明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



最深部に積まれた雑誌を捨てる。紐で縛ってなど大の苦手でガムテープで縛る。私が新聞を読むと酷いことになるのは近辺の居酒屋では知られている。ペらペらのようで、さすが元材木、腰に来る。徹夜となる。 たまに目にしていたニジンスキーの首見つける。ディアギレフの首は、片付けを始めて、数年ぶりに出て来たが重すぎ、撮影には支障ないものの、私の迷いが原因なので気に入らず胴体は処分していた。昨年亡くなられた前バレエ協会会長だった薄井憲二先生が、少々期待して下さっていたようで、ご自分で撮られた海外のコレクターのバレエ像を送って頂いたりしたが、いかんせん私がフランス人のピエールだったならばまだしも、近所にオペラ座があるわけでもなく。いくら眉間にレンズを当てる念写が理想だと言っても、上手い嘘をつくには、多少ホントを混ぜる必要がある。その前に作るべき物が山積している。 『タウン誌深川』鏡花と歩く深川は、大量の注文があったとかで、在庫が少ないと聞いている。

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 アートコレクターズ(生活の友社)引用の美学 存在しないものを撮る 石塚公昭


『石塚公昭 幻想写真展 生き続ける作家た18年7/25~9/2 リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.Pyoutubeこ2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtube  


『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載13回『月に兎 泉鏡花




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三重県の友人の工房で、二泊目の朝だったか田村写真の田村さんから電話をもらった。海外のサイトに私の所有するレンズが紹介されていて、写真が私のサイトから転用され、名前も載っているという。帰宅後見てみるとカ-ル・ストラスという、かつてハリッウッドはパラマウントで活躍した撮影技師が、写真家時代にピクトリアルレンズとして特許をとったレンズが載っていた。掲載許可のメ-ルを貰っていたのかもしれないが、モノをお願いするときは、先方のお使いになる言語でお願いしてこい、というわけで、ゴミ箱行きだったのであろう。勿論知っていればどうぞお使いください、という話なのだが。  このレンズはE-bayのオ-クションで見つけ、田村さんに代理で落札してもらったのだが、私にとってただのソフトフォ-カスレンズではなく、ここで会ったが百年目、というレンズであった。この話は当時何度か書いているが、ストラスという人物は、ロシアバレエの天才ダンサ-、ニジンスキ-がアメリカ公演を行ったさい、おそらくこの4×5インチ用のレンズを木製の一眼レフカメラ、グラフレックスに着けて撮影している。『牧神の午後』の扮装したニジンスキ-も撮っているが特に『ティル・オイレンシュピ-ゲル』のニジンスキ-は、間違いないであろう。このレンズとニジンスキ-を結び付けられるのは、もはや私しかいないではないか!と地球上で唯1人、そんなことに盛り上がったわけなのである。私のサイトから転用するくらいで、希少なレンズであることはことは間違がいなく、予定外の高値になったが、例えば九代目市川團十郎の掛け軸のように、これを手に入れさえすれば、作家として勝ったも同然、と思わせる“ブツ”が、あるものである。 届いた直後に、田村さんから、おそらく水晶レンズ(石英)だと、興奮した連絡をもらったのを覚えている。これは紫外線を通すので、フィルムに、人間の可視の世界と別のものを定着することも可能らしい。 今年はロシアバレエ百年に当たる。日本人にはピンとこないらしく、海外でもリ-マンショックの影響なのか、私が思っていたほどの盛り上がりを見せていないように思える。しかし、その当時の私は、ニジンスキ-を制作し、このレンズで撮影して個展を開くつもりでいた。ところがまず先に制作しようとしたディアギレフは、改良ばかり続けて、未だに完成していない。当然、次に制作するはずの主役のニジンスキ-の改訂版は、着手すらされていない。それもこれも『中央公論Adagio』に係わっているせいである。 八月配布号は、特集人物が決まらないまま、六月も数日経ってしまっている。某御聖人様が候補から外れた、という本日の連絡は幸いではあったが。残る二人の候補者のどちらになるか、連絡を待っている状態である。と、本日の雑記も風に流され、書き出しから遠く離れたところに着地したのであった。

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以前から1カット欲しいと思っていた天才ダンサー、ニジンスキーのオリジナルプリントをオークションで落札した。これはプレス用の写真である。今年2月、同じような客船上で撮られたガラス製ネガが出品されたが、同じ船に乗り合わせた素人が撮影したもので、出回らない、ということにおいては、比べようのない貴重さであったろう。ネガそのものということもあり、とても手の届く物ではなかった。 落札したプリントで私が興味を持ったのが、1916年という撮影年である。同性愛の相手だったディアギレフの支配から逃れるように結婚をし、ディアギレフに解雇されることになったニジンスキーであったが、その後団長を兼務し、アメリカツアーを敢行することになる。しかし団員を掌握し、組織する能力など持ち合わせておらず、不本意な結果に終る。その心労もあってか狂気の兆候を見せ始めるのだが、表情を見る限り、アメリカに向かう船上であったかもしれない。偶然だが、件のガラスネガと同じ船上なのは、ニジンスキーや娘、妻などみても間違いがない。ニジンスキーを囲む取材中と思しき連中の中に、撮影者がいるかもしれない。  アメリカでは、カール・ストラスというドイツ系ユダヤ人に、牧神に扮した姿や、ティル・オイレンシュピーゲルを撮影されるが、特にティル・オイレンシュピーゲルを撮影したのは、おそらく4×5インチ用の、ストラス自らパテントを取得し販売した水晶レンズで、私は何かの縁と入手していた。つまりこれから、そのレンズで待ち構える、ストラスのいるアメリカに向かっているのかも、と想像すると私には感慨深いのである。
ところで、ついでにニジンスキーで検索していたら、何処の誰かは知らないが、私のHPの画像に富田勲の音楽まで使って、こんなものを作った人がいた。ご苦労にも程がある。
Nijinsky's artwork



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ディアギレフは、立体作品自体は一度も発表したことがない。発表もせずに改造ばかりで、いったい何年かけているんだ、と自分でも呆れる。しかしディアギレフを軸に、他の同時代の人たちを作るとなれば、ディアギレフの出来は重要である。 先日、ディアギレフとコクトーが二人並んだ写真を見た。デイアギレフの内心がたまたま写ってしまった写真もそうだが、写真の記録性というのは有難いもので、二人の年齢差、身長の差が一目瞭然である。コクトーの顔は、齢とともに深まっていく悲しげな表情が好きなのだが、ディアギレフと並べるには、髪も黒々として颯爽とした青年であるべきであろう。デイアギレフが座る幅60センチほどのソファーの隣りは、やはりまずはコクトーということになりそうである。そしてディアギレフの視線の先にはニジンスキーである。 動くニジンスキーの映像など残されていないのに、多くの人を惹きつけるのは、写真からただよう人に非ず的色気であろう。しかしそれにはグロテスクともいえる、異様に隆起した筋肉が貢献しているは間違いない。しかし以前にも書いたが、絵画や漫画、その他で表現されるニジンスキーは、まるであの筋肉が目に入らないかのように、いつのまにか美しく描かれている。かつての私もそうだが、それはニジンスキーに幻惑された結果だと見ている。残された肖像に、それだけの力があるからこそ、見たこともないのにファンと称する人々が未だにいるのだろう。そこまで判っていれば、私が次にニジンスキーでやるべきことは決まってくる。

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ディアギレフは写真は残されているが、太ったり痩せたり写真によって感じが違っていたりする。患っていた糖尿病と関係あるのかもしれない。母親がそれが原因で難産で死んだという説がある巨大な頭に、コンプレックスを持っていたのは間違いなく、サイズが合っていない小さい帽子で頭を隠していることが多く、大きな襟の付いたコートを愛用するのも、頭を小さく見せる工夫であろう。私が始めてディアギレフを作ったのは2001年だが、当時、レオン・バクストの肖像画を見て、こんなタレ目の人間がいる訳がないと思ったが、バクストの作風からして妙なデフォルメをする訳がない。しかし正面の写真を見ても、タレてはいるが、それほどでもない。同じようなことは他にもあり、まるで鉄腕アトムのツノや、矢吹丈の前髪はどっちを向いているのだ状態であった。つまり、角度によって様々な様相見せる顔なのである。ディアギレフの頭部を作ったのは正確にいえば2つということになるが、長らくこの矛盾を解決することができず、常に未解決部分を残していた。そして2つ目の改良を続けているうち、原型はほぼなくなってしまった。そして本日、午前4時40分、私としてはついに回答が出たという気がしている。つまりディアギレフという人物は、おそらくこんな顔だったろう、という私の結論である。もっとも私のことだから、またいつ手を加え始めるか判らないが、とりあえず本日は目出度いと、木場公園にて午前中から花見。そういえば、ディアギレフもこんなポーズで、最後を看取ったリファールや、ボリス・コフノ等と、草の上に寝転がっている写真があったな、などと想い出した。

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ディアギレフは先日書いたような人物であるから、コクトーその他が残したデッサンは臼のようなデカ頭の凸ッパチに描かれていて、かなりの悪意を感じる。嫌な面をもっていたのは想像がつくが、コクトーに私を驚かせてみろと奮起をうながし、ピカソにチャンスを与え(革新的な作品『パラード』として結実する)ヘアートニックの臭いに辟易とさせながらも?一目も二目も置かれていたわけである。レベルが地の底に落ちていたフランスバレエ界に(金でダンサーが買える状態)高レベルを保っていたロシアのバレエを持ち込み、それに当時の前衛的な画家、作曲家を起用しセンセーションを巻き起こした。そのディアギレフが組織したロシアバレエ団が今年100周年である。各国で催事がもようされるようだが、残念ながら日本は素通りである。ついこの間バレエブームだといわれていたのが馬鹿々しいが、日本では所詮『白鳥の湖』止まりなのだそうである。2007年の庭園美術館の『ディアギレフのバレエリュス展』などディアギレフの、と銘打っているのにかかわらず、ディアギレフの肖像写真一つ展示されていない始末で、観た人はディアギレフが何だか判らずじまいだったであろう。 私はニジンスキーを作りたくて2002年にニジンスキーで個展を催したが(オイルプリント中心に立体像は発表せず)展開を考えるとディアギレフを軸にすべきだと思い直している。ディアギレフの生前、悪戯描きのようなデッサンをふくめ、レオン・バクストの油絵など数々残されているが、立体は残されていないようである。そんな人物を作っているときの私の快感は大変なもので、今こんな物を作っているのは地球上で私だけだろう。と考えただけで脳のなかを、いかがわしい快感物質が駆けまわるのである。ソファーに肘をかけ、気だるげな視線の先には脅威の跳躍を生んだ、ニジンスキーの偉大な臀部から太股の筋肉であろう。となると、隣に座らせるのはストラビンスキーが第一候補。なにしろ妙な顔であるから私が作るに値する。レオン・バクストではインパクトがイマイチ。画になるのはコクトーであろうが、さすがのコクトーがディアギレフの隣りで貫禄負けするのを、ディアギレフを知らない人は納得するだろうか。それでは時に金を融通したココシャネル、面白さでピカソはどうか?  物心ついた時からこの調子の私の創作行為は、快感物質の中毒症状だというのは間違いがない。何しろ2002年の個展など、バレエを一度観ただけで翌年開催してしまったのだから、その症状は深刻である。

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完全に狂ってしまったニジンスキーを、いくらかでも記憶を取り戻さないかと旧知の仲間たちが集まり、ニジンスキーにバレエの舞台を見せたという、ある日の記念写真がある。ディアギレフがニジンスキーの肩に親しげに手をのせ、破顔一笑。周りにはカルサヴィナ始め、かつての仲間たちという、関連書籍によく転載される有名な写真である。ディアギレフはかつてニジンスキーの才能を見出し、愛人にし、自身が率いるロシアバレエ団の花形ダンサーに育てたわけだが、ニジンスキーはいつしか関係に嫌気がさし、ディアギレフの知らない間に結婚してしまう。怒ったディアギレフはニジンスキーをバレエ団から即座にクビにする。そこまでされるとは思っていなかったニジンスキーは、あわてただろうが後の祭り。ディアギレフという優秀なプロデューサーから見捨てられ、踊る機会も次第に少なくなり、ついに精神に変調をきたし、喋ることすらなくなっていく。それから何年も経ったある日の写真である。ディアギレフは相変わらずダンサーを愛人にしスターにするということを繰り返していたのだが、とはいえ、昔のことはとっくに水に流した、といわんばかりのディアギレフの笑顔は嘘くさいと思っていたのだが、入手したロシアバレエの写真集『MEMENTO ALBUM』のなかに、興味深いカットがあった。連続して撮られた別カットである。それを見ると、お前が狂おうが時間がたとうが許すことはない、という顔に私には見えるのである。


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デイアギレフは乾燥が終れば仕上げをして着彩である。すぐ取り掛かる予定はないが、問題はニジンスキーである。興味を持ったきっかけは、まだエトワールではなかったバンジャマン・ペッシュの踊る『薔薇の精』であった。印象的だったのは、実はモリモリとした筋肉質の男が、女性的ななまめかしさで、妙なコスチュームで踊るその異様さである。同時に出演していた、格上で、より王子様タイプのマニュエル・ルグリが薔薇の精を踊っていたら、これほど興味を持たなかったであろう。その後、動く映像が残されていない、伝説の男ニジンスキーの写真を見て打たれたのは、やはりその異様さである。ニジンスキーの得意としたのは薔薇の精や牧神、ペトルーシュカという操り人形、シェエラザードの金の奴隷などの“人にあらず”の役柄に限っている。その肉体は異常な発達をみせる太股のせいもあり、奇妙なバランスで獣じみている。伝説的な跳躍を可能にしたニジンスキーの肉体はグロテスクでなければならず、そして、そこにこそ私は魅かれ、ニジンスキーをニジンスキーたらしめた秘密があるはずである。私が以前手がけたとき、どこかに美しく作ろうという気持が働いていたことは否めず、2代目ニジンスキーはそこを踏まえて作られることになるであろう。 同系の?怪しい魅力を放つ身体に関しては、私の中に、ある膨大なイメージの蓄積がある。幼稚園児の力道山時代から、目を皿のようにして観続けたプロレスである。今でこそビルドアップされた見た目に美しく鍛えられた男達が増え、私の興味は薄れているが、かつては己の身体の特徴を生かし、また能力を際立たせるため鍛えた人々の、異形な肉体の宝庫であった。人の頭を鷲づかみにして出血させ、のたうちまわせる握力のフリッツ・フォン・エリックは、開いた手の親指から小指までが32センチあった。ニジンスキーと同じく、ジャンプ力を売りにしていたアントニオ・ロッカ(猪木のアントニオはここから取られた)は、子供の私には爬虫類じみてグロテスクに見えたものである。そういえばリッキー・スターという、リング上で回転したりジャンプばかりしていた、バレエダンサー上がりのレスラーさえいた。こんな愛すべき男達の話になると、ついヒートアップしてしまう私だが、つまりニジンスキーは単純に、美しく描こうなどという了見では、間違いなく作れない人物なのである。そして、何故私にとってニジンスキーが魅力的に映ずるかを考えると、肝心な部分は掴んでいるという気がしている。

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午前中小津像の仕上げを“ちょいと”(小津風)してから、小津の生誕地のプレートの前を通り、コーナンに金鋸の刃を買いに行く。『映像で綴る20世紀の記録』のDVDを売っていたので、1910~1919を買う。ニジンスキーが活躍した丁度そのころである。ディアギレフを作るにも気分が高まるだろう。 先日ebayに、ニジンスキーを撮ったと思われるネガがでていた。画像を反転してみると、本物のような気がした。それは客船の上で撮影したものだが、記者の取材を受けているようなカットもある。おそらく1910年~16年の、まだ正気を保っているツアー中のカットであろう。たまたま乗り合わせた一般人の撮影に違いない。珍しいニジンスキーといういと、必ず登場する某国の御仁が落札した。
未完成のソファーに大きな肥満体の男が座っている。先日、私の頭の中でソファーに座ってこちらを見ていたが、すでに実際、私に向かってデカイ態度でこちらを見ている。実物の人間だとしたら、4メートルほど向うからこちらを見ている感じであろう。ディアギレフが完成したらソファーに取り掛かろう。『人間椅子』で20センチほどの椅子を作って以来ということになる。

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ディアギレフは難産の末、母親が死んだほど巨大な頭の大男である。それにあわせて作っているソファーは当初、玉座のごとくの一人掛けを考えたが、ドンヨリとした眼で美少年ダンサーを眺めるには、肘掛に身体をあずけ、横たわるようなリラックスしたポーズにしたい。さらに後の撮影を考え、幅が50センチほどの2人掛けのソファーにした。そこにいずれ、ニジンスキーやカルサヴィナ、コクトーやピカソ、ストラヴィンスキー、サティ、またはココ・シャネル、それらの人々を、ディアギレフの隣りや肘掛に座らせることを考えてのことである。ニジンスキーにハマってこの世界に興味を持ったが、やはり結局、軸になるのはディアギレフということになるだろう。特に創作を行ったわけではなく、詐欺師すれすれのプロデューサーといったところで、いまひとつ評価されにくいのが残念な人物である。もっとも常に破産寸前で私服を肥やすこともなく、単に自分の信じた芸術のために生きた人物なので、死んだあとの世界や評価のことなど、知ったことではないだろう。

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シド・チャリースのサイン入り写真をebayにて落札。顔のアップのサイン入り写真は1枚持っているが、今回入手したのは、肝心の、有名な脚線美を強調した、いわゆるチーズケーキスタイルというやつである。 日本ではシド・チャリシーというが、子供の頃は、男のような名前だと思っていた。フレッド・アステアと共演した『バンド・ワゴン』などのミュージカル映画で有名である。 シド・チャリシーがシド・チャリースが正しく、バレエリュス・ド・モンテカルロ出身の元バレエ・ダンサーだと、教えていただいたのは鈴木晶先生だが、著書の『バレリーナの肖像』(新書館)が、また火に油を注いでしまった。今気になっているのはイダ・ルービンシュタインである。ろくに踊れもしないのに、財力を使って主役を演じていたと思い込んでいたのだが、バレエリュスでも重要な人物だったことを知った。スレンダーな容姿でファンも多かったと訊いていたが、始めに、いささか脱力気味のむくんだ写真を見たのがいけなかったのかもしれない。日ごろ、一生の間には容姿も変化するのにかかわらず、印象に残った1カットで、人はそれがすべてだと思い込むものであるな、などといっていた私がこの調子である。近所のコンビニに、タマラ・カルサヴィナ『劇場通り』東野雅子訳(新書館)が届いていて、何とかがまんしていたが、耐えられずに夜中にコンビニへ。

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予定では今頃、ロシアバレエ関連の2度目の個展をしていたはずなのだが、ディアギレフを作ったきり頓挫している。気にはなっていて、今日もコクトー研究科のFさんと、電話でそのことについて話したばかりである。そんな晩にebayで、終了4時間前の、ニジンスキーのオリジナルプリントが出品されているのを見た。1915年、最後のアメリカ公演時の写真で、すでにディアギレフとは縁が切れており、この時は、ニジンスキーがロシアバレエ団を率いたが、そもそも人をまとめ、率いる能力などない彼は、団員ともうまく行かなくなり、頭に変調をきたしはじめ、数年後に発狂して、後半生をほとんど無反応な人間になってしまうのである。ニジンスキーのオリジナルプリントなど、そう出るものではないが、世の中には、自分の持ち馬に、バレエダンサーの名前を付けるような人間がゴロゴロしているわけで、私など、とても手が出ない価格で落札された。写真では、女装した男にしか見えない団員に、ニジンスキーが何事か語りかけているようだが、私には、ジッとしているから、早く私を作れ、といっているように見えるのである。

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早稲田大学小野記念講堂にて。第一部【ダンスの映像をそうみるか/秘蔵の映像と解説】『ダンスと映像/ダンスをライヴで見ることと、その映像を見ることとはどう違うのか』の終わりの方に間に合う。4時間以上のイヴェントなのでゆっくりと出かけた。『映像と舞踏/伝説の誕生する瞬間』新発見されたという大野一雄と笠井叡の70年代のフィルム。私には良く解らず。最前列の客が投げ出した脚がずっと写っていた。『DVDと歌舞伎舞踊』玉三郎の市販のDVDを見ながら、舞台を観ることと映像を観ることの違いについて。『銀幕のバレエ/ハリウッド映画がバレエをどう取り入れ、どう扱い、どう排除していったか』鈴木晶氏の発表が今日の楽しみの一つであった。バレエ・リュス・ド・モンテカルロ出身のシド・チャリス(チャリシーは間違いだそう)のバレエシーンの美しさ。バレエ・リュスといえば、日本ではディアギレフのバレエ団を指すが、アメリカではモンテカルロの方を指し、そちらの方が有名だそうである。ミュージカル映画スターの彼女だが、ニジンスキーの妹のブロニスラヴァ・ニジンスカの弟子だそうで、サイン入り写真を持っている私は、始めてみる二十歳そこそこの姿に釘付け。 第二部【ダンス創作の秘密/3人の振付家のよる競演】課題曲にもとづく創作。 課題曲マイ・ウエイをコンテンポラリーダンス、バレエ、日本舞踊によつそれぞれの解釈の実演。なかなか面白い試みである。長時間のイヴェントであったが、興味深いことが多く、寝たのはちょっとだけであった。

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リニューアル版のディアギレフようやく完成。 ここにきてネット上で、始めてみる画像を2カット発見。一つは右に着けているはずのモノクルを左目に着けている。不鮮明な画像であるが、よくある逆版ではない。ディアギレフが右の生え際を常に白く染めているので判るのである。 もう一つは帽子を被っているカットだが、デカイ頭に、そんな小さい帽子でどうする?それは被っているのではなく、乗せているだけだろう。襟の大きなコートを何種類か着ているが、この襟の大きさは、大きな頭を小さく見せるらしい。 前回のディアギレフは傲慢な興行師というイメージで作ったが、この男は笑っていても目が哀しげである。怯えたように見えるものさえある。“口八丁手八丁で金を集めては来るが、すべてバレエ・リュスにつぎこみ、おかげで常に破産寸前のホテル暮らし。支離滅裂な状態の舞台を数日徹夜の采配で、目は落ち窪み、ボロボロになりながら開演直前にまとめ上げ、どこかに消えたかと思うと、開演15分前に正装を完璧に決め、ヘアートニックをプンプンさせて現れる。スラヴの若い才能ある男を愛人にして、女が出来ればスッパリと切り捨てる。頭が大きいせいで、難産で母親が死んだと言われ、最後は糖尿病で死ぬチョコレート好きな男”

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ディアギレフのかけるモノクルというのを、私は構造を知らずに二回ほど作った。実態を知ったのは、深田恭子の『富豪刑事』で、夏八木勲がかけているのを見たときである。ちなみに、ラジオで深田恭子が餃子には酢しか使わないというのを聞き、やってみたら、あれほど苦手だった酢が平気になっていたのに気づき、以来、酢を多様するようになった。有難う。 それはともかく。 モノクルなどかけている日本人など、見たことがないが、それは当然、彫りの浅い骨格には向いていないからであろう。ディアギレフを作るにあたり、貴族っぽく気取らせるには必要不可欠なアイテムである。

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