CNNニュースでシリアで救出される少女が毎回同じだ、という。助け出してる大人がなかなかの役者である。特殊メイクで傷口まで作っている。伝えるためにはどんな卑怯な手でも使うぜ。それではまるで私と同じである。 私はついこの間まで、まことを写すという意味である写真という言葉を嫌いつづけてきた。制作上ではホントのことなどどうだって良い、と思っていたし、まことなどとはかかわりあいたくなく、画面上からできるだけ排除したいと思って来た。写真がなんの証拠にもならなくなってしまえ、と。ところがいざ使っている画材はなんですか?と訊かれるような作品を作るようになり、自分で見ても絵にしか見えない。となると今度は、いえこれ写真なんですよ。と写真だ写真だいい出すという。大谷に対する米国マスコミなみの掌返しである。つまり私がいいたいのは、これは撮影時に陰影が出ないように撮影して、ただ配しただけであり、ことさら“絵画に見せるための”加工はしていない、ということである。むしろ光と影でごまかすことができず、造形の段階で勝負は決まってしまう。 初めて一年のことで私の写真に対する変節ぶりがあからさまで、赤面する準備もできていないくらいである。 私はフィギュア制作の方々とは作り方が違っていて、頭部に90パーセント以上重きを置いていて、その後の身体の造形さらには写真制作も、頭部を生かすためにやっており、私の求めているリアル感さえでていれば良く、むしろ必要以上に出してはいけないと思っており、よって身体は粘土感丸出しである。肝心なところにピントがあっていれば以外をぼかして肝心な部分を強調したい。しかし実はこのあたりの嘘丸出しのところが絵画的に見えることに拍車をかけている。これは結果に対してそうなんだな、と思ったのでまったく想定外のことであった。自分が考え出したことは企まずとも、自分に都合が良くなっている、というのが面白くはある。
銀座青木画廊「ピクトリアリズム展Ⅲ』5月12日(土)〜5月25日(金)20日(日休)
2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtubeより
※『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載7回「“画狂老人葛飾北斎”」
HP
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