寒山拾得を何故制作しようと思ったのか。きっかけは森鴎外を制作したとき、寒山詩集の序文に基づき解説を加えた鷗外の『寒山拾得』を読み、もっと以前に美術館で、曾我蕭白『寒山拾得図』を見ていたことだろう。やはりその風体、特に二人揃って無気味な笑顔が印象に残ったのではなかったか。はっきりは良く判らない。写真見ながら実在者の頭部を作るのは、そろそろもういいのてはないか。と考えながら、30年以上住んだマンションの引っ越しを決め、だらだらと片付けし、その間,制作に逃げるのを避けるため.粘土も入手せず、結果、子供の頃の写真アルバムも捨て置いてしまうほどの断舎利を成した。様々な要因が重なったのであろう。以前から当ブログで、寒山拾得制作について書いていたと思うが、浮かんでは消えるあぶくのような無責任なイメージであった。ただそうはいっても、あまりにもなモチーフではあったから、何処まで本気なのか自分でも良く判らず。 5月のふげん社での個展『三島由紀夫へのオマージュ 男の死』において飯沢耕太郎さんとのトークショーで、何処からかの、次は何をの声に、つい寒山拾得と答えてしまった。しかし後日、社長から、子供の頃寒山拾得を読んで、社名をふげん社とした旨を伺い(拾得は普賢菩薩だとされる)2年後の個展が決まった。私は自分自身が半信半疑でも、上から降ってくる啓示は必ず拾い、取り逃がしたことは一度もない。とはいえ今のところ、金魚に寒山や拾得、豊干などと名前を付け眺め暮らすしか策はない。これを策といって良いのか? 2年後の会場で、最初から思った通りです。金魚のことなど知りません。という顔をしていたなら、首尾良く行った、ということになるだろう。