明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



普段ぐずぐずのんびりしているくせに、作ることとなるとせっかちに変身してしまう。急ぐ訳でもなし、今の季節、放っておけば乾いてしまうが、達磨大師は写るところしか作っていないし、座禅のし過ぎで手足がないので、金属の芯も使っていないので、頭を引っこ抜き、レンジでチンする。 長らく続けた作家シリーズは、その殆どが明治、大正生まれの作家であった。しかし最近は妄想の中で、数百年前の禅僧や絵師とばかり対話を重ねている。雪舟は中国に渡り、絵画で見ていた景色がそのままで驚いたらしい。確かに写真、映像で見ても、中国の水墨画そのまんまである。相当写生して帰国したようだが、そう思うと『慧可断臂図:』の背景の奇岩に成果が表れている気がする。奇妙な穴は海底にあった岩が隆起したかのようでもある。先日見付けた慧可の腕の切断面にごく細い面相筆による、隠しポイントのような朱を入れている雪舟の姿は、私の頭の中にありありと生々しく再現されている。 

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達磨大師は乾燥に入った。達磨像の展示の予定はないし、一カットしか考えていないので、写るところしか作らない。開けもしない、タンスの中身にまでこだわった小津安二郎とは違う。それにこちらは自分で作らなければならない。 慧可の制作については間を置きたい。達磨に己の腕を切り落として差し出し、覚悟を示す場面である。雪舟描くところの慧可の表情は哀し気で、今にも泣きそうである。国宝に対して申し訳ないけれど納得が出来ない。まなじりを決した表情をしているべきではないか?西洋の古典絵画なら恍惚としているところかもしれない。そしてその慧可の覚悟の気配に思わず振り向く達磨大師。私のイメージはそんなところである。 考えなくてはならないとすれば、達磨は右に振り向かせた。となると慧可は、雪舟とは逆に左向きが良さそうである。となると切断した左腕が手前に来る。血痕の処理を含めてどうすれば良いのか。 モチーフは超俗の世界である。こんな時悩んでいるフリして内心恍惚としている私であった。


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