団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★99歳元兵士「白骨街道」振り返る

2019年06月26日 | 誇れる日本

  昨日のねずさんが教えてくれた、「日本の行っ たとてつもない大事業とは」の、アジア・アフリカの独立の信実を取り上げましたが、他にも、ねずさんには素晴らしい日本を教えてもらい、日本に産まれた素晴らしさが身に染みます。

 これも、その一つである白骨街道を、2月10日、第1698回の「★★インパールの戦いと日本の若者」でも取り上げましたが、何と、現地に資料館が出来るのだそうです。

 それを産経新聞が詳しく書いてくれています。と言うか、産経しか書かないでしょう。

   元兵士、佐藤哲雄さん(99)へのインタビューから当時の様相を詳しく書いてくれています。

  これは、「虎ノ門ニュース」で、井上さんにインタビューしてもらいたいですね。それにしても、こうした証言を聞けるのももうわずかでしょう。今の内にこうした貴重な証言を全て残しておくべきですね。

  これも、井上さん一人に任せておくのじゃなく、政府・厚生省などが全面的に応援すべきでしょう。尤も、その可能性は限りなく無さそうです。何と言っても、自虐史観に犯された人達が大半のようですから。

   産経ニュースより     2019.6.21

  イ ンパールの悲劇後世へ 作戦から75年、22日資料館開館 99歳元兵士「白骨街道」振り返る
 
 先の大戦時に多大な犠牲者を出し、最も無謀な作戦といわれた「インパール作戦」から75年。インド北東部のインパールに 22日、悲惨な戦闘の記憶を後世に伝える平和資料館が開館する。建設を発案した現地の観光協会から協力要請を受けた日本財団 (東京)が、元兵士や遺族らに手記や写真などの提供を呼びかけ、200点近くが寄せられた。作戦に参加した数少ない生還者の 元兵士、佐藤哲雄さん(99)=新潟県村上市=は激戦のただ中で携行した双眼鏡を寄贈。産経新聞の取材に応じ、極限の戦闘を 振り返った。(大竹直樹)

 深刻な食料不足

 「ウ」号作戦-。第31師団に属する高田歩兵第58連隊の曹長だった佐藤哲雄さん(99)=新潟県村上市=の軍歴書に、イ ンパール作戦を指す作戦名が記されていた。

 戦犯を疑われる記録は焼却を命じられたが、「自分の記録だから」と、油紙に包んで靴の下に隠し日本に持ち帰ったという。

 インパール作戦を含むビルマ(現ミャンマー)戦線は蒋介石の国民党政府への補給路の遮断、つまり米英など連合国軍が軍需品 を支援する「援蒋(えんしょう)ルート」を断つことにあった。

 第33師団は昭和19年3月、比較的補給も容易な東側のコースを北上。一方、第58連隊が属する第31師団は補給路を断つ ため、インパール北方の要衝、コヒマを攻略した。英軍の補給を断ちながらインパールを目指して進軍し、連合国軍の拠点だった インパールを南北から挟み撃ちする作戦だった。しかし第31師団は南下を阻まれ、第15師団とともに孤立。補給もなく深刻な 食糧不足に陥った。

 作戦を指揮した牟田口廉也(むたぐちれんや)司令官は、物資輸送と食料を兼ね、牛などの家畜を連れて行軍させたが、この 「ジンギスカン作戦」は食料どころか足を引っ張るだけだった。「川では渡河(とか)船に乗った牛が暴れ出し、兵士もろとも川 に落ちた」。川を渡った牛や羊はほとんどなく、結局食料として口にすることはなかった。

 上官から「敵のものを取って食え」という指令が下されたが、英軍が撤退した宿舎にたどり着いても、残された食料にはガソリ ンがかけられていた。佐藤さんは「食料補給はないのが前提。缶詰の牛乳であれ水であれ、飲んだ者はみな腹を下した。現場を知 らない人が机の上で考えた作戦だった」と振り返る。

  師団長の「抗命」

 現地では疑似紙幣である軍票で食料を調達することもできたが、戦況の悪化とともに通用しなくなり、熱が出れば、熱冷ましに 効果があるキュウリと、万年筆などを交換した。

 「眠れば自分の食料も盗られてしまい、翌日から食べるものがなくなる。草の根をかじっても栄養があるわけでもなく、衰弱し ている人は、マラリアにかかり亡くなっていった」

 連合国軍の戦闘機が上空をかすめ、弾は四方八方から飛んでくる。銃撃音で弾が来る方向が分かるようになったが、ビルマ・イ ンド国境を越えた高地で砲弾が爆発し、破片が左ひざに食い込んだ。

 野戦病院では止血されただけで破片を取り除くことはできず、切った木を松葉づえ代わりに2カ月かけて前線から離れた病院ま で歩いた。治療を終え、コヒマ付近にいた原隊に復帰する前、少尉から「もう少し休んで行け」と言われた。復帰するはずだった 部隊は直前に集中砲火を浴び、ほぼ全滅となったと聞かされた。「すぐに原隊に復帰していたら命はなかった」

 物資補給を無視した無謀な作戦だった。佐藤幸徳第31師団長は「弾一発、米一粒モナシ」と電報を打ち、独断で撤退を決断。 この陸軍史上初の「抗命」を機に6月、撤退が始まった。

 「生死は紙一重」

 ビルマを流れる大河・チンドウィン川沿いの敗走路は軍服姿の遺体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれた。「日中は草木に 身を潜め、夜に歩く。日本兵の遺体が2人、3人ずつ折り重なるように倒れていて、そこにハゲタカが舞い降りてついばむ。遺体 はすぐに白骨になった」

 生死は紙一重。「人のことを構っていれば自分も死んでしまう。負けるか勝つかではなく、誰が生きて帰れるかという戦いだっ た」

 作戦では約3万人が「戦病死」したが、その多くは餓死だったとされる。自らの命をつなぐことで必死だった。バナナの木を見 つけては根元を掘り返し、芋のようになっている根をかじって飢えをしのいだ。

 忘れられない言葉がある。第58連隊に転属する前の16年1月、新発田歩兵第16連隊の少佐の訓示だ。「これから戦地に赴 くのに、少佐は『死ぬばかりがお国のためではない。生きて帰って日本のために働け』と言った」

 最初は意味が分からなかったが、「こういう考えもあるのか」と、インパール作戦では「生きること」のみを考えた。佐藤さん は当時の記憶をたどりながら、最後にこう語った。

 「今にして思えば、少佐は、補給物資が続かないということを分かっていたのではないかと思う」

【インパール作戦】第二次大戦時、日本軍がビルマ(現ミャンマー)から英軍の拠点だったインド東北部・インパールの攻略を目 的に1944(昭和19)年3月に始まった作戦。陸軍第15師団(祭兵団)、31師団(烈兵団)、33師団(弓兵団)の計約 10万人を投入したが、武器や食料の不足に加え、感染症も流行し全軍壊滅状態に陥った。31師団の独断退却を機に同年7月、 作戦を中止。戦闘のほか飢えやマラリア、赤痢で死者は約3万人、戦傷病者は約4万5千人に上り、無謀な作戦の代名詞とされる。

  白骨街道はハゲタカの所為だったんですね。そんなに早く白骨になるものだろうかと思っていた疑問が晴れました。
  それにしても、日本の軍隊の規律には頭が下がります。こんな人達を貶める反日売国左翼・在日や特亜3国の奴等は許せません。



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