明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



一週間前のクリスマスに、今後に影響する大きな命題となるであろう、人像表現の極意と思える〝頂相は形の上で表せるようなものではなく無相である“ という一文を得た。この中にお宝が入っていることは判るが、私の力では蓋を開けることは容易ではない。何しろ人物を形の上で表そうと40年である。考えるな感じろで行く他に策はない。 これもつい先日知ったが〝 心外無物“すべての現象は、それを認識する人間の心の現れであり、心とは別に存在するものではないということ。だそうだが、私の創作の原点は、幼い頃思った、頭に浮かんだ物はどこへ行ってしまうのか、確かに在るのに。それを取り出し可視化して、やっぱり在った。と確認することである。その過程において長い間〝人間も草木同様自然物。肝心な物はあらかじめ備わっており、外側にレンズを向けず眉間に当てる念写が理想“といっていた。そう考えると、行き当たりばったりと思っていたのは私だけで、現在のモチーフに至ることは決まっていたのだ、と改めて思う大晦日である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




毎年恒例の、去年出来なかった、考えもしなかったことを出来たか振り返る大晦日である。変化しているウチが華。去年と一緒では、冥土にただ一年近付いただけで我慢がならない。そういう意味ではモチーフを寒山拾得その他、に変えたことが大きい。始めて5年ほどになる、陰影を排除する東洋調ピクトリアリズムを完成させるには、最適なモチーフであり、陰影を無くすことにより失う立体感を適度に表すこともできたし、当初の目的、陰影をなくすことによる、画面構成上の自由を得ることが出来た。その調子で突き進むつもりであったが、何故かぐずぐずしてしまった。原因は、それによりかえって、私が一番恐れる、作りそびれて後悔する可能性に気が付いたからである。そして真反対に、絵画、写真に当てられなかった陰影も与えられると思えて来た。行き当たりばったりの私の常だが、それもこれも、寒山拾得をやってみたから判った。 目の前の事しか考えず、長期的目標を定めないのが、中途挫折の一番の回避法である。大晦日、そんなことを言っているが、さあどうだろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大晦日は毎年、昨年思い付かなかったこと、出来なかったことをやったか、と振り返るのだが、今年は昨年どころか、先週まで考えてもいなかった物を作っている始末で合格。    目標など持たず、パン食い競争のように目の前のパンをただ食うことを繰り返していると挫折しにくい、と改めて気が付いた。いつかあれをやろう、なんていうのが一番良くない。恐れていたのは死の床で、あれを作りたかった、これもやりたかったと苦しむことだったが、目標に至らなければ挫折ということになろうが、目の前のパンなら目の前過ぎて折れようがない。 しかし一方、無呼吸症候群のせいでパンを食う気力を失うという驚く経験をした。老人になっても手さえ動けば何とかなる、と思っていたのは間違いであった。〝考えるな感じろ“は良いとして、感じるのも、肉体の部分であると、遅ればせながら自覚した。さらに何度か挨拶した程度であったが、59歳の隣人がトイレで突然死し、明日は我が身だと身をもって教えてくれた。明日元旦は、一休和尚の着彩から始まる。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 
毎年大晦日には、昨年まで出来なかったこと、思い付かなかったことを成したか?と問うのが恒例である。人間変われるうちが華であり、変われる間は、一休禅師に”門松は冥土の旅の一里塚“なんていわれようとも、一刻も後戻りしたくない、と思うことが冥土の旅への恐怖を払拭する唯一の方法だと考えるからである。 今年はコロナ禍に引っ掻き回された一年であった。そんな中、5月に何年間もこだわり続けた三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死を完結させられた事が大きい。没後五十年。本家篠山紀信版『男の死』出版より5ヶ月先んじて発表出来たことはどう考えても三島由紀夫からの褒美だとしかし思えない。出版を知ったのは個展の会期中とあまりにもドラマチックであった。 私は長い間、行き当たりばったり、紆余曲折してきたと思っていたが、伺い知れぬ何かのレールにただ乗って来たのだ、それを今年ほど感じたことはない。リコービルでの個展を見ていただいた『ふげん社』から個展のお話しをいただき移転前に伺ったが、持参した和紙プリントの中にお騒がし程度のつもりで混ぜていたのが、一回目の三島由紀夫オマージュ展男の死に構想だけで断念し、その後制作した唐獅子牡丹であったが、まさかの個展は三島で行くことに決まった。本家出版のガセネタに怯え、無理して急いで完結出来ずにいたので、フワフワしながら帰った記憶がある。念のためもう一度、ふげん社に確認に出掛けたくらいである。 三島本人に最重要といえる『聖セバスチャンの殉教』をやられてしまっていたが、死の前年に演出した歌舞伎『椿説弓張月』の中の武藤太の残虐な処刑シーンに聖セバスチャンを見つけ、さすがの三島も、歌舞伎の舞台で自分がやりたいとはいえなかった武藤太を制作した。これは石塚式ピクトリアリズムでなければやりようがなかった、という意味で三島に最も見て貰いたい作品でもある。 ところで、それまで構想だけはあった『寒山拾得』だが、ふげん社の由来は、寒山拾得の拾得が実は普賢菩薩から来ていると知った。そして二年後の個展も決まった。こんなことがあるだろうか?これで今までただ流れに乗っかって来ただけだと確信した。幸いだったのは、出来の悪い頭を使わず、降って来るボタモチを取り逃がさないことだけを心がけて来た。つまり「Don't think! Feel.考えるな!感じろ」。ブルース・リーに教わるまでもなく知っていたことになる。勿論ボタモチは外から降って来るのでなく、己のヘソ下三寸辺りが由来であることも知っていた。そんな訳で、今年程自分の正体に気付かされたことはない。あと二年、初個展から40周年まではクリニックはサボらず交通事故にも気を付けるつもりである。 コロナ禍で5月の個展が延期になっていたとしたなら、また、そのせいで本家『男の死』が先に出版されてしまっていたなら。私は本日何を書いていたのか、全く想像することが出来ない。最後に石塚版“聖セバスチャンの殉教図”こと『椿説弓張月』と市ヶ谷の三島が最後に見たであろう風景をイメージした『日輪 は瞼の裏に赫奕と昇った』で今年を締めさせていただく。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )