輿重郎の自宅があって、訪問したことを思い出した。
仁?天皇御陵など、巨大古墳は、秦氏が献金し、建築技術ももたらしたという、いささか牽強付会な議論が延々と展開される。
正倉院の宝物は中央アジア、ペルシアからのものが多いが、「正倉院をつくったのもおそらくユダヤ系の大陸の人々で」(中 略)「全国の神社の大半をつくったのも秦氏です」と断定的になる。
神道は古代からの自然崇拝、アマテラスオオミノカミは太陽の女神、仏教がはいるに及んで神社は形式が必要となり、磐座を拝 んできた古代スタイルから拝殿、本殿、鳥居という神社のかたちがうまれたのは事実だが、このスタイルの創造に、はたして秦氏 はどこまで関与したのだろうか?
ちなみに磐座(いわくろ)信仰は出雲系の特色である。イザナギの御陵とされる熊野の「花屈神社」は本殿が巨大な磐である。 三輪山は山そのものが神殿と見なされている。
いずれも訪れてみると神々しく、壮麗な神域である。
三輪山の麓に鎮座する大輪神社の付近には金屋、穴師という地名があって、その昔、製鉄が行われていた痕跡がある。鉱脈に近 い場所に磐座信仰が生まれた。
専門家の一人、村井康彦氏は言う。
「主として山中で出くわす巨岩奇石に畏怖の念を抱き、これを神の依る磐ーー磐座とみなして祭祀の対象とする」(中略)のが 出雲系の特色だが、理由は「顕著な鉱山の開発、ことに鉄生産の仕事と深い関わりがある。工人たちが鉱脈の探索で山中を巡る間 に出会った巨大な岩塊、奇怪な巨石に特別の思いを出した」からだ(村井康彦『出雲と大和』、岩波新書)。
閑話休題。
長岡京の造営長官は藤原種継だった。彼も「母方が秦氏で、祖父は秦朝元でした」と田中氏は続ける。
種継は和気清麻呂と同世代人、桓武天皇に引き立てられ長岡京建設の責任者となるが、桓武留守中に暗殺された。死後、桓武天皇 は和気清麻呂の助言もあって、京都へ再度の遷都をなした。
田中氏に拠れば、いずれも秦氏の多大な貢献があったとされる。
藤原種継暗殺に関与したとして大伴一族が処断され、すでに死んでいた大伴家持にまで塁が及んだ。藤原種継は死後、桓武天皇 により正一位を追号された。およそ、ユダヤとの縁は薄い。
最大のぶっとびは「秦の始皇帝」がユダヤ人だったという爆弾発言。シナ人も驚くに違いないが、よくよく考えれば、シナでは 王朝に漢族の皇帝は少なく、鮮卑、突厥系、モンゴル、満州族の王朝が続いた。だから、始皇帝が漢族以外だった可能性はあるか も知れない。
じつは評者、孔子は漢族ではなかったと考えている。なぜならあの時代の周辺の遺骨をDNA鑑定の結果、長身で青い眼をして いた人々が多かったことが考古学、文化人類学で判明しているからだ。
さはさりながら秦河勝(『日本書紀』に三回でてくるが『古事記』にはない)が、仏教を取り入れた聖徳太子側にいて、物部系 が蘇我氏に討たれ、つぎに穴穂部皇子が暗殺される(穴穂部の墳墓は法隆寺の傍の藤ノ木古墳)という流れの中で、古人皇子の クーデター未遂事件も秦河勝が加わっていたとし、また能文化も秦河勝の貢献が大きかったとする。
聖徳太子の死後、秦河勝は蘇我入鹿の迫害を受けて赤穂へ逃れた。生島には秦河勝をまつる神社がある。京都には川勝寺があった が、現在は秦河勝の石碑が残るだけ。
なにしろ河勝は秦始皇帝の直系と名乗り、「弓月国」から渡来したとある。弓月は中国とカザフスタンの国境付近にあった(現 在の中国新彊ウィグル自治区の伊寧あたりとされる)。
穴穂部皇子の暗殺と同様に謎に満ちているのは古人皇子暗殺である。
穴穂部皇子は舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)だから蘇我入鹿の従兄弟である。娘は 倭姫王(天智天皇の皇后)という名門貴族だ。
したがって蘇我入鹿は、古人大兄皇子を皇極天皇の次の天皇に擁立しようと画策し、山背大兄王(厩戸王子(聖徳太子)の子)を 襲い、一族を滅ぼした。
ところが「乙巳の変」で立場をなくし吉野へ逃れる。というのも板葺宮での式典で、古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していた。 目の前で、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を斬殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮へ逃げ 帰った。翌日には蘇我蝦夷も自殺して蘇我本家は滅びた。
古人大兄皇子は出家して吉野へ隠退したが、中大兄皇子に攻め殺された。
ところがミステリアスなのは、中大兄皇子が即位すると、古人大兄皇子の娘・倭姫を娶っているのである。ちなみに舒明天皇の第 一皇子は古人大兄皇子で、第二皇子は天智天皇、第三皇子は天武天皇(いずれも異母兄弟。天智、天武は同腹説もある)である。
後段、ちょっと本書から話題がずれたが、田中氏の古代史探訪、あまりにも大胆な仮説が続くので、保守系の歴史論壇ますます熱 気を帯びてきた。
流石宮崎さんの知識は深い。こんな書評を書けるのは宮崎さんくらいでしょう。それにしても、この秦氏ユダヤ説は面白いというか本当でしょうね。
この説を世界に広めたいものです。特に、特亜3国とイスラエルには是非広めたいものです。