明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



念願かない、ようやく手掛けることができた異形の者。可愛らしいキャラクターになりがちな河童は、私が手掛ける以上、すくなくとも女性にカワイイなどとはいわせぬつもりで始めた。涙を地面に溜まるほど流しながら、ついでにハナを垂らし(三郎は垂らしたハナがやたら似合うが我慢して2カット。)かなり不細工に仕上がった。 これは以前も書いたが、柳田國男の翁と三郎相対する神社の境内のくだりを撮影していた時、土下座して翁に懇願する三郎をモニターで拡大してみたら、制作者である私が想定していなかった純で真剣な表情をしていた。私としては娘の尻を触ろうとして結果的にケガをした馬鹿な河童のつもりで作っていた。なのに拡大してみたら、私の演出と違う演技をしていたわけである。 ところが作者である私がグッと打たれてしまった。そうかそれもあるな。人からみて馬鹿なことでも、当人にとっては人生をかけた一大事ということがあるだろう。と自分で作った粘土製の河童に教えられた。そもそも私自信が周囲からそう見られている可能性がある。 私は制作中、河童の面相にいつのまにか入り込んでしまったのは、かつてのハリウッドの悪役リチャード・ウイドマークのつもりでいたが、真剣な土下座で懇願の一件以来、むしろ火野正平に見えて来て、出演者の女性からついに三郎を「カワイイ」と評されても、残念には感じず、『やはり男は真剣さが肝心なのであるな』。と思う始末である。 昨日ツイッターとフェイスブックにアップしながらブログに載せ忘れた、表紙のつもりで制作しボツになったカットである。やはり表紙はこれではなかったろう。この三郎の眼にはかつての火野正平的妖力を密かに封じ込めており、見つめていると女性は思わず手に取り(中身を確かめることなく)レジに向かってしまう手はずだったのだが。

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昨日から友人のスタジオへ行き、印刷向けに完璧に調整されたモニターを使って最後の色調整。幸い大きな変更をする必用はなかったが、ウチでは気づかなかった部分を修正する。 手掛けたかった人に非ずな物は、ヘンな化け物であれば河童でなくても良かったが、喜怒哀楽の表情を表現できたという意味では河童は良い選択であった。これほど豊かな表情が違和感のない妖怪はいないであろう。 私が普段制作している人物は、必用のないかぎりはすべて無表情である。見る人の状況、心持ちに応じ表情は変わって見えるので、その選択の余地を残しておきたいからだが、撮影に際しても立体はライテイングで表情が変わるので都合が良い。 結局家にいる時同様、スタジオのモニターの前でわずかに寝てしまったが、最終調整が終わる。幸い1カット、元データーをチェックする必用のあるカットが見つかり、今日でおしまいにならずにすんだ。なかなか離れ難い。なんとか眠気を8時までガマンし、『あまちゃん』を携帯で観ようとしたら電波届かず。今日は絶対観たかったのだが。 これが終われば書籍の表紙で変身ヒーローを作ることになっている。ゲラをまだ読めていないが、輝く強化服カッコイイぞ的ではなく、かなり庶民的なヒーローらしい。思えば河童に始まり会社社長、ドストエフスキーにヒーローと、私には異例な賑やかな年である。 ところで友人のスタジオで客観的に眺めてみたら、私が表紙用に制作した三郎より、編集者が選んだ方があきらかに正解であった。

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人形制作者の私が作るのであるから、様々な風景、人物によって構成された本であっても、最終的には主役である河童の三郎の表情が肝心で、三郎がこんな顔になるのは、こういう物語があったからだ、となるべきであろう。 そのつもりであったが、数週間前には河童があまり登場しておらず、このペースでは今年中の良いタイミングでの出版は無理かも、という編集者の表情であった。ところが私としては素材をすべて並べ、あとは料理してかぶりつくだけ、という最も美味しい日々が始まるつもりでいた。今考えれば、いくら私の頭の中にイメージがあり、それを期日までに頭の中から確実に取り出せる自信があっても、編集者には完成作を見せなければ伝わるわけがない。隙間だらけの原稿を見て嘆息するのも今は判るが、その時は私とは関係ない、何か社内的問題でも起きたのか、と勘違いしたくらいである。財布には間違いなく現金があるから大丈夫。といっている私と現金を見なけりゃ安心できない。という編集者。そんな感じだったろう。 そこから幸福な2週間が始まる。河童を空に飛ばしたり土下座させて泣かせたり、ハナを垂らさせたりハエをとまらせたり、念願だった柳田國男との共演シーンも一気に制作した。私にはこれ以上の快楽は考えられない。そしていよいよ完成が近づいている。 “及ばざるくらいなら過ぎたるほうが絶対マシ。というやり過ぎ傾向にある私は、編集者の客観性を信頼してきたが、おかげで表紙はこれだろう。と最後の最後に残しておいて制作した作品がボツになり、裏表紙のつもりで作った作品が表紙になってしまった。えっそっち?しかし頭の切り替えは早い。こんなカットが入らないほどの出来なのだ、と今は納得している。ホント。でも、あともう一回くらいいわせて! ※ボツカット近日公開予定。

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デザインも決まり、後は画像データの最終調整と後書きなどの、本文以外の文章の修正を残すのみとなった。朝から細かい部分の修正を繰り返す。画像総数74カット。先日の打ち合わせで、その3週間前は硬直した表情だった編集者も、良い本になったと笑う。「誰が買うかは別として」。余計なセリフを後ろにつけないでよろしい。 1冊目の『乱歩 夜の夢こそまこと』2005年(パロル社)を入稿した日、帰りに街行く女性が急に奇麗にみえたのを覚えている。『昼過ぎ外に出ると、ここ数ヶ月、街行く人が流木や石ころに見えていたのが一変している。特に女性が輝いている。昔4キロ四方、誰も住んでいない廃村で、男三人で焼き物をやっていた頃、たまに東京に帰って来た時の状態にそっくりである。』集中していたせいであろう。今回はというと、この夏、まだ扇風機のみで冷房を入れたことがない。火もまた涼し、といわないまでも、確かに制作中はどうということもなく、気がついたら背中に太陽の直射光があたっていたことさえある。 乱歩本の編集作業も佳境に入っていた頃の話である。『大江戸線で門前仲町から雨の中帰るが、門前仲町の交差点を渡ると、前を行く若い女性が傘もささず、慌てる様子もなく歩いている。ビニール傘の私は半分濡れているのに、何故か濡れていない。そんな素材の服なのかと思うが、一滴も濡れている様子がない。1メートル数十センチまで近付いたが、筆先のように束ねた髪が、雨が滴りもせず乾いている・・・。まあこんな事もあるさ。私は角をまがって家に向かった。』と書くのは、昨日チューハイグラスの幻覚を見た私である。

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 アクリルの板は、電気ドリルでうかつに穴を開けようとすると割れるそうで、危ないところであったが、タップホルダーにドリルの歯をつけ、手で少しづつ開けて事なきを得る。午前10時に幻冬社の編集の方にアクリルケースとともに吉本興行大崎社長を無事にわたす。 昨日、作った作品が本人の元に渡ったのは始めてかもしれない、と書いた。他に誰かいたような気がしていたが、肝心な人達を忘れていた。スティービー・ワンダーBBキングである。直接本人に手渡している。これであとはマイルス・ディヴィスとジェームス・ブラウンだ、と当時思ったものだったが。ローリング・ストーンズの『ミス・ユー』で印象的なハーモニカを吹いているシュガー・ブルーもいた。グラミー賞取っていないのは大崎社長だけである。 

風濤社に送るデータのこともあり徹夜。朝、母から電話があったので、徹夜だったのでこれから寝るという話をした。つまり今日はもう電話をしてくるな、ということに決まっているわけだが、30分後にどうでも良い電話。おかげで眠るタイミングを失する。 本日中に『貝の穴に河童の居る事』のデザイン用データを、風濤社にすべて送ることになっており、最後の撮影。河童が吐いた唾で穴が空いた長靴である。いつでも撮れると思っていたせいで、これが残った。手直ししたデータを宅ファイルで送るが届かない、というトラブルがあったがなんとか届き、後は最終デザインをPDFで受け取るのだが、もう耐えられない。ほとんど完成形は見ているので、最終チェックを、という編集者に後はまかす、と8時の閉店まで30分のK本へ向かう。かけつけ2杯。返す刀でT千穂へ。ようやくところどころ寝てしまう。目の前のグラスを取ろうとするが何度も空振り。女将さんは何しているんだろう、と思ったらしいが、そっぽを向いて空振りしたわけではなく、目を開けて、チューハイグラスの幻をつかもうとして空振りしていたのである。なるほど人間、妖怪やお化けくらい見て当然である。

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吉本興行社長像を入れるアクリルケースが届く。考えてみたら物故者ばかり作っているので、ご本人に作品が渡るのは始めてかもしれない。 土台にステンレスなどの金属棒を、いつもの木製の土台にするのと同様に立てるつもりだが、電気ドリルに刃先を着け、さてアクリルに穴を開けようとした時、刃先は何種類かある。一応詳しそうな友人に聞いておこう、とドリルを置き、昨年、房総の神社の撮影に付き合ってもらったKに電話をする。Kといっても酔っぱらってはしゃぐだけで、助手としてまったく使いものにならないおか河童のK公とは別物である。そのKが電気ドリルは止めた方がいいという。アクリルは簡単に割れてしまうそうで、彼も何枚か割ったそうである。やるなら刃先を工夫したほうが良いというが、アクリル自体は柔らかいので手動で開けた方が無難だろう、とのことであった。特注のアクリルケースは思いのほか高価である。危機一発。手でゆっくり開けることにした。しかし経験上、こういう危機を脱した後こそ、危険が待っている。落ち着いて作業にあたることに。

母がこちらの方に用事があるというので、ついでにタクシーで、実家に置いてある少々重い荷物を持って来てもらうことにした。マンションの道路を隔てた向かいにタクシーが止まった。荷物を降ろすため運転手さんが降りて来てくれて拶御したが、どうみてもその笑顔が、私を始めて見る表情ではない。すぐにピンときた。道中、母が余計な事を喋り続けていたに違いない。荷物を受け取り、母に「余計なこと喋ってんじゃないよ」。小さな声でいったつもりだが、運転手さん笑っている。『やっぱり』。以前、母がタクシーから私の携帯に連絡をよこした。母は電話を切ったつもりで留守電になり、私の携帯に車中の会話が録音されていた。「人形作ってるボーっとした息子」。というセリフが聴こえた

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GYAOで藤田敏八の『八月の濡れた砂』(71)を久しぶりに観る。日活がロマンポルノに移行する直前の作品である。始めて観たのは高校生の頃、今はなき銀座『並木座』であった。学園ドラマ『飛び出せ!青春』の先生役の村野武範が不良高校生で、ドラマで不良生徒役だった剛たつひとが真面目な同級生で違和感があった。そんな時代である。テレサ野田は鮮烈であったし、地井武男は後に散歩を面白がるようにはなるとは見えず、原田芳雄はいかがわしい神父。コソドロの山谷初男も絶好調である。エンデイングの石川セリの歌にもシミジミ。 しかしこの映画も『旅の重さ』や『青春の蹉跌』あたりとともに、お目当ての作品とカップリングで散々観させられウンザリしたものである。小津安二郎の『東京物語』を始めて観たのもここだったが、当時葛飾の田舎からわざわざ銀座まででてきた高校生が観るには耐え難く、イライラして途中で出てしまった。『仁義なき戦い』を観ていて、一緒に観ていた小学校からの友人が、山城新伍を「こいつ白馬童子だぜ」。大川橋蔵だと思いこんでいた私は軽いショック。そんな懐かしいことを想いだした。

吉本興行社長像制作再開。表紙用に制作したが、本体が御本人の元に行くことになった。作っていない靴の部分など作らなければならなかったが、河童本制作のせいで遅れていた。 ラストオーダー前に、夕食代わりにT千穂へ。飲酒状態のK2さん現る。とっとと帰ればいいものを、毎日グズグズとなかなか帰ろうとしない。雨が降っても公園で寝てしまうし、休みの日は山に出かける。いったい何が家にいるというのか。とにかく恐ろしいという本人の談である。私はそんなK2さんに刻まれた深い皺に魅せられ今回の本に登場願った。 若い頃に性欲や手作り料理に負けた男達の奏でるブルース。酒場は哀切のメロディでやかましい。

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昨日裏表紙の画像を作った。そして本日、ようやく肝心の表紙である。水に胸まで浸かりながら某俳優なみの、母性本能をくすぐる表情。かどうかはともかく完成。本日は表紙その他、後書きも含めてほぼ完成形に持っていく打ち合わせである。確かめることがあり、事前に編集者に電話する。裏表紙の話になり、あまり濃くしないよう釘を刺された。私を良く知っている。三郎がかなりの目力でこっちを見ている。たしかに裏表紙でこれはキツイかもしれない。話の舞台は房総の海辺だが、三郎の本来の住まいは印旛沼あたりの沼である。静かなせせらぎなど、もともとそんな風景写真を考えていたくらいである。急遽こっちを見ていないカットを用意した。おかげで予定より1時間遅れて風濤社へ。ここまでくると、ちょっと見にはどこを変更したか判らない程度の修正になってくる。そして表紙である。 私には頭のどこかに予感があった。たびたびそういうことがあったからである。つまり、私がここにはこの作品だろう。しかしこんな物もある、というと、こんな物の方が良い、といわれることである。えっそっち?だったら持ってこなければ良かったという話だが、頭のすみにこっちもあるかな、というのがあるのである。そして本日は裏表紙用に作った、こっちを見ているバージョンが表紙に良いという。えっそっち?編集者の客観性にまかせるつもりでも、さすがに俄には納得がいかない。なにしろ表紙用に考えた、とっておきの作品が没になるからである。そこで帯を含めてプリンターで両データで2種作ってもらい並べる。どっちでもいいや。納得すれば切り替えが早い。明日、一応営業の意見も聞いて見るとのことであった。

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裏表紙は河童の三郎の郷をイメージした風景カットを用意していたが、ここまでくると三郎と離れがたく、三郎でもう一カット作ってしまった。 見開きの物撮りカットもようやく撮影した。天候に左右される撮影ではないので、後回しにしていて今になってしまった。残る肝心の表紙は背景が決まり、主役の撮影を残すのみとなった。明日早朝撮影の予定である。 明日の夕方は、デザインなど最終的な決定のための打ち合わせである。後書きその他のテキストも用意した。これで後は色調整等、細かな部分の調整を済ませ、今月中に入稿である。開始から一年を少し過ぎてしまった。 先日、出演者の踊りの師匠役の女性に途中経過を見せると、河童の三郎がカワイイという。確かに作者の私も目が慣れてきたせいか、当初より気持ち悪く感じなくなったが、この女性のいうカワイイというのは、私には非常にわかりいくい。動物と触れあいながら連発するのをハタで聞いていると、オイシソウに似てるな、と思ったりする。 私は当初、できるだけ女性にカワイイといわせないよう不細工に作ったつもりである。制作中にユーチューブでチラっとみた、かつての悪役、リチャード・ウイドマークのサッドフェイスの影響も加味されている気もする。仇討ちを願うあまり泣き出す顔など、かなり不細工である。ここでもハナを垂らしてダメ出しをしておいた。 先日も書いたが、土下座し真剣な表情で柳田國男の翁を見上げる三郎に、そこまで作ったつもりがなかった私は拡大して驚いた。なるほど真剣さが男前にするものだ、と妙に感心したが、この場面を本日チェックしていてある人物を思いだした。かつて土下座しながらの上目遣いの、その抗しがたい効果についてワイドショーを賑わした火野正平である。

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表紙と裏表紙の撮影である。河童の三郎は常に濡れているが、水に浸かっているカットが1カットしかないので、せめて表紙は水に浸からせたいところである。本日も10数カットほどで終了。デジタルカメラを使うようになり、ますますカット数が減った。メカ音痴の私には、アナログ時代は本当に写っているのか、という心配があったのであろう。 帰宅途中、歩道脇の植え込みの中から尻尾を除けば4センチくらいしかない子ネズミがヨロヨロと出て来た。ヨロヨロといっても、死にそうというより生まれて間がなく、という感じで、私の前を行く。「なんだお前も出演希望者か?」道路に寝そべってもかまわないが、そうするほどには早足である。カメラを道路すれすれに下げて当てずっぽうで数カット。ほとんど画面からはみ出していたが、なんとか顔の部分が。即採用決定。 動かない被写体を主役に撮影している分、こうしたハプニングを画面に投入していく。参加いただいた素人役者の皆さんの場合も、私の意図していなかったカットの方をむしろ採用している。長く制作していて近年、ようやく思ったとおりの造形が可能になってきた。その分写真化する場合、思った通りでない要素を入れることにより化学的変化を起こさせる。陶芸でいえば、思った通りに作った作品を、電気やガス窯でなく、不確実な要素の加わる薪窯で焼く、ようなものであろうか。 夜T千穂に行くと知り合いのサーファーがいた。あんなことしているのに相変わらず白いな、と感心していると、某国民的女性歌手が私の河童をそうとう気持ち悪がって見ているという情報をくれた。そうでなくてはいけない。 私はかつて怪人二十面相を作ったとき、世間的にすっかり西洋紳士風イメージになっていることが不満であった。本名遠藤平吉。人一人殺せず、時に探偵団の良い子のみんなに捕まってしまうような男である。エロール・フリンみたいだったらおかしいであろう。 私は目が慣れてしまったが、潔癖性の泉鏡花が、絶対触れない河童にはなったであろう。さすがに表紙でハナ垂らしたり、ハエを止まらせるのは止めておくが。

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ここへ来て後回しにしていたことを拾うように仕上げている。例えば笛吹きの男が持つ、曲げた糸だか針金を弓のように張り、その糸を鈴をくわえた雀がツ・ツ・ツと降りてくる。鈴が鳴ってチンカラチンカラ。 元々麻布あたりの資産家だった男は、この郷土玩具を手に入れたことがきっかけで、郷土芸能など研究し、あげくに笛吹きになってしまう。鏡花は大資産家から没落し、最後能の笛方になった鹿島清兵衛をモデルにしたのではないかと想像しているのだが、この郷土玩具が画面に必用である。検索するとかつて鯛やフグなどあったようだが、素朴な玩具だし、特に雀は探してもないので、自分で作るしかない。撮影に雀が間に合わず、笛吹き役のMさんに弓だけ持ってもらって撮影したので、鈴をくわえた雀を合成した。もちろん撮影用なので形だけでよく、チンカラと動く必用はない。たまたま交換したギター弦を使ったが、これが巻き弦で滑りが悪く、ツツツと降りてこなかったが、だんだん滑るようになり、まさにこうだったろう、と鈴を鳴らしながら可愛らしい動きをする。動画のアップをやったことがないのが残念だが、こんなことをしていると意外な物を作ることになる。 完成前から本日も出演者の皆さんと、撮影時、ああだったこうだったと、そんな話で盛り上がる。有り難いことだが、素人役者の皆さんだからこそ、楽しんで参加してもらうことが必用であった。そうしたノリはきっと画面に出ているであろう。撮影直前に床屋で散髪されてしまう程度のことはしかたがないし、シャッタースピードをかいくぐり、ほとんどのカットで瞬きされるに至っては、特殊能力といいたいくらいではあったが。

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撮影しなければならないカットは表紙と裏表紙。もう1つは物撮りの見開きページである。文字の下地的な扱いのイメージカット。先日撮ったが物足りなかった。 作中、河童に化かされた三人は、シャモジ、スリコギを持って街を踊り歩いてしまう。おかしなことをしてしまった、という女房と連れの娘に、全国を旅した笛吹きが、私はそんな祭りを観たことがあるよ。とウンチクを語る。『青いおかめ、黒いひょっとこの、いでたちしたのが、こてこてと飯粒をつけた大杓子、べたりと味噌を塗った太擂粉木で、踊り踊り、不意を襲って、あれ、きゃア、ワッと言うひまあらばこそ、見物、いや、参詣の紳士はもとより、よそおいを凝らした貴婦人令嬢の顔へ、ヌッと突出し、べたり、ぐしゃッ、どろり、と塗る……』(鏡花の文章は時にラップのようで、声に出して読んでこそのリズムがある。)これはおそらく、今でも愛知県に伝わる祭りであり、鏡花は実際に観たのであろう。ヒョットコの面を被った男がスリコギにつけた味噌やシャモジにつけた飯を見物客の顔につけて回る。スリコギは男根の象徴であろうし、実際、木製の男根に味噌をつけて踊っている画像もネット上にあった。よっぽど愛知県まで撮りに行こうと思ったが、そこまでやってはうるさい。祭礼鈴やシャモジ、スリコギその他によるイメージカットでいくことにした。そんな時、私の事情を露ともしらない笛吹き役のMさんから、昨日元大工の福耳Sさんが、家にあってもしょうがない、と持って来たという物を渡された。それはSさんが子宝に恵まれるよう祈願して3、40年前に作った木製の男根であった。こんなタイミングでこんな物が我が手に。あり得ない。ミミズクなど、どこへ行って撮影すればいいのだ、といっていたらごく近所にミミズク、フクロウのカフェができる。『誰だこんなことするのは?』思わず空を見上げたくなる。 Sさんお手製のブツは結局最後の最後に撮影することになった。今回のため入手したが、使う機会がなかった大正時代のソフトフォーカスレンズを使う予定である。

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しばらく前からパソコンのモニターの裏、きまって左側からだが、昼間一、二度小さな蜘蛛があらわれる。蜘蛛の巣を張らない家蜘蛛であろう。モニターの上にくると、マウスのカーソルで遊んでみるが、思ったほどには動じてくれない。始めて気がついた時、たまたまごく小さな虫を捕らえようとしており、それが空振りに終わった瞬間を見てしまった。アレ?と思ったのが判った気がして可笑しかった。今回、できるだけ鏡花が書くような風景や、イメージにあった室内を、今まで撮影した様々な物を合成して作ってみたが、ふらっと旅に出て、たまたま撮影したように見えなくてはならず、そこに苦労が滲みでてしまっては台無しであろう。寝床を寝づらくしてまで制作した、そんな私を知っているのは、白い雲ならぬこの黒い蜘蛛というわけである。いよいよ今月一杯ですべて仕上げることになり、後書きの字数も聞いた。 現代の感覚からいうと、鏡花の表現は判りにくい場合があり、人の向きを間違えたり、見当違いな風景を作ってしまったり、私も随分手こずった。よって鏡花本には脚注が不可欠である。しかしビジュアル化するにあたり、できるだけ見れば判る形にしたかった。よって今回脚注はない。

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寝床に本を敷いて寝心地悪くして睡眠時間を削る作戦よりも、モニターの前の椅子の方が寝心地悪く、三時間で目が覚める。これを数日続けた。毎回、作業中のデータをしかるべきフォルダに保存するところ、眠くてどこか判らないが、とにかく保存をクリックしたぞ、というところで意識がなくなる、という有様であった。 何が難航していたといって、仇討ちを願っていた河童の三郎が、人間達の奉納の踊りにより、大喜びで大逆転。機嫌をなおすカットである。鎮守の杜の動物達も総出演し、何か炸裂したような場面を作らないと、話の大半を腕を折られて仇討ちを熱望していた三郎が急転直下、機嫌をなおして郷に帰っていくのが唐突に過ぎる。その大逆転のページにいたる前のページも、いきなり感を出さないために、頂点に向かい、すでに離陸していなければならない。そこで一度没になったカットを持ち出し、大逆転に備えた。最終カットはどんよりした曇天の中、カラスとともに三郎が飛び去っていくモノトーンのカットである。大逆転のページからモノトーンに至る前に、三郎が機嫌をなおしたことを示す表情も必用である。 先週の打ち合わせの段階では、プランが浮かんでいなかったが、寝不足のボンヤリした頭のおかげか打開策が浮かんだ。1カット物撮りを残し5時に風濤社へ。歯抜けの状態がすべて埋まる。 私は出版に関しては、小さな出版社が集まる本郷の出版社しか知らないが、アルコール類は潤沢に常備している。潰れてしまった一冊目の出版社では、始めて出かけていったら、ジャージをはいた社長がコンビニの寿司のパックを机に並べ、紙パックの焼酎にやかんのお湯で「どうぞ」。かなり驚いたが、もともと山賊タイプの私には違和感はない。ようやく全体像も見えてきたので途中から焼酎をロックで勝手にやった。編集者の話では、この調子だと、9月予定であった出版も8月に早まるかもしれないとのことであった。

ほんの部分。出演者の御三人初公開。

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ここのところ起きている間は、食事を別にすれば、ボンヤリするのはブログを書く10分から15分の間であったが、ここ数日はそれもなく、二日続けてモニターの前の椅子で寝てしまい。起きればそのまま制作を続けるという有様であった。脚がすっかり浮腫んでしまったが、おかげで、ちょっと引っ掛かっていたようなカットもすべて修正完了。昨日は残りは何をすれば良いか判っていたので、予約していたこともあり、T千穂のいつもの2人と森下文化センターのスタジオに4時間。(うち夕食に一時間だが)。一ヶ月ぶりなので薬指に豆がすぐできた。気分転換になったか、というと気分転換などまったくするつもりがないので、帰宅後作業にもどり本日に至る。集中力益々。こうなると日中でも扇風機だけで平気である。これが冬の場合だと、ちょっと寒いな。Tシャツ一枚じゃまずいな、手を休めたくないな、とどこかで考えながら風邪をひくという馬鹿をしてしまう。 河童の三郎。当初私の河童はカワイイなどとはいわせない。というつもりで、本来の用途は不明だが、透明なヌルヌルするローションまで入手して制作していたはずだったが、先日撮影した翁を見上げる真剣な眼差しを見て以来、見方が変わってしまい、すっかり可愛く見えて来てしまった。 これは本日の三郎。柳田國男の翁相手に、人間との間に、どんなことが起きたか顛末を回想している。私はへんなもの飼って可愛いでしょ。と無茶をいう人と同じになってしまったろうか?だったら来年の年賀状はハナを垂らした三郎だ。



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