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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



K本の常連との房総の旅最終3日目のブログは、ぐずぐずしてたら3日経って書いている。以上簡単に。 鯨の解体は見そびれたが、日ごろの行いのわりに晴れ、黒滝も見れたし、名勝『仁右衛門島』も行けた。6本消費した『寿萬亀』の亀田酒造にも寄れた。明治神宮に唯一献納しているという亀田酒造だが、この寿満亀。東京では見かけない。吟醸酒も当然のように美味いが、むしろ口の中から数秒で消えてしまう意外性が一番楽しめるという意味で、パンや惣菜まで扱う房総のスーパーで、どこでも見かける日本酒度+1の上撰がお勧めである。帰りの車中。ちっとも酒臭くないのが不思議であった。というわけで大人の旅行は、天候がどうだろうとアルコールさえあれば笑っていられるのが良いところである。無事帰り、皆さん今後ともよろしく、ということで。

※世田谷文学館にて展示中。

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朝食は簡単に済ませ勝浦の遠見岬神社へ。漁師二人が河童に遭遇する石段の手前に茅の輪くぐり。石段その他、補修工事中であったが、ここを人間に腕を折られた河童が、鎮守の杜の姫神様に仇討ちを願いに杖にすがりながら、とぼとぼと登っていく。お2人をようやく案内することができた。撮影した二年前は、舞台が梅雨の設定にかかわらず梅雨が明けて、一滴も湿り気がなく困ったが、本日はまさに作中通り、小雨交じりの天気であった。 社務所で聞いてみると、やはり鏡花がモデルにしたことを、なんとなく知っている程度であり、せっかく鏡花が詳細に描写しているのにもったいない気がした。 和田浦に戻り、漁港の鯨のすぐにある蕎麦のはなうらへ。突き出しのイワシの丸干しが絶品。手打ち蕎麦を堪能し、タクシー運転手役のK2さん他2人を和田駅に迎えに行き、魚惣で再びウルメの刺身。そして肝心のツチクジラのブロックを入手。昨日解体があったばかりの生肉である。さらにカネシチで地魚の刺身の盛り合わせ。寿萬亀も4本用意した。地元ではツチクジラは生食はしないようだが、にんにく醤油で美味。さらに揚げて。刺身はホウボウ、ヒラメ(エンガワを含む)他当然美味であったが、衝撃という意味では300円もしない、手開きのウルメの刺身や丸干しに軍配が上がった。この常連6人が来ないというので、K本は本日臨時休業だそうで少々申し訳ない。

※世田谷文学館にて展示中。

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昨年出版した泉鏡花作『貝の穴に河童の居る事』は、煮込みのK本の常連に出演いただいた。なのでいつか鏡花が訪れモデルとした勝浦の遠見岬神社にお連れし、お礼参り?を果たしたかった。ようやく笛吹きの芸人役のMさんの車で、旅館の番頭役の“注ぎ殺し”ことTさんと、親戚の別荘のある和田浦に向かった。 鏡花は関東大震災の後、壊滅状態の東京から各地を旅し、作品を書いた。中でも房総を題材にした作品は房総物、と呼ばれる。本作は、河童が現れ、人間と接触する海岸。異界の者たちの住む神社。その中間に、人間達が逗留する旅館。この3点さえ用意すればビジュアル化可能だと考えた。この辺りは海からすぐの低地に山深い景色が迫っているので、趣のある旅館さえどこかで撮影すれば、狭い範囲でロケが可能だと考えた。旅館として選んだのは『江戸東京たてもの園』に移築された、高橋是清が226事件で惨殺された是清邸である。モデルとなった遠見岬神社は、季節になると石段に雛人形を並べることで知られている。もちろん現在は様子は一変しているが、骨格は鏡花が描いたそのままである。 一日目は江見のカネシチ水産で早めの食事を済ませ、漁港近くの魚惣の、絶品のウルメイワシとアジの刺身で房総の酒『寿萬亀』を二升に持参した泡盛半分ほどを始末し、明日に備えた。

※世田谷文学館にて展示中。

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エドガー・ポー本人自体の制作は来月に入ってからと決めている。その間、あれやこれや考えているわけである。以前、地元の陶芸家の先輩がいっていたが、近所の小学校の同級生が遊びに来て、手を動かしていないとヒマだと思われ長居されて困る。といっていた。確かに。私の場合、人形を作り出すと、何も考えず、ヨダレを垂らさんばかりに集中するが、それ以外はただ口を開けて、棚からボタモチが落ちてくるのを待っているようにしか見えないであろう。  アッシャー家。ある場所にいかにもアッシャー家にふさわしい建物があったので、そこで撮影しようと思っていたが、海外には当然、さらにアッシャー家そのものというものがある。それを見てしまうと残念無念。さらに。国内で見つけた場所は、そんな特殊な建物だけに、TVのロケなどにも使われている。見る人が見ると、あああそこね。ということになりそうである。そう考えると、当初の予定通り、アッシャー家も自分で作るべきなのかもしれない。普通、この写真は私にしか撮れない。などというと偉そうであるが、自分で作った物を撮っている私は自動的にそうなるのが何よりである。作中、確か真っ二つに割れて湖に沈んでいくはずだが、自分で作った物なら真っ二つだろうが四つにたたもうが自由である。写真家のイリナイヨネスコの、幼いときからヌードの被写体になっていたチビ娘が、母とのことを映画にした。最近は母親に対し、損害賠償と写真返却を求める裁判を起こし勝訴したらしい。その点私の被写体はずっと黙っている。  私に向かって殺すといったKさんに、今度いったらグーで殴ってよい。と一筆書いてよ。と頼んだが、冗談に決まってるでしょ~と身をよじって逃げられた。Kさんの携帯を見たら、あの日、私に殺す、といった直後に、永代通りで立ちションしてるところを私が写メした画像を、岡惚れ中のR子さんに携帯の待ちうけにさせられ、ロックをかけられたらしい。※業務連絡。当分の間、待ち受け画面はあのままでお願いします。

※世田谷文学館にて展示中。

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アルコール浸けで駄目な状態の、推理、恐怖小説のパイオニア、エドガー・ポーを制作するにあたり、飲酒により駄目々な人間はどういうものか、ということについては、充分過ぎる取材はしてある。充分すぎて、この余剰分はどうするのだ、というくらいである。 酔っ払いといえば、私がシャレにならない部分を避けてブログに書いていたら、なんだか愛嬌のあるオジサンに見えてしまい、一部に妙な人気が出てしまったKさんであるが、実態はそんな可愛らしい物ではないので、最近は書くのを止めていた。この64歳。娘ほどの歳の女性に岡惚れしてどうしようもない。 先日、彼女のことで私を誤解し、面と向かって“殺す!”といわれた。普通、面と向かってなかなか殺すといわれる機会はないだろう。酔って変身する人間は、おおよそ、普段は声も小さく、小心者ばかりである。しかも今回は馬鹿という下地があるので話にならない。 殺すと私にいっている時も、ロレツがまわらず、いったい誰を殺すのか、聞き返して、ようやく私と彼女を殺す、といっていることが判った。その後、昼下がりの人通りの多い永代通りの植え込みに、止めるのも聞かず、長々と立ちションをする64歳であった。 私は今度私に殺すといったら、顔面をグーで一発殴って良いと一筆書いてもらおうと思っている。その小さな可愛らしい団子っ鼻は、おそらく陥没してなくなっちゃうけどね。とでもいっておけば、自分を薩摩隼人などと意味も判らずいっている、どちらかというと小さな干からびたサツマイモは、ビビッて少なくとも私を殺すことだけは諦めてくれるに違いない。

※世田谷文学館にて展示中。

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制作する作家の選択には容姿も重要である。作りたくなる顔というものがある。しかしその容姿のおかげで役柄が制限されることも出てくる。例えば江戸川乱歩には、名探偵明智小五郎を演じてもらいたいのは山々であったが、元紅顔の美少年であった乱歩も、早々に頭髪を失い、もじゃもじゃ頭の明智役は無理であった。そんなことはどうでも良いだろう、と思われる向きもあろうが、私には私なりの虚実の配合法がある。 小説の登場人物には、主役脇役はともかく、必ず作者のキャラクターが反映しているものである。そこに作者を作中の世界に登場させる私には、やりようがある。そう考えるとエドガー・ポーの作品には、ユーモラスな作品や冒険小説調の作品など幅は広いが、なんといってもポーをポーたらしめているのは、登場人物がジワジワと狂気におちいっていく恐ろしさが描かれている作品であろう。伝記を読むと、それは生活苦や神経衰弱、それから逃れるための飲酒習慣に由来する悪夢を作品化しているように思える。つまり作中に入ってもらいやすい作家といえよう。 また作品世界に入ってもらうこととは別に、ポーの最後として、死の直前、過度な飲酒(無理やり飲まされた可能性が高い)によりほとんど人事不省の状態で肘掛け椅子に座っているところを発見された場面。これは手がけてみたい。『明日のジョー』におけるあの“名場面”が頭をよぎるのであった。

※世田谷文学館にて展示中。

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 河童や神経を病んだアル中の作家を撮影するために集めたレンズは、ねじ込み式のM42マウントで、コントラストが低い癖玉ばかりである。強い光源をフレームの中に入れず、曇った日中に使えばホームランを放つ可能性はあるが、ほとんどの打席で凡打か空振りばかり、というレンズである。これも被写体と条件によるところが面白い。 昨日届いた2本のレンズのうち1本は、以前から目星を付けていたメーカー製で、もう一本は、中身は同じメーカーだが、OEMでB級メーカーに供給されていた物で、鏡胴がプラスチック。これ以上安物はないだろうという軽々しいレンズでがっかり。どうせなら諦めがつくくらいがっかりしてやれ、と買い物ついでに試写してみると、意外なことに使いやすく、これで良いではないか、という写りであった。結果が良ければ何だって良いわけであるが、いい加減な私がいい加減なレンズをぶら下げているようにしか見えず、その見栄えでぶら下げている当人をフォローする効果は望めないのであった。

10月5日まで展示している世田谷文学館は、“期間が長すぎてかえって忘れる”ことがないようメールのついでに友人知人に思い出させてあげている。

※世田谷文学館のページを作りました。

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昨年出版した『貝の穴に河童の居る事』(風涛社)では、主人公の河童の三郎を、ばい菌恐怖症の鏡花がべとべとして生臭いと書いているので、そんな三郎を撮るのに、美しい描写をするレンズは必要なく、むしろ嫌な感じに写るレンズを使用するべきだと考えた。そこで2本ほど用意したのだが、描写に癖がある分、背景に合成するにあたり、その癖が背景と馴染まず仇となる。よってほとんど出番がなかった。使えたとすれば、舞台が梅雨時なのにかかわらず、梅雨明けに撮影するはめになり、わずかに陰鬱な描写を利用できたくらいである。しかし駄目レンズというものの、例えば曇りの日に苔を撮って、グリーンのあまりの美しさに驚いたことがある。一芸は持っているので飛び道具として侮れない。 ところで生臭くべとべとはしていないが、いずれ撮影しなければならない人物は、プライドは人一倍高いが、貧乏で借金にまみれ、自己嫌悪で酒なしではやっていられない神経衰弱のアル中である。常に喉の奥から胃液が逆流しているような表情をしている。しかも例えば縛り付けられた上から、刃がついた振り子が心臓めがけジワジワと降りてくる。そんな最低な状態に私にさせられる訳だが、そんな状態に、夢見るように世界を描写をする銘レンズを使ってどうする。という話である。幸い今回はモノクロームを中心に考えているので、色の再現性など気にする必要はない。そこで昨日、これはどうか、というレンズを2本ネットで注文した。明日にも届くだろう。評判が悪い分、安いというのが何よりである。

先日ブログに書かなかったが、青いサッカーボールのようなカメラを乗せた、グーグルのストリートビュー撮影車を清澄通りで見かけた。今年2度めである。前回は世田谷文学館の搬入の時だったから4月である。あまり外出しない私が2回もみかけるというのはよほど走り回っているのであろう。

※ 昨日フェイスブックにアップしたがこちらでも。現在のポー氏。災難が待ち受けているとも知らず、今のところ穏やかである。

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 図書館にてエドガー・ポーを読む。やはり今回はいつものようにはいかない。乗合馬車など撮りようがないし、マリーもいなけりゃレスパネー嬢もいない。フレームの中に、やれる範囲で収まるようにしないとならない。すぐ近くの書棚に『アルコールと作家たち』ドナルドW グッドウィン 小山昭夫訳が目に入った。案の定、たくさんの作家の中から、いきなりポーであった。ポーに関しては実は紳士であった、とか酒を飲んでいるところなど見たことがない、など様々な証言が残されているが、酒を断つことができず、飲まれてしまう人物だったことは間違いがなく、作品にはアヘンの影響を読み取る人もいる。先日戸川安宣さんに、ポーの縫ぐるみや大鴉のフィギュアを見せてもらったが、海外には様々なグッズが売られており、Tシャツと首振り人形の売り上げだけで、ポーの生涯得た金を遥かに上回っているというのが可笑しかった。  崩れてしまった携帯だが、これはどう見ても製造工程に原因がある。メーカーに対していいたいことはあるが、借りたばかりの代替機を濡らして壊したのは私が悪い。ショップで2万円強を払う。遅い昼食で氷の入った薄いホッピーでポーを読む。が水分ばかり取って話にならない。やはりK本で、正調のチューハイを飲もうと店を出ると、男がらみの問題で何ヶ月も店を閉めていた、と聞いている某煮込み屋に暖簾が出ていたので入る。件の中年女将を横目に見ながらさらにポーを読む。しかし客がまずかった。常連らしき白髪まじりの三人組。どこの店が美味いの不味いの、といい大人が人前で喋ってんじゃない。あげくに志ん生がどうの、と通ぶった連中になかなかポーが頭に入っていかない。いくら下町深川だからといって、こういう連中ほど気持ち悪いものはない。そういえば神田の居酒屋にも、いちいち江戸っ子ぶって「ただの大工ですから」を連発する馬鹿がいたが、こいういうのが店にいると、いらいらしてピッチが上がってしまう。 つまり本日の私は、無駄な2万円が下地にあるようである。しかも自分が悪いというのが効いている。おそらくポーもしょっちゅうこんな気分だったろう。K本に行き、さらにT千穂に顔を出し一日終わる。

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エドガー・ポーを上から徐々に襲う刃がついた振り子。日々追い詰められていくアルコール中毒者の悪夢のようである。デザインが決まる。あまり詳細に書かれていると作りようがないが。描き方は、人によって大差はない。柄?の部分は、振り子と同じ材質か、木製の棒状の物である。そこで昔の柱時計にあったような、三本の金属製の棒を組み合わせたデザインにした。機能的には意味はないが、ただ一本よりメカニカルであろう。これが果たしてぶら提げた時に、思ったような軌道を描いて左右に揺れてくれるのかはやってみないと判らない。当たり前だが、こんな物を作るのは始めてである。 画の効果を考えてであろう。原作どおり、刃渡り30センチに描いている画家はいないように思える。ほとんどがもっと巨大である。当初、私も大きいほうが良いと思っていたが、ぶら提げる“装置”とのバランスを考えると重すぎてしまうだろう。その点は、制作を依頼する友人に相談して進めるべきだが、結果思ったような動きをしないようなら、展示はしない撮影用とするまでである。 近いうちに多摩動物園にオランウータンを撮りに行きたい。『モルグ街の殺人』である。翻訳家の金原瑞人さんによると、本当は“モルグ通り”が正しいそうだが、金原さんも“モルグ街”とされたように、もう耳慣れてしまい通りではしっくりこない。 原作ではオランウータンは剃刀を振り回し、血に興奮する凶暴な存在に描かれているが、森の哲人にそんなイメージはない。ビアズレーも描いているが、おそらくビアズレーはオランウータンを知らなかったのだろう。どちらかというと尻尾の長い、巨大な日本猿である。しかし、ボルネオから捕らえてきた野生のオランウータンが耳飾をしているところがエライ。 せっかく二百年も前の作家であるから、せいぜい“後出しジャンケン”で各作家とかぶらないように行きたいものである。

『誰を作っているでしょうクイズ』唯一の女性正解者の方。“PCの方へ”御住所を再度お送りください。

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 秋田で山に軽飛行機が引っかかっているという通報があり、調べたら群生した白い花だったという。山から巨大で異形の怪物が下りてきた。と思ったら実は目の前の蜘蛛の巣に引っかかった蛾だった。というエドガー・ポーの『スフィンクス』を思い出した。 

私はもともとあまり機械好きではないが、特に何が嫌いといってパソコンのプリンターである。いままで思い通りにならないことばかりで癇癪起こして壊したりした。もう数年間所有していない。私のいうことを聞くようなプリンターになるまで待とうと思う。 次は間違いなく携帯電話である。別会社に乗り換えた早々、二日目からボディが欠け始めた。どう考えても製造時のミスである。何しろ落としてもいないのにひびが入り、ボロボロと壊れていく。ショップに持ち込んだ時には、蝶番までがボロボロで、中からビスがこぼれ落ちる始末である。しかし結局修理扱いとなった。確かに受け取った時は、見た目には気づかなかった。ここで終わればまだ良かった。代換え機である。これは防水機能がないといわれて嫌な予感がしていたのだが。嫌な予感に限って当たる。昨日遅くまで飲んで、朝目が覚めたら水に濡れていて反応しない。アドレスは無事だろうか。

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困ったイラストレーションがある。ビアズリー描くところのエドガー・ポーである。例の私が裏焼きだと判断していたポートレイトを下敷きにしているが、これが何かの間違いでないとしたら、そのまま服が左前である。ポーと同時代の人物である。ビアズリーともあろう画家が間違えるとは思えない。するとさらに色々検索していたら、男性の洋服が右前になったのは、1800年代の後半で、それ以前は決まりがなかったというではないか。考えてみると私が作った人物ではエドガー・ポーがもっとも古い。それまでは裏焼きかどうかは服のあわせをチェックすれば良かった。シビアさが足りないなどといっていた私に、吐いた唾が降りかかってきたことになる。それにしても右前が定着したのはつい最近ではないか。古写真など検討すべきであろう。  そもそも服のあわせにまず注意を払うようになったのは、いい加減な印刷物があるからである。いったい何を信じればよいのであろうか。目が慣れてしまっているので、修正するとしても後回しにする。本日『アモンティリヤアドの酒樽』をラインナップに加えることにした。

『誰を作っているでしょうクイズ』。唯一の女性の正解者の方。もう一度ご住所お送りください。PCのほうでも結構です。PCと携帯、同時に事故に対処はやるべきではなかった。

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エドガー・ポーは繊細すぎる神経の持ち主で、アルコールだけでなく、アヘン中毒でもあったようである。多くの作品で、徐々に狂気が深まっていく主人公がリアルに描かれている。 今から二百年前のアメリカというと、専業の作家というのはいなかったつまり原稿料が安い。ポーは存命中すでに海外にまで知られていたにもかかわらず食べていけない。なのにプライドが高く、せっかく得た編集の職も長続きしない。あげくに食事にも事欠く始末である。なぜわかるかというと、金の無心の手紙など、たとえば最終的に仲違いする養父への手紙など、感心するくらい残されているからである。当時、手紙は捨てずにとっておくものだったのだろうか。 常に生活が苦しい。この追い詰められ感は、まるで刃のついた振り子がじわじわと降りてくるような苦しみではないか。そして危機一髪で主人公は救われる。これは友人からのドルが届いた感じではなかったか。そんな気がしないでもない。  『黒猫』。殺した妻を壁に塗りこめ、これで大丈夫。警官に調べられてもバレない。なのに諦めて帰ろうとする警官をわざわざ呼び止め余計なことをいい、その壁の部分をステッキで叩き、理由はともかく犯した罪が露見する。本人は何故そんなことをするのか自分でも判らない。病弱な妻を家に残し、せっかく得た安定した編集者の職を辞するとき、ポーはあの作中の人物のような心持ではなかったか。そして自己嫌悪で飲まずにはいられない。 私は高校生の夏休み。1センチほどの鉄棒を4、5本づつ切断するアルバイトをした。炎天下である。それがある時から、そこに指を入れてみたい誘惑に駆られ、止める頃には、毎日がその誘惑との戦いであった。人間にはそんなところがあるのではないか?たとえば数十センチのパットを残し優勝をかけたゴルフの試合。固唾を飲んで見守るギャラリー。ここでフルスゥイングしてすべてを台無しにしてしまう誘惑と戦っている選手などいないものだろうか。いないだろうが、いたとしても私は驚かない。

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私が最初に泉鏡花に触れたのが小学生の時にテレビで見た『白夜の妖女』であったように、エドガー・アラン・ポーはやはり同じ頃見たロジャー・コーマン監督の『恐怖の振り子』(61)である。猟奇少年であった私が“恐怖”や妖女の“妖”の字をテレビ欄から見逃すはずがない。 怪奇映画で欠かせないのが絶叫クイーンである。数々いる美女の中で、ことゴシックホラーに限っていえば、なんといっても『恐怖の振り子』にも出ていたバーバラ・スティールが私にとってのクイーンであ。マリー・ラフォレを少々デフォルメした感じの美女である。そのデフォルメ具合がフェリーニが使いたがった、というだけある個性的な顔である。まずなんといっても大きな目。バーバラ嬢の場合、絶叫クイーンといっても、恐怖に怯え見開く場合と、恐怖を与えるために見開く場合がある。つまりSもMもいける両刀使いである。そしてツンとした高い鼻。しかし人の顔に対して、常にああだこうだしている立場からいうと、その広く張り出した額が個性にかなり貢献しているように思える見ている側からすれば、毎回雷鳴とどろくゴシック調の城や屋敷のセットの中で、さぞ楽しくやっていたのかと思いきや、二度とくそ忌々しい棺に入りたくないといっていたそうである。

外装が徐々に砕けてきた携帯電話。ついにはチョウツガイの部分ま砕けて取れて、開け閉めも手で中身が出ないように押さえないとならなくなった。写真で残しておけば良かったが、まるで大魔神が最後、娘の涙で崩れていく。あんな感じである。そうとう様々切り詰めた製造のせいであろうか、型に樹脂を充填する際のなんらかの不具合であろう。このロットを調べれば、間違いなく同じことが起きているはずである。ただショップとしては、私が落として壊したようにしか見えないだろう。砕けた破片ともどもメーカーに行くことに。ここの自転車なんて乗ってて大丈夫なのか?

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ようやくPCのメールが使えるようになった。その間は、新しく乗り換えたガラケーでメールしていた。しかしこの携帯が最悪であった入手の蓋に妙な欠けがあるな、なぜ気づかなかったんだろう、と思っていたら別のところに新たな欠けが。ようやく防水仕様になったのに。担当者に初期不良を訴えたが、対応がぐずぐず。以来ポロポロと欠けだし、今や悲惨な状態である。今まで寝返り、踏み潰し、と何度となく壊してきたが今回は違う。新たな筋が見えるが規則性があり、打撃などによるヒビとは明らかに違う。成型時に樹脂を充填したときの継ぎ目であろう。日本製品がこれでは困る。といいながら未だ面倒でショップに行かない私であった。

作り物といえど、私の場合、カメラを使った写真作品になるわけだが、おかげで少々生々しくなる場合がある。どちらかというと、及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ。と過剰に走りがちなタイプであるからなおさらである。 ポーの『黒猫』のラスト。壊されたレンガ造りの壁から殺害した妻の腐乱した死体が露になる。その頭には、一緒に塗りこめられた片目の黒猫が乗っている。ビアズリーが描くと整然とした趣で、ただ寝ているような妻の頭上に猫が乗っている。腐敗していると描かれていても、そこまでは描かない。これなら寝室に飾る人がいても不思議はないが、私がやれば逆立ちしたってこうはいかない。 こんな世界を描く機会を与えてくれた著者のことを思うと、どうしても律儀に書かれた通りにしてしまうところがある。そこで今回は、モノクロームでいこうと思っている。これなら例えブチ撒かれた多量の血液も、ただの墨汁である。

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