これもネットをやるようになって知ったのですが、日本の昔からの地名には深い歴史があることに驚かされました。
そんな由来も知らないから地名変更なんて自治体がやっている頃にも、それ程バカなことをやってるとも思わず、郵便配達の人達が便利になるのだろうくらいにしか考えていませんでした。
安易に地名変更をするのも考えものだと思い知らされたのが、あの広島土砂災害の現場が、昔のが八木蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)だったというのを読んだ時でした。先人が教えてくれていた危険を地名変更で隠してし待ったことがあの悲劇を産んだと言っても過言ではないでしょう。
さて、そんな地名についての面白いシリーズを産経が始めてくれるようです。第一回は、「神田」だそうです。
何と、あの「寿司くいねえ」で有名な神田が、伊勢神宮と関係があるのだそうです。頭の悪い私は、想像もしませんでした。やはり、地名は面白そうです。これから楽しみです。
産経ニュースより 2018.6.16
【東京・地名研究室】(1) 神田 伊勢神宮に納める米作る田んぼ
《地名-。それはその土地土地(ところところ)の歴史を物語る。また一方、新しい出来事や人々の活躍で名称が変わり、あるいはいつのまにか忘れられ、時の流れの中で消えていったものもある。このコーナーでは、東京都内各地の地名の由来を紹介し、江戸の歴史を紐解いていく》
「江戸っ子だってねえ」 「神田の生まれよ」
年配の方ならご存じ浪曲「石松三十石船道中」。
東海道一の侠客、清水次郎長の子分、森の石松が金刀比羅宮(香川県)代参の帰途、大阪から京都まで淀川の船旅中、乗り合わせた客との会話で出てくるせりふだ。
石松は相手をおだてて言うのだが、「神田生まれ」は江戸っ子の中でもプレミアム感が強かったようだ。
神田はそもそも、伊勢神宮に奉納する米を作る田んぼがあったので呼ばれるようになったという。
中世には今の神田橋あたり、江戸時代には東は現在の台東区との境、西は駿河台・小川町、北はJR総武線、南は大手町の手前あたりまでを指したようだ。
現在、神田が付く町名は東神田から神田三崎町まで東西3キロ近くに広がっている。というのも、昭和22年、当時の神田区と麹町区が合併して現在の千代田区ができるときに、神田区にあった町名全てに「神田」を付けたからだ。
37年の住居表示法の施行を受け、郵便物の配達などに便利なように簡素化が進んだ。だが、住民から戻してほしいとの要望が相次ぎ、三崎町、猿楽町も今年1月、神田が戻った。
ちなみに三崎町は、江戸湾に突き出した岬があった、猿楽町は猿楽(のちの能)・観世流の家元、観世太夫や一座の人々の屋敷が一帯にあったからといわれている。
JR神田駅から秋葉原駅の東側にも江戸時代を想像させる町名が残っている。
神田和泉町は藤堂和泉守の屋敷があった▽神田紺屋町は藍染め屋がたくさんあった▽神田美倉町は江戸時代にあった3つの倉庫街(三蔵地)が明治時代になって合併して美倉町に転じた-からとされる。
神田北乗物町は駕籠をつくる職人が多く住んでいた、神田祭のみこしをつくる職人が住んでいた、駕籠をかつぐ人が多く住んでいた、馬具職人が住んでいたなど諸説ある。
神田練塀町は武家屋敷の練塀が並んでいたから。練塀とは瓦と練土を交互に積みあげ、上を瓦でふいた土塀のことで、関東の武士に好まれたという。
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【参考資料】鈴木理生編著『東京の地名がわかる事典』(日本実業出版社)、竹内誠編『東京の消えた地名辞典』(東京堂出版)、千代田区ホームページほか。
東京だけでなく地方も取り上げてもらいたいところですが、そうなると大変な量になりそうです。東京だけでも地方にも通じるものも沢山ありそうでしょうから、当面は、これで楽しませてもらいましょう。
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