明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



團十郎も完成が近い、となると三遊亭円朝の方が気になってくるわけだが、行灯など灯り関係は蝋燭、油以外は行灯皿、油さし、油壷などすべてそろった。問題は肝心の牡丹灯篭である。色々探したが帯に短しタスキに長し、適当な物がない。そうなると自作するしかないが、こう見えて私は実にブキッチョである。小学校の技術家庭科は2であった。もっとも撮影用であるからなんとかなるだろう。  女刺青師彫Sの愛蛇?は何とかスネークとかパイソンとかいったが、3メートルの蛇は沖縄の三味線でおなじみの柄であった。写真の欠点は無い物は写せないことであるが、写せる妙な物があるなら撮らない手はないだろう。私には蛇が“カワイイ”という感覚がまったく判らないが。女性のカワイイはオイシソウとほぼ同義だ、と思ってからは気にならない。 そういえば友人からカンボジアの露天で蜘蛛のフライを見た気が、という証言を得たが、どこか暑い国のたしか大学構内で売っている大蛇料理の話を思い出した。油で炒めた物だったと思うが、あまりに歯ごたえがあり、飲み込むまで数日かかるらしい。HP

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女郎蜘蛛といえば、子供の頃から気になっていたのが蟹と蜘蛛の関係である、節足であり足も八本、構造も似ている。私が特に気になっているのは、海に住む貝に対して陸のエスカルゴのように、どこかに“美味い蜘蛛”がいやしないだろうか、ということである。昔から奇食珍食に対して書かれたものは好んで読んできたが、未だにその件に関して書かれた物にはお目にかかったことはない。一つには蜘蛛が小さく、食べ応えがない、ということがあるだろう。しかしタランチュラくらいの大きさがあればどうだ?  團十郎、後は色を塗るだけ、といいながら、髪をオールバックに撫で付けた感じを付け加える。初代は写るところしか作らず、その頭部はこのリニューアル版の中に埋没してしまったが、それも加えれば、最も制作時間のかかった作品になったのではないだろうか。そういえば、昨年グループ展で御一緒した細密な絵を描く某作家が「納期さえなかったらいつまでも描いていたい」。といっていた。
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昨年の深川江戸資料館の『深川の人形作家 石塚公昭の世界』では三島由紀夫が生前、篠山紀信撮影『男の死』用か、実際に背中に入れようとしていたかは定かではないが、いずれにしても間に合わなかった刺青を、(実際に入れようとしていたと信じているが)本人の代わりに人形の三島に唐獅子牡丹を入れ、展示ができた。今思うとこのご時勢によく、と思うが、それが実現したのは女刺青師彫Sに直接唐獅子牡丹を描いてもらったからだが、その彫Sからあれ以来連絡があり、狐火のイメージは?と訊ねられた。自分自身に入れるという。私も円朝用にヒトダマを筆で描くつもりでいる。久しぶりに会うことになった。  彫Sを被写体に、と考えたこともあったが、入っている墨が中途半端で残したくない、とのことであった。あれから大分進んだ、というので画像を見せてもらった。未完成の筋彫りの状態であったがリアルな女郎蜘蛛がいるではないか。それは背中一面ではなかったものの、頭の中に俄かに“タニザキ”の名が駆け巡った。こういうことを“寝ている子を起こす”といい、度々私をピンチに追い込んできた危険な兆候である。 また飼っている蛇の大きさを聞いてみると長さ3メートル。太さは人のふくらはぎくらいはある。締められて危ない、と思ったことは?と聞いてみると「ある」とのこと。 世の雑事とかけ離れた話ばかりであったが、こんなこともなければやってられない。
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九代目團十郎、ようやく着彩を残すのみとなった。   昨年の暮れ、脳溢血でK越屋のオヤジが倒れた。二度目なので心配していた。先日年上の陶芸学校の友人が、二度目の脳溢血で喋れなくなった、と聞いたばかりである。他所で店をやっている息子が土曜だけ店を開けている、というので顔を出してみた。この店も30年の付き合いである。そのうち十数年は、聞かれもしないし、新聞読みながら飲んで黙って帰っていた。近所に○所帰りの人を受け入れる施設があり、私をそこの住人だとずっと思っていたらしい。失礼な話である。  待っていた人も多いのだろう、5時にはすでに焼き鳥は売り切れていた。オヤジさんの状態を聞くと歩くと右に寄っていってしまうらしいが、リハビリに励んでいるらしい。口のほうは達者で、前よりうるさくなったという。「それは残念なお報せですね」。皆で大笑いする。頑固なオヤジ、不自由な分イライラも募るのであろう。暴れるので拘束されたりしているらしい。これを期に息子が店を継ぐことになったそうで、味の事で親子喧嘩するので困ると女将さんがいっていたが、こんなことでもないと、引継ぎは進まなかったに違いない。とりあえずは良かった。
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歩いていたら、前方20メートル先のビルから慌てたように出てきたオバサンがコケた。駆け寄ると眼鏡が当たったのだろう、目の間の鼻から流血。オバサンの後から出てきたオバサンが「救急車呼びましょうか?」座り込んだままのオバサン「お願いします。」私はわずかに通報するオバサンに背後のビルの番地プレートを指し示したにすぎなかったが。 永代通りで流血といえば知人ともいいたくなく、イニシャル書くのも避けているオヤジがいる。酔っ払って早朝、血をしたたらせて永代通りを歩いていた。この人物は、私が“バンパー”と呼ぶオデコを毎回ぶつけ傷だらけなのだが、幸い低いので鼻は無事である。救急車はすでに8回は乗っているだろう。スタンプも貯まっただろうから、そろそろ霊柩車がタダじゃないの?といっている。今年はすでに朝から蕎麦屋の前で倒れて店に迷惑をかけている。倒れる瞬間を何度か目撃しているが、受身一つ取らないが、脱力しているせいか、おでこ意外は無事である。いや自転車でこけて鎖骨は折った。
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母がショートステイで居ないので、伸び伸びとして、ただ作業の仕上げも楽しく感じる。もったいなくて家から出たくない。酒場では、せっかく家庭があるのになぜか皆ズルズルと飲み続け、家での滞在時間を短くしようとしているようにしか見えない人が多かったが、なんだかよくわかる。トイレで新聞をノンビリ読む人の気も知れなかったが、唯一孤独になれる場所となれば致し方ないだろう。地震でもトイレは身を守れると昔から言われているし。 そんな訳で仕上げ作業を少々優雅にやりすぎたせいで、今週中に完成するだろうと考えていた九代目團十郎の完成が遅れている。深川江戸資料館には申し訳ないが、11月まで展示ということなので、せっかくなら気になるところはすべて取り除いておきたい。 特殊な訓練をしてきた人物、という思いから、ただ立っている足の開きを90度以上開いてみた。明日はここに草履を履かせたい。
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実在の人物を作るようになって、当事者関連の文献ばかり読むようになり、置く場所もないので、それ以外の物はほとんど読まなくなってしまった。幼い頃から大好物が人物伝の類だったのでこうなってみると不思議な気がする。小学4年に上がる時、そんなに好きなら、とそれまでの担任だった先生が世界偉人伝を内緒で買ってくれたくらいである。あの頃から未だに、人間ほど面白い物はない。相変わらず九代目團十郎と三遊亭円朝に関する物を読んでは、ひょんな拍子で連中がこちらを振り向きはしないか、手がかりはないかと思っている。 昔TVで観たが、男子バレーの松平監督はロシアだったか、対戦する監督の母校の小学校へ行って通信簿を見てきたという。そこには一度決めたら変えない、という性格が書かれており、いまでもその性格は変わっておらず途中で作戦を変えないと踏んで、裏をかいて勝った、というような話であった。私もまだまだである。  母が今日からショートステイでしばらくいない。家に居るのに旅行気分である。もったいなくて外出する気になれず。幸い九代目も仕上げに入り、ここまで来ると作業しながらのアルコールも可である。
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九代目團十郎を作りながら三遊亭円朝撮影用に、ヤフオクや富岡八幡宮の骨董市で撮影用の小物、特に行灯、燭台など灯火器関連の物を少しづつ集めていた。幽霊はおおよそ夜に出るものだから、こうした物は必要である。昔の幽霊話の絵草紙にはこれでもか、というように登場する。西洋画と違って明暗よりも月や行灯、蜀代を描くことによって夜を表現するので、必要不可欠というわけである。 今年、久しぶりに谷中全生庵の円朝旧蔵の幽霊画コレクションを観たが、行灯、蜀代が効果的に使われていた。気持ちの悪い怨念じみた画が随分あったが、作為が見え々で怖くもなんともない。むしろ白装束と蜀代、行灯がなければただ美人画に見える作品の方が円朝作品同様興味深かった。蜀代に蝋燭一本でただの美人画が一変する。 怖いといえば荒野で前妻が後妻の白骨を叩き割っている画があったが、前妻の必死感が伝わってきて、なんとも嫌な感じで、幽霊画として描かれた物かは判らないが、これなど幽霊の仕業でなく生身の女と見たほうがかえって怖いくらいであった。男はあんなことしない。
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T屋に朝食を食べに行き、末娘の大学生Aちゃんにお露役を頼んでくれるようかみさんに伝えた。着物のこともあるし身長を聞いてみたら、チビだと思っていたら166センチあり、まだ伸びているらしい。小学生の頃から店に顔をだしていたが、ドアを開けヒョイと出す顔が、ろくろっ首の見世物ではないが。日々上の方に移動していった。それにしてもそこまで伸びていたとは。長女のAちゃんはもっと大きく『貝の穴に河童の居る事』の時はバランスをとるため、かなり縮んでもらった。聞いてみてみる、とのことであった。幽霊といっても円朝の場合は人情噺の一種であり、南蛮渡来の妙な薬で顔が腫れあがったりはしない。あくまで情景、心理描写の妙でゾッとさせる。よってお米役のお母さんと振袖着て行灯を持ってただ立っていてくれれば良い、と念をおしておいた。 昼前に母の白内障の術後の検査に行く。視力はたいして変わらないが曇りは取れたらしい。この病院は新しく綺麗で、今放送中のキムタクのドラマに使われている、というので初回、二回とも見てみたが、やたらと豪華キャストなのに、脚本が陳腐にも程がある。今までのドラマの焼き直しのようで新味がまるでない。草薙君の方は面白いのだが。
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近所に5人も子供がいるT屋がある。うち娘が3人。森鴎外を作った時、軍医総監の格好をさせたが、肩に着ける飾緒の三つ編みをかみさんにやってもらった。私はこういうことはからっきしで、娘が3人もいれば三つ編みなどお手のものであろう。(ついでに腰の儀礼刀用に使い古しの菜箸をもらった) このかみさんには『貝の穴に河童の居る事』で踊りの師匠役をやってもらい、長女には師匠仲間の娘をやってもらった。長女にはそれ以前、T屋の屋上でひしゃくで水をかけながら『潮騒』の海女、初枝もやってもらっている。 先日朝定食を食べに行った時、かみさんに『牡丹灯篭』のお露とともに化けて出る、乳母のお米役を再び頼んでみた。問題は主役のお露である。かみさんいわく「○○○はどう?」最近大学生になった末娘である。小学生の頃から知っていて、いずれは長女を超えると考えていたのだったが、先日、家を出るところを見たが、すっかり女性になってしまって唖然とした。げに恐ろしきはホルモンの作用である。そのイメージのせいでお露と結びつかなかった。ところが今朝、今年もらった年賀状(毎年家族総出演)の生まれたばかりの長女の子供を抱く化粧っ気のない○○○ちゃんを改めて見て、お露を考えてみようと思った。
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一日  


昔、ディスコのディスプレイ用に実物大の黒人を3体作ったことがあるが、それ以外では制作中の團十郎は、普段作っている作品より首1つ大きい。設置予定のガラスケースが随分大きいので、これで良かったろう。 少しづつ仕上げが進んでいるが、本日は、ようやくは足首から下に取り掛かった。ペーパーがけなどして着彩に入り、予定通りいけば、来週中には深川江戸資料館に搬入できるはずである。企画展の一室『深川と歌舞伎展』に今年の11月12日(日)まで展示される。  天気も良く清々しい。買い物ついでに深川不動に接した深川公園のベンチで、老人のゲームに興じる様子を眺めた後。日清戦争を記念した塔の寄進者の名前に『九代目市川團十郎』『五代目尾上菊五郎』『初代市川左團次』いわゆる“團菊左”の名前があるのを思い出し久しぶりに見上げた。
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昔から酔っ払ってかけたまま寝て壊し続けているのが眼鏡である。某液体をこぼして壊すPCのキーボードと双璧であろう。 私は乱視のガチャ目で、ピッタリのレンズを作ると床が斜めになる。毎回これで慣れて欲しいといわれるがどうも耐えられない。裸眼で腕を伸ばさずとも本も読めるので最近は素通しの眼鏡で通していたが、カメラに古いレンズを着けてマニュアルで使っていると、ピントがどうにもいけなくなってきた。結膜炎の治療を期にちゃんとしよう、と思ったのだが、問題はフレームである。大した物が中に入っているとは思えないのだが、我が頭、無駄に大きく、従ってツラもでかい。市販のフレームで、ツルの部分がちゃんと耳にかかった、という覚えがないのである。そこでセルロイドを切り出し、最初から作ってくれる、という工房を尋ねた。私がかけているのも、アセテートのセルロイド調のフレームであって、本当のセルロイドを手にするのは久しぶりではないだろうか。昔は万年筆もエボナイトを削っていたが、今はどうなのだろう。  制作中の某巨体タレントのフレームがあったが、上には上がいるもの、私があてがってもトンボ眼鏡の如しであった。ただしツルの長さは私の勝ちであった。せっかくなら初めて味わう耳に巻きつくように掛かる感触を、と長めにお願いしておいた。3~4週間かかるそうである。
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九代目が市川團十郎を襲名したのが37歳のときであるが、私の制作しているのは40代半ば、というところであろうか。使用している粘土は紙の繊維が入っているせいで、若者や、女性の肌を表現するには向いておらず、男、特に老人を制作するのに向いている。私が男ばかり作るのに、かなり貢献しているといえよう。なのに九代目は皺もなく、年齢を表しているのは髪の後退だけである。残された肖像は、ほとんどヅラ姿なので、この年齢でどの程度のハゲ具合かは想像でしかないが、まあ良いところであろう。 あえて壮中年期の九代目にしたのは、残された九代目像がすべて晩年の姿だということもある。 あちらの作者は偉い人達ばかりで、違う方向から一矢報いたい。 歌舞伎座の九代目は、舞台の姿ではないのに、口を思い切りへの字に曲げ、血管が切れそうに力が入りゴツゴツしている。私の場合、彼らと違って実際の舞台を眼にしたことがないので力の入っていない、残された写真を素直に受け取ることができた。これも高村光太郎の一文のおかげである。  いつもより大きい分、仕上げに少々手間取っている。
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ヤフオクで落札して読む。昭和初年に出た明治の始め頃に関しての各方面の聞き書きで、語られた語調そのままのところが楽しい。絞首台を作った大工の話とか、明治初年の殿様など、目次を見ているだけで面白い。当然劇界、演芸界にも触れられていて、円朝、九代目團十郎に関して、批判的な意見もあり、両者ともに名人だ劇聖だ、という話ばかり読まされていたので、それはそれで面白い。「九代目は河原崎権十郎時代は名代の舞台下手で、眼ばかり光らしてゐたんだが、福地櫻痴(東京日日新聞主筆)なんかが持ち上げてエラクしてしまつた。」その福地櫻痴に対しても、金払いが悪いので芸者その他に評判が悪かった、と書かれている。芸者に待たされ腹を立て、火鉢に大便をして灰をかぶせておいて騒ぎになり出禁になり。円朝に関しては当時の柳家小さんが、「狂言作者を抱えて飼い殺しにしていて芸は拙いし採る所はないが、作者がついているので常に新しい物を出した、」という。やっかみも入っているのかもしれないが、それはそれで貴重な証言として興味深く読んだ。当分酒の肴にはなりそうである。
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4月以降にオイルプリントのワークショップをやることになった。私のHPは、そもそもオイルプリントの作品と、技法の公開を主旨として2000年に始めた。当時写真の古典技法を手がける人もほとんどいいなかった。大正時代の文献を集め、独学で習得して発表したものの、日本人らしいといえばそうなのだが、初めて目にする物に対する反応は、制作法はともかく、というわけにはなかなかいかなかず、この絵のような技法は何ですか?というところでドンよりしてしまう。そこでまずこの廃れてしまった技法を知ってもらおうとHPを始めたのである。後で聞けば実は私のページを参考に試した人がいたことを知ったが、反応は皆無であった。しかしデジタル時代の反作用なのか、ようやく古典技法を手がける人が増えてきた。 私は昔の文献どおりやっても絵がなかなか出てこず苦労したが、改良した“石塚式”は写真の未経験者、小学生でも間違いなく画が出る。そこのところを体験していただきたい。もっともピアノは鍵盤叩けば誰でも音が出る。それと弾けるとは違うのと同様、思ったようにコントロールしようとしたらなかなか奥が深い。また最初のワークショップでは初日のゼラチン紙作りで脱落者が出たが、私も制作時にお願いしている田村写真さんに用紙の制作をお願いできることになったので、ハードルはぐっと低くなった。募集は2月頃になるそうである。HPにあるのは昔の作品だが、できるだけはやく、ここ数年の新作もアップしておきたい。

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