毎年大晦日には、昨年まで出来なかったこと、思い付かなかったことを成したか?と問うのが恒例である。人間変われるうちが華であり、変われる間は、一休禅師に”門松は冥土の旅の一里塚“なんていわれようとも、一刻も後戻りしたくない、と思うことが冥土の旅への恐怖を払拭する唯一の方法だと考えるからである。 今年はコロナ禍に引っ掻き回された一年であった。そんな中、5月に何年間もこだわり続けた三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死を完結させられた事が大きい。没後五十年。本家篠山紀信版『男の死』出版より5ヶ月先んじて発表出来たことはどう考えても三島由紀夫からの褒美だとしかし思えない。出版を知ったのは個展の会期中とあまりにもドラマチックであった。 私は長い間、行き当たりばったり、紆余曲折してきたと思っていたが、伺い知れぬ何かのレールにただ乗って来たのだ、それを今年ほど感じたことはない。リコービルでの個展を見ていただいた『ふげん社』から個展のお話しをいただき移転前に伺ったが、持参した和紙プリントの中にお騒がし程度のつもりで混ぜていたのが、一回目の三島由紀夫オマージュ展男の死に構想だけで断念し、その後制作した唐獅子牡丹であったが、まさかの個展は三島で行くことに決まった。本家出版のガセネタに怯え、無理して急いで完結出来ずにいたので、フワフワしながら帰った記憶がある。念のためもう一度、ふげん社に確認に出掛けたくらいである。 三島本人に最重要といえる『聖セバスチャンの殉教』をやられてしまっていたが、死の前年に演出した歌舞伎『椿説弓張月』の中の武藤太の残虐な処刑シーンに聖セバスチャンを見つけ、さすがの三島も、歌舞伎の舞台で自分がやりたいとはいえなかった武藤太を制作した。これは石塚式ピクトリアリズムでなければやりようがなかった、という意味で三島に最も見て貰いたい作品でもある。 ところで、それまで構想だけはあった『寒山拾得』だが、ふげん社の由来は、寒山拾得の拾得が実は普賢菩薩から来ていると知った。そして二年後の個展も決まった。こんなことがあるだろうか?これで今までただ流れに乗っかって来ただけだと確信した。幸いだったのは、出来の悪い頭を使わず、降って来るボタモチを取り逃がさないことだけを心がけて来た。つまり「Don't think! Feel.考えるな!感じろ」。ブルース・リーに教わるまでもなく知っていたことになる。勿論ボタモチは外から降って来るのでなく、己のヘソ下三寸辺りが由来であることも知っていた。そんな訳で、今年程自分の正体に気付かされたことはない。あと二年、初個展から40周年まではクリニックはサボらず交通事故にも気を付けるつもりである。 コロナ禍で5月の個展が延期になっていたとしたなら、また、そのせいで本家『男の死』が先に出版されてしまっていたなら。私は本日何を書いていたのか、全く想像することが出来ない。最後に石塚版“聖セバスチャンの殉教図”こと『椿説弓張月』と市ヶ谷の三島が最後に見たであろう風景をイメージした『日輪 は瞼の裏に赫奕と昇った』で今年を締めさせていただく。