明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



陰影のない日本画調でやってみたかったことの一つに人物の過去の出来事や想いを同一画面に描くことである。懐から怪人二十面相の仮面を取り出す乱歩の背景に、乱歩の創作した怪人二十面相を配そう、と思い付いたのはいいが、思い切り陰影のある二十面相を置いてしまった。それが幸か不幸か、これ以上の二十面相は私にはできそうにない、という物になってしまった。 乱歩が作り出した夜の夢である二十面相に陰影があり、その作者であり、現世の乱歩に陰影がないのはおかしい。当初の構想からずれて来た。こうなってくると怪人二十面相単独にした方が良いのか?しかし所詮二十面相は登場人物である。ならば、とまだ御家族がお住まいだった頃に乱歩邸土蔵内で撮影した陰影のある乱歩を配した。かつて神奈川近代文学館の『大乱歩展』のメインビジュアルに使われたカットである。迷う私。そこで早朝、フェイスブックに二十面相だけ、と乱歩がいるのどちらが良いですか、とアップしたらすぐにお一人が乱歩有りの方、とご意見いただいた。多数決で決めようとは考えていない。背中を押してさえくれれば良いので即決。
昼ご飯やお菓子、北斎の頭部を持って母のいるホームへ。携帯をホーム内で盗られたとかで、丁度良いとばかりにキッズ携帯に換えた。久しぶりに会って我がままをいうので喧嘩になり、用事も済んだので帰った。しかし100メートルもしないうちに電話が来た。私と母の共通の良いところは怒りが持続しないことである。子供の頃は母が癇癪を起したら靴も履かずとにかく外へ逃げた。そこらに停まっているトラックの荷台で待っていれば何事もなかったように迎えに来る。とにかく一の矢を交わすことが肝腎であった。すぐ醒める。私がどんなに悪くても、一度たりとも食事を抜かされたことはない。父にこっぴどく叱られている時の母の「背骨は止めて!」という50年以上前の声を未だに憶えている。有り難いものである。


銀座青木画廊「ピクトリアリズム展Ⅲ』5月12日(土)〜5月25日(金)20日(日休)

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtubeより

『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載7回「“画狂老人葛飾北斎”」

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31日のTV東京『美の巨人たち』は驚き!天井から飛び出す龍 加山又造『墨龍』だそうである。よりによって加山又造はこうやって龍を描きました、なんて番組、寝てる子を起すような余計なことはするんじゃない、といいたい。こんなことがある度、誰かに仕掛けられているような気になる。それが良い方に転がれば良いのだが、今回は毒にしかならない。 もう実在した人物は作らない、といってる舌の根も乾かないうちに葛飾北斎を作り始めたのは去年の暮れだったか。それは蛸に絡まれている北斎が頭に浮かんだからだったが、当初考えた二点を作る目的に達成したせいで、北斎は陰影のある撮影をしていなかった。同じ物を撮っても大分違う。私の作り方にたまたま合っていたようだが、作り物だからこそ陰影をなくすだけで絵画的になるわけで、やったことといえば顔の皺をいくらか濃いめにしたくらいである。陰影をなくせば浮世絵やかつての日本画のような自由さを取り入れられるのではないか、とやったことなので、ことさら日本画風に輪郭線などは加えない。 北斎は昔のように、外へ持って行って実景を背景に撮るのも面白そうであるが、そんなことは考えずに作っているので、大分粘土を掻き出したが、着物を羽織らせたせいで重い。国定忠次の刀のように、片手で捧げ持つ撮影は無理だろう。まあ重ければ暇人見つけて持たせれば良いだけの話である。それに横に人がいれば私の恥ずかしさも半減する。この人のせいでこんなことをさせられているのだ、まったく迷惑なことだ、という演技プランのもと撮影する。溜息の一つもついてみるのも有効である。


銀座青木画廊「ピクトリアリズム展Ⅲ』5月12日(土)〜5月25日(金)20日(日休)

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『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載7回「“画狂老人葛飾北斎”」

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懐から怪人二十面相の仮面を出す乱歩の背景に思い付いたのが、仮面を着けていない二十面相であった。しかし背景の色を案配しているうち、なんだか思っていたより格好良くなって来て、二十面相だけで良いような気になって来た。西洋紳士風に成りがちだった二十面相を、悪党ヅラの、いわれてみれば本名遠藤平吉に見えなくもないだろう。イテテの遠藤は幸吉だが。これは旧いプロレスファンにしか通じない。乱歩をもう一度撮り直して考えることにする。
私の性格だと、陰影を出さないなら以後すべてその手法で、と本来すっかり転向したいところであったが、そこはやはり絵画と違い、手段が写真だけあって陰影を演出する魅力は抗し難い。始めて3作目であったか、明治の寄席を再現し、その前に立たせる円朝に、寄席内部からの光を当てるべきか悩んだ。結局始めたばかりだというのに我慢ができずに円朝に光を当てた。しかし新版画の川瀬巴水を見ると、屋外風景、室内の人物、対象により、自分の都合で陰影など描き分けている。であるから風景と人物では別人の作品のようである。私も臨機応変にそうすることにした。我慢して無理するのは身体に悪い。 特に今回の個展は趣味も意見も合わないグループ展の如き様相を呈しそうである。そして誰だ虎なんか出品した奴は!これは我々の趣旨と違うじゃないか。なんていわれそうである。そういえば昔、クラシックカメラ愛好家のグループ展に永井荷風のモノクロ写真を出品したら、このグループ展は新作で、という趣旨なのに昔の写真は反則じゃないか!とクレームが来たと責任者に聞いた。


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『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載7回「“画狂老人葛飾北斎”」

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田村写真に、灯台風景の『汝の安航を祈る』もプリントしてもらうことにした。灯台は天候から何から噓八百で、大改造を加えている分、わざとらしく不自然で、絵画的に見える。 ような気がする。刑務所に長くいると実は罪など犯していないと思い込む人がいるそうだが、天候の悪い中の撮影だったのをすっかり忘れていた。 取りかかっている乱歩が完成すれば、次はジャンコクトーを撮影の予定である。これはあらかじめフランス軍だかの木製弾薬容れの中に、コクトー的世界の中にコクトーを封入してあるので、蓋を開けて撮るだけで済むだろう。狭い箱の中だけに、ライティングを工夫することが出来ず、陰影を出さない手法にはうってつけである。被写体としてようやく出番が来た。この調子でいけば、出品作は30点近くなりそうである。ウンザリ止めに、青空の灯台風景を差し挟む、という企みである。 『猛虎図』を観た友人が「石塚さん、どこへ行くのか分からんなぁ」と。私は以前からいっているが頭に浮かんだイメージのためならどんな卑怯な手でも使う所存である。どこへ行くのかは私にだって判らない。虎を作って、なら龍を作って龍虎図だ、なんてやっていたらどこへ行くか判ったものではない。こうやってモグラが穴を掘り進むように変化して来た。ただ止められたならその程度の物である。写真の素人の私が人形も作らず古書店通いでオイルプリントの実験続けていた時ははやく止めなければ、とほんとにヒヤヒヤドキドキしていたが止められなかった。私は大正時代の作家のジジイ共を倒すつもりでインクにまみれていた。でなければ、ただやりたいからやっているという罪悪感に耐えられなかった。 最近飛ばしてはいるが、残された時間がそう潤沢にあるわけではないから、おかしな気は起さないでくれよ。

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懐から怪人二十面相のマスクを取り出す江戸川乱歩は随分前に作ったが、ガラケーで撮っただけであった。そこで先日撮影したのだが、このマスクのせいで背景が決まらない。怪人二十面相といっても、元はサーカス芸人の遠藤平吉で、人を殺すどころか血も嫌い。あげくに少年探偵団の諸君にやっつけられる始末である。よって『陰獣』のように妖しくするわけにもいかない。これは昔観た夢によって作った。 今は立教大学が管理している乱歩邸の応接間で乱歩が机に向かっている。にもかかわらず、編集者、研究者が大勢で飲み会をやっており、何が楽しいんだか盛り上がっている。そんな中の一人が、乱歩がこっそり懐から二十面相のマスクを取り出すのを見つけた。空気は一変し騒然となる一同。「先生、それだけはお止め下さい!」。老人である乱歩を羽交い締めにし、外部にもれないようカーテンを閉め、床に落ちたマスクを蹴飛ばし乱歩から遠ざけたりしている。そんな中、先生の決心がお固いなら良いではないか、と口をはさんだ男が別室に連れて行かれ袋叩きにされる。私はどさくさに紛れて乱歩邸を後にしたが、池袋駅になかなかたどり着かず苦しむ。 夢の中でも私は方向音痴なのであった。私の夢の特徴は、キャストやストーリーがめちゃくちゃでも、私は私がしそうなこと、いいそうなことしかいわない。そもそもめったに夢は見ないのだが。 最近はほとんど毎日書いているこの駄文もたまには良いことがある。4行目あたりで乱歩の背景を思い付いた。

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『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載7回「“画狂老人葛飾北斎”」

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昼前に何点かのデータを持って、麻布十番の田村写真へ。昨晩から今朝まで、今回は何をプリントしよう、と熟考したのだが、それにしてもこのラインナップ、趣味も趣向も意見も何も合わない連中のグループ展の出品作の如し。『円谷の女』は一部にデータの不備が見つかりやり直すことに。 江戸川乱歩『陰獣』。この作品は、陰影のない手法ではなく、陰影による妖しさを取った。陰獣には被虐傾向の女性が登場するのだが、鞭跡の描き方には少々手こずる。 『猛虎図』。手漉き和紙の風合いのおかげで、なんで虎などを個展に、という私の中の迷いが消えた。田村写真のFさんも可愛い、という。女の子にそういわれなくてどうする。という作品である。私にはその辺りを狙う機会が極端に少ない。これをもって猫の虎化計画は成功とする。後は田村さんFさんの意見を取り入れ、砂浜に立つ桜をお願いして帰る。五月の個展に桜はヘンかもしれないが、ヘンといっても季節が合わないだけなので、他の作品よりマシかもしれない。と他人にいわれる前に自分でいう。



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『円谷な女』をフェイスブックに投稿したら削除された。尻では何にもいってこなかったが、女性の乳首が特にいけないのか。しかし乳首や尻に海苔を貼付けるようなまねはしたくない。 明日は麻布十番の田村写真にてプリントの予定。『円谷な女』も持って行くことにする。他は『猛虎図』江戸川乱歩の『陰獣』(仮)等を予定している。手漉き和紙へのプリントは彩度が落ちたりして通常のプリントとは違い、作品を選ぶと考えていたが、それよりむしろ、私の作りたいという生な欲望が前に出てしまうところを、適度に落ち着かせてくれる効果があり、むしろそこが有り難いという気がしている。何しろ頭に浮かんだそのまま画にしている。私自身は頭に浮かんだイメージを可視化し、やっぱり在ったな、と確認するのが私の制作動機なのでそれで満足だが、人に披露するとなると子供じゃないんだから、頭の程度も含めてそのまま出してどうする、と思わないでもなかった。しかし思うだけでどうしていいか判らない。ところが手漉き和紙にプリントすることにより、たとえ大蛸に絡まれた葛飾北斎でさえ、ぐっと落ち着いたところを観て、007がワルサーPPKにサイレンサーを取り付けたが如く、気にせず何でも撃ってしまえ、と。よって『猛虎図』など手漉き和紙前提でなければやらなかった。

『円谷な女』

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『猛虎図』を猫を撮らせてていただいた飼い主に送信する。この猛虎、まりちゃんというメスだったことはともかく。 子供の頃、頭に浮かんだことは何処へ行ってしまうんだろうと思っていた。特に友達とか周囲の人に話せたらまだしも、一人でいるの時に浮んだことはなかったことのように消えて行く。『猛虎図』を眺めて、私はいったい何を作っている?と思いながらも確かに頭に浮かんだのはこんな感じの虎ではあった。さすがに自由に歩き回る猫だけに、ポーズは全然違っていたけれど。いう通りにならない猫はともかく、じっと黙って立ち続ける人形に関すれば、頭に浮かんだおおよそ、その通りの画ができるようになったが、独学ということが大きいのか、こんなに時間がかかる物だとあらかじめ判っていたらやらなかっただろう。ただ将来こんなことをやりたいなどというビジョンもなく、行き当たりばったり、目の前に落ちているパンを一つずつ拾って食べて来たような感じで、足下しか見てないから先の長さまで考えることはなかった。目標などない方が良い。100メートル先はともかく、足下の20センチ先のパンぐらいなら拾える。 それにしたって虎とはなんだ。唐突ではあるけれど、ここに至った経緯はいちいちブログに書いているから。多分そうなんだろう。頭に浮かんだ物は確かめたくなる。しかし虎などという邪念?だろうと浮んだ物は等価であり、そこが問題ではある。なんで個展に虎があるのか。寒山拾得があるならともかく。しかし周囲の人に話せたらまだしも。というわけで、なかったことにしないで出品しよう。邪念といってしまってはまりちゃんが可哀相だし。それに私の作品は虎に限らずすべて邪念だろ、といわれれば返す言葉はない。だいたいお前よく龍を作って龍虎図にすること我慢したな、と自分を褒めているのだから話にならない。

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先日撮影した竹林の葉の部分を切り抜く。重なり合っているので面倒である。ユーチューブで音楽を聴いたりしながら作業。ネットの映像で面白いのは動物が異種間で仲良くしているのを観ているとなんとも微笑ましくてたまらないものがある。 ほとんどがアメリカ人だろうが、自宅のガレージでギターやら何でもかんでも自分で作ってしまう連中を観るのも好きである。それこそバカじゃないか、という物まで。毎日恐いかみさんに叱られ、ガレージで何か作ってる時が唯一幸せなんだろ?すっかりお見通しさ。 私は昔から、男が一人工作する姿にツンとくるところがある。何年か前、何か材料が必要になり、あそこにはあったな、と探すのが面倒なので、昔住んでいた町の日曜大工センターに行った。そこは日曜大工好きだった父とベニヤだペンキだ、と買いに来た店であったが、買い物している最中に、工作する男のイメージは数年前に亡くなった父の姿だった、と急に気が付いて、葬式でも涙一つ流さなかったのに泣けて来て、大工センターで泣いてる訳にもいかず、必要な物だけ買ってとっとと出たが、駅までの道中も涙止まらず。 何でこんなことを思い出したかというと、日曜大工好きのアメリカ人なんて陽気に決まっていて、流す音楽も明るく楽し気な物と相場が決まっているのだが、今日観た男はどういう変わり者だか、ドリルで穴を開けたりしながらやたら哀愁を帯びた寂しい音楽を流していたのである。



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猛虎図で唯一撮影した物でなかったのは目であった。わざわざキャッツアイにしていた訳だが、なんのことはない、本物の猫目を使えば良い話しではないか。猫の目が左右に動く物かは知らないが、背後の月を伺うように横目にしたいので、黒目は移動させたが、これですべて撮影した物でできていることになる。違いは判らないかもしれないが、これでやましい?ことはなくなった。 特に難しいことをしてきた訳ではないが。どうしても個展会場で手法について説明を求められることが多く、その場合、目だけは描きました、なんていえば混乱を招くだけであり、せっかくいつになく、“陰影が出ないよう撮影して切り抜いて配しただけ”という単純な手法なので、猛虎図に関しては、これでサッパリした。後は八百屋の店先にタケノコが並ぶのを待つだけである。 廃れていた古典技法オイルプリントで個展をした際には、紙にゼラチンを塗ってというと、昔はその時点で驚かれたものである。あなたの使ってるフィルムやプリントも塗ってあるんですよ、とまではいわなかったが。一度いって余計驚かれて止めた。プロのカメラマンでさえその事実を知らない人もいた。今でこそゼラチン・シルバー・プリントなんてスカした呼ばれ方をしているが。 友人に、私の大リーグボール3号だ、などと一時はしゃいでいたわりに、単純で簡単な手法だ、なんてわざわざいって、何故喜んでいるのだ、といわれたが、今回の手法は、修験者の技のような物の力、作用で、こうなった訳ではないのだ、種も仕掛けも(ちょっとしか)ない、といえる清々しさが彼には判らない。人形を手持ちで街中で撮影したり、19年前から昔でさえマイナーで、短命に終わっていた手法を発表していれば理解できるだろう。そしてそのあげくがこれだ、ということが私には何よりなのである。



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5月の個展は、まだ始めてから1年経っていないような手法が主なので、別なパターンの作品も出品してみたい。金閣寺が赤々と炎上している作品もすでにプリント済みだが、ならば青空でもあって穏やかな作品はないか、と引っ張り出したのが三島由紀夫へのオマージュのために制作した戯曲『船の挨拶』による作品である。灯台に常駐する海上保安庁の男。何も変わらぬ日々に飽きている。航行する船に挨拶するように行き交う船舶に向け、今日も信号旗を掲げている。“汝の御安航を祈る”そんなある日、突如不吉な密輸船が現れ、男に向け銃弾を放つ。男はそれを待っていたかのように銃弾に感謝しながら死ぬ。実に三島らしい。 制作当時、アニメ『コクリコ坂から』が公開されており、それも信号旗がポスターにも使われ重要な役割を担っていた。国際信号旗は様々な旗の組み合わせにより数字、アルファベット、送信、受信、回答などが決まっている。“汝の御安航を祈る”は『船の挨拶』が書かれた当時はWAYで1969年に改訂されたのだが、『コクリコ坂から』の舞台とされる昭和38年当時はまだ改訂される前だったにもかかわらず、改定後のUWになっていた。時代考証のスタッフはいないのだろうか。宮崎駿が相手では、私の方が間違っている、と私がそう思うではないか。 最初の個展で作ったピアノの鍵盤を、女の子が数えているのを目撃して戦慄した。自分にとってどうでも良いことでも、観る人によっては、これはピアノの形をしているけどピアノじゃない、ということがあるだろう。以来、どこかでだれかが鍵盤を数えている、と思いながら制作している。



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念写  


昨日の撮影で竹はなんとかなったものの、多少あしらいたいと思っていた葉っぱに元気がない。こうしてみるとタケノコも欲しくなる。よってもう少し完成を待ちたい。 洋画と日本画の違いは、日本画は岩絵の具を使う、という単に画材の違いだと聞いたことがある。写真と絵画の違いはそれ以上のはずだが、陰影を排したくらいでここまで日本画調になるとは思わなかった。陰影がない、もしくは少ないということは、それまで写真としては最も重要であった配慮が不要ということになる。シャッターを切る回数も極端に減った。被写体の横に何が置いてあっても、どうせ切り抜くのだから気にする必要もない。タケノコも八百屋の店先に並んでいる物で充分である。私のズボラな性格に実に合っている、というのはたまたまなのであろうか。オイルプリントの再興には私に酷い忍耐を強いたが、あれは他人が考えた手法だったことも原因の一つだったろう。 ズボラでも可能な手法を、と始めた訳ではないが不思議である。私の人形の作風に合っていたというのもたまたまなのだろうか。自分の中から出て来た物は自動的に私向きな手法になっている。そういうことなのか。 何も自分でズボラを喧伝することはないが、というのも、ここに至ったのが、熟練を要する技術や特殊な装置、道具など何も要らない手法だ、という点に、私は密かな満足を覚えているのである。結果的には、造形力、アイデアがより問われることになったが。 ということで、昔から“外側にレンズを向けず、眉間にレンズを向ける念写が理想だ”といってきたが、今が一番近い所にいるという気がしている



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撮影には都合の良い曇天の中、大横川親水公園にて竹を撮影。猫を虎にするという試みは、だからこそ古典的に描くべきであろう。虎図といえば、月に竹は付き物である。こじんまりとしている竹林だったが、使うのは数本なので十分である。撮影後ベンチで休んでいると、お父さんと兄弟二人。下の子が補助輪なしで、始めて自転車に乗れた瞬間に立ち会う。グッジョブ。今後うんざりするようなことが数々待っているだろうけども、めげずに生きろ。おじさんは竹を撮りに来たんだ。 次に出品する人物を考えていて、写る所しか作っておらず、首だけ引っこ抜いてある太宰治などどうだろう。一昨年の深川資料館の個展にも間に合わなかった。これは『中央公論アダージョ』のために作ったのだが、交通局の発行ゆえ飲酒表現、さらに煙草もNG。古今亭志ん生のコップは湯飲みに換えることになったし、吉田茂は葉巻を持っているであろう手は後ろにまわした。 であれば今こそ太宰が.飲んだくれている場面はどうか。酔っぱらいに関して私は熟知している。救急車に9回パトカーに2回乗ってる人物は、昨晩も酔っぱらってぶつけた額にお札のように貼られた四角い絆創膏を「ジジイいい加減にしろよ」。ペチッと叩いたら血が滲んで来た。本人はアルコール麻酔が効いており笑っている。塩をすり込むべきであった。 どうせなら林忠彦の有名なルパンの太宰のような快活なものでなく、いかにも入水しそうにどんよりさせてみたい。どこでへべれけにしようか、考えてみたが、そういえば、私が30年通った店があった。一年間撮った中で、使えるカットがあるかもしれない。であれば暗めのモノトーン調の中で、アブサンの瓶と注がれたグラスだけが妖しくグリーンに映るというのはどうか。キュリー夫人の研究室ではないけれど。

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猛虎に対応する龍を作る気が無事収まったところで、今後何を制作すれば良いかを考えるため、現段階で、すでに手透き和紙にプリントしてあるもの、またはデータが完成、もしくはほぼ完成している作品を並べてみた。 人形が被写体である作品。1江戸乱歩/2永井荷風/3泉鏡花/4三島由紀夫×2/5夏目漱石/6森鴎外/7三遊亭円朝×2/葛飾北斎×2 人物を被写体とした作品 1牡丹灯籠×2/2ヌード×2/3蛸と女/4ゲンセンカンの女/5房州風景/ その他1金閣寺炎上/2猛虎図/3船の挨拶(三島由紀夫作品より灯台風景)以上21作品。昨年から始め、まだ一年経っていない日本画調作品のためにピクトリアリズムⅢ展とした訳だが(2回はオイルプリントによる)今の所ほぼ半分で、それ以外は陰影はあるが、手漉き和紙にプリントしてみたいと思った作品である。撮影用に正面しか作っておらず、首を引っこ抜いて身体は捨ててしまったある作家を、あそこでああしたらどうだろう、と思っていたら、昨晩T千穂で、演劇関係者の会話の中からその名前が聞こえた。ただ、いつものこれは来たな、というほどではない。ジャン•コクトーはこれで撮影を決めた。『中央公論Adagio』の表紙用作品からは古今亭志ん生と樋口一葉辺りが手漉き和紙に合いそうな気がするのだが。この時の作品展示の話しを以前いただいたこともあったが、私だったら背景に使わない、あまり絵にならない都営地下鉄沿線を特集場所として背景にしているので、ロゴが入った表紙ならともかく、作品としてみると何故この場所で?と見えてしまう作品が多い。オイルプリントのデータを手漉き和紙に、というのも一度試してみたい気がしている。いずれにしても龍なんて作っている場合ではない、とこれで判った。

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一日  


隔月の地元誌『タウン誌深川』の原稿を書く。三島由紀夫のあの日のことについて。実は新年号に書くつもりでいたが、昨年暮れに地元で世間を騒がせた血なまぐさい事件が起きたので、なんとなく遠慮して急遽葛飾北斎に換えた。 三島はあの日、演説により自衛隊員が立ち上がるなどとは爪の先ほども考えていなかったろう。轟々たる野次に魂の言葉がかき消され、無念。もはやこれまで。きびすを返し長官室に戻り自決。これが筋書きだったろう。華々しく悲劇に準じる浪漫主義的悲壮の死。あの野次でさえ、舞台を盛り上げるため計算のウチだったと私は考える。三島に共感した自衛隊員が一人でも「先生お供します!」と立ち上がっていたらエンデイングは台無しだったに違いない。演説は予定より大分早く切り上げたようだが、バルコニーの上から空気を読めないオッチョコチョイを見つけ慌てて急いたのではないか、なんて想像してみたりして。もっとも、あの日あの場で空気を読めた人など皆無だったろうけれど。 新たに龍を作り、龍虎図とする企みは頭を冷やし収まった。個展は5月だという時期にあたりまえである。友人から腕の中で飼ってた蛇が亡くなって、という電話でもない限りもう心配はない。

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