明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



一時期、目に着いたあらゆる物をパーツとして撮って置いて、例えば空や海、道路や屋根や壁や何でも撮り溜め、本気で寝たきりの老後に備えていた。その後ハードディスクの度重なる故障などあり、ほとんど失われたが、今思うと愚かなことであった。その後、浮世絵、かつての日本画の、西洋画や写真にない自由さを取り入れるにはどうすれば良いか、毎度お馴染みの〝孤軍奮闘”していて、陰影がそれを阻害しているのではないか、と思い始めた頃、スーパーからの帰り道、頭の中のイメージに陰影が無いことに気付いて、危うくスーパーの袋を落としそうになった。頭の中では光源まで設定されていない。それまで頭の中のイメージを取り出し、確かに在った、と確認するのが私の創作行為だ、といっていながら、外側の世界に在るかのように光を当てていたことに気付き、ここから一挙に陰影のない手法に向かった。この世の世界でないことは一目瞭然であろう。 この間の〝騒動”は、私の子供の頃からのこだわり、独学我流、マコトを写すという意味の写真という言葉への嫌悪、様々が凝縮されていた。そして自ら作り出した陰影つまり被写体の陰影を取り除く、というアンビバレント、葛藤は、被写体制作、撮影の二刀流の私だけの物であり醍醐味である。その先に在ったのが寒山拾得ということになろう。



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高校時代の友人で患者の自殺率の低さを密かに誇る精神科医からアマテラスは元々アマタ、アマネクテラス(遍照)だと聞いた。さらに便所にまで神様がいるとなれば日本に陰影などなくて当然であろう。 陰影を出さない私の手法を、とりあえず石塚式ピクトリアリズムと呼んでいる。ピクトリアリズムというのは元々西洋に起こった印象派絵画などのイメージを採り入れた絵画的手法であるが、私の場合は浮世絵、日本画的な物を写真に採り入れようと考えたので、日本的ピクトリアリズムとでもいいたいが、そんなことを試みる一派でもいるならともかく、私一人で日本などとはいえようがない。しかしながら私の行く手を、自由を阻害しているのは陰影である、という私の見立ては正しかった。以来やりたい放題である。ただし行く手を、自由をというのはあくまで私の事情であり、よって私は水槽の金魚を相手に日々暮らしている訳である。 そんな手段を入手したとなれば、現実についこの間まで生きていたような人や事などモチーフにしていられず、寒山拾得や千年前の人などをモチーフにしてこそであろう。私には水槽の金魚がいる。



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芭蕉庵用に、追加で燕の巣、大ヒヨウタン、文机等作る。 芭蕉庵納品の数日前から眠気覚ましにアニメの『新巨人の星』『新巨人の星2』をスマホで飛ばし飛ばし観ていた。大リーグボール3号が破れ、左腕が崩壊。うろ覚えであったが、数年後に右腕投手として再起していた。最後は右でも歴代大リーグボールすべてを投げ、星一徹は亡くなり、江川の入団と入れ替わるように大リーグに挑戦に向かう所で終わったようである。そういえば知り合いに主題歌の「思いこんだら♪」を「重いコンダラ」だと思っていたバカがいる。 冗談で石塚式ピクトリアリズムを私の大リーグボール3号だ、といっていた。1号は、今ではスマホ片手に誰でもやっている、人形片手にカメラ片手で街なかで撮る、人形を国定忠治の刀のように捧げ持つことから”名月赤城山撮影法“と呼んでいた方法。そしてフリーペーパーの表紙で“日本橋でチヤップリンと歩く”“大手町を坂本龍馬と歩く”などという、無茶振りに対処するには1号では無理、と苦し紛れに編み出した、背景を先に撮影しておいて、その背景に合わせて人物を造形し、合成したのが2号である。廃れていた古典技法オイルプリントを蘇らせたのは、ハードルを低く改良したものの、私の発明ではないのでノーカウント。 思えば遠くに来たもんだが、ちゃんと順番を経ているのが自分でも面白い。これが最後だろう、という意味もあり大リーグボール3号だ、などと称していたが、右1号まであったとは知らなかった。背景を逆遠近法であらかじめ作り撮影する手法は、おそらく成功したとしても2、3球投げ、その役目を果たし終えることだろう。



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被写体から陰影を排除することになったきっかけは、九代目市川團十郎を作った時である。様々な役者絵を見ることになる。何でみんな同じ顔に描くのだろう、なのに当時の日本人は、ブロマイドのように贔屓の役者の絵を買い求めた。そうこうして、現代の目で見ると、皆同じように見える絵が、実はそれぞれの役者の特徴を表現していることが判って来た。そこを庶民は味わっていたのだ、と思った時、当時の日本人の文化度の高さ、という物に感心した。 また日本人にも陰影は見えているはずなのに何故描かなかったのか。葛飾北斎のドラマで北斎が西洋画を見て「見たまんま描いていやがる。」西洋人ていうのは想像力に欠け、見たまんま描くとは、なんて野暮で野蛮な連中なんだ、といっているようであった。残念ながらその北斎自身も、娘共々野暮で野蛮な西洋的リアリズム方向に向かって行くのだが。そう思うと、私が、真を描く、という写真という言葉をことさら蛇蝎の如く嫌い、フレームの中に真など描いてたまるか、と悪戦苦闘し続けてきた理由が見えてきた。”ホントの事などどうでも良い“これも私が常々口にしていたが、目で見える事などどうでも良い、イメージ優先だ、と言い換えることが出来よう。小学校の図画工作の時間、写生となるとガッカリし、石膏デッサンほど馬鹿馬鹿しい物はない、と数える程しかしやったことがない。今から約三十年前、あるミュージシャンをビデオ、写真資料を見ながら作ったつもりが、頭の中にある、かつてのミュージシャンになってしまい、人に指摘されるまで私は気付かなかったた事がある。私の頭に浮かんだイメージは何処へ消えて行ってしまうのだろう。と悩んだ幼い頃から、ここへ来て、私の中には、西洋的リアリズムに犯される以前の日本人の記憶が残されているのだ、と思うようになった。そう思えば古典技法を用いたり、真を写す写真にあらがい続けてきた理由が解る。随分時間がかかったが、首をかしげながら死ぬよりよっぽとマシであろう。一挙にかつての記憶を蘇らせるには『寒山拾得』ぐらいを手掛けて丁度良い、と私の何かが判断したのであろう。


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