一時過ぎにオキュルスに出かけると、高校卒業して入った工芸の専門学校で陶芸を教わったY先生の名が芳名帳に。三十数年ぶりにお会いする機会を逸してしまった。そこでは酒ばかり飲んでグウタラな駄目生徒であった。誰かがY先生の私に対する評価が書かれたものを覗き見て、続くかどうか、というようなことが書かれていたと聞いたことがある。個展をされたら尋ねてみよう。 午後、T屋のHさんやKさん、タクシー運転手のTさん来廊。Tさんは楯の会に入ろうとして身長ではねられた人である。冗談ばかりの愉快な人だが、オキュルスの東さんも居酒屋の女将さん扱いなのには困った。 こんな個展だと、三島を実際目撃したことがある方がみえるが、事件当日記者クラブにいた写真家の方から聞いた話で、一報が入ったとたん、記者たちが爆笑した、という話には驚いた。割腹自殺と聞いて記者に爆笑される人物。当時ある種の人々に三島がどう見えていたのか、その一片が端的に伺える話であった。いつか三島展を開催した神奈川近代文学館の方が、三島について話をされてきたばかりという研究者の方とみえる。冷や汗をかくが私なりの三島へのアプローチも喜んでいただけたようであった。 専門学校で一緒だった連中が集まったので五反田まで歩いて飲みに行く。Hには三島が握る刀身を作ってもらった。ここまで付き合いが長いと、誰かが誰かの棺おけを覗き込むハメになるのは間違いがない。
追記:記者クラブが爆笑したのは「市ヶ谷の総監室を占拠した」という第一報の時で、「割腹した」とわかった時は、なんともいえない空気で、みな真顔だったそうである。それはそうであろう。翌26日の新聞にもそう書かれている。
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