明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



アダージョ最終号。今回は諸々の事情で東京タワーが背景に入ることが条件である。そこから人選、特集場所が決まっていった。ところが東京タワー と縁がある人物というと、案外決定まで時間がかかった。22号の円谷英二は、本来東京タワー周辺が特集になった場合に、と考えたアイディアであった。最終号となる今号は、あまり地味でも具合が悪い。そこで東京タワー建設決定に係わったという田中角 栄に決まった。 想えばアダージョの表紙で毎号頭を悩ませたのは、名所とはいえない都営地下鉄駅周辺の風景に、いかに人物を配するか、ということに尽きる。今号も大門に角栄をただ立たせても、違和感だけが気になるだろう。そこで列島改造と“コンピ ューター付きブルドーザー”のイメージで、そのまんまブルドーザーを配することにした。中古の重機が置かれているという神奈川県の某所に撮影にでかけた。残念ながら排ガス規制により、角栄時代のブルドーザーはすでになかったが、あまりの台数に、当 初一台だけのつもりのブルドーザーを、ブルドーザー群として配することにした。暑がりの角栄には扇子を持たせることにして、実物を合成したのだが、せっかく作ったネクタイ周辺が隠れてしまった。角度や大きさ変えても無理であった。入稿寸前、角栄の手相が百握り、ますかけなどという、横に一本だけの天下を取るといわれている手相だと知り、なんとか修正。入稿後、着けるつもりの議員バッチを忘れていたのに気付く。すでに遅いがチェックしたら、ちょうどその辺りも扇子に隠れていた。 最終号は派 手に行きたい。青空を強調し、角栄お得意のポーズ。そうなるとブルドーザーが静かに置かれていては愛想がない。排気口から煙を出し、キャタピラには土埃を立てた。 結局ブルドーザーだらけで、肝心の大門は何処へいったか、東京タワーが取って付けた ように頭を出すという結果になった。編集長に伺いを立てると、インパクト重視で、とのこと。想えば、やりすぎることが多いと自覚している私は、この4年間、この言葉に随分助けられたものである。

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実景を作り物の屋内スタジオに見立てるというアイディアは、円谷英二が特集されることあれば、と以前から温めていた。円谷以外に使いようがないアイディアである。 初代ゴジラ(1954)は戦争の記憶もまだ生々しい時期に作られた作品だが、ゴジラの上陸後のルートは、B‐29の爆撃ルートと同じだそうである。アメリカ映画『キングコング』(1933)に刺激された円谷は、当初、大ダコが東京を襲う、という映画を考えていたそうで、本人のタコ好きもあろうが、海外からの要望もあり、円谷が手がけた作品に大ダコが度々登場する。隅田川にタコというのも妙だが、『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』(1965)では、富士山麓の湖から大ダコが登場する。海に近い勝どきあたりは、塩ッパイ分まだマシであろう。前日に活き締めされた瀬戸内海のタコを取り寄せ、糠でヌメリを取って撮影し、勝鬨橋に絡ませたが、熱中のあまり気がつくと足がイカより多い11本になってしまい、断足の思いで8本に減らした。 円谷は水の表現には苦労したはずで、水の性質上、よほど大きな模型を使わないかぎりミニチュア感が出てしまう。さすがの円谷も如何ともしがたかったようだが、一方私としては、円谷とは逆に、街をミニチュア化しないとならない。背景撮影のついでに、岸からほんの2メートル先の隅田川の水面を撮影して合成したが、それだけであたりの風景が、ミニチュア化し始めた。印刷で判るかどうか、勝鬨橋を自転車に乗った人がタコの足下をくぐろうとしている。気付いてはいたが、怪獣映画には、たとえば阿蘇山火口に落ちたカップルの帽子を、たった二百円で取りに行って怪獣の犠牲になるようなオッチョコチョイが付き物である。円谷の背後にあるのはモスラの卵というわけで、ダチョウの卵を使った。この実景を屋内スタジオに変える試みの締めは背後のスタッフである。小学生の頃、円谷にファンレターを出したという、同じマンションの住人にお願いした。円谷は、たまにはゴジラも血でも流したらどうだという意見に、子供にそんな物を見せられるかと激怒したそうである。つねに怪獣ファンの子供達のことを考えていたという。

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アダージョには珍しく人気沸騰中の人物である。特集場所の大手町には、どう考えても刀を差した男を立たせる場所などない。過去の人物を取り上げるアダ-ジョではあるが、余程効果がないかぎり、安易に過去の人物を現代の風景や人物と絡ませるのは避けたいと考えていた。そこでイメージを優先させてもらい、黒船を迎え撃つために作られた第四台場あたりに龍馬、そこ現れた黒船、という図を考えてみた。 それにしても、一頃に較べれば落ち着いたとはいえ、書店に行けば未だに龍馬関連の雑誌、書籍の類が目に付き、TVでも特集番組を目にする。つまりアダージョはかなり後発ということになる。ブームの前ならいざ知らず、この期に及んで今さら龍馬に黒船でもないだろう、という気がしてきた。  大手町といえば、旧江戸城の大手門がある。龍馬は勿論、江戸城が開かれたことを知らずに死んだわけである。現代の観光客が行き来する大手門に立たせてみたらどうだろう。大手門に行ってみると、当然、ハトバスツアーや外国からの観光客が目に付く。これで決まった。アジア人の観光客が圧倒的な中、いかにもな金髪を捜した。これで黒船を作る必要もない。  いつもはできるだけ、写真に残された人物像と違う状態を心がけるのだが、逆を向いてはいるが、あえて良くあるイメ-ジに準じた。これが太平洋に面した場所に設置された銅像なら、遠くを見る目をして(単に細い目だったという証言がある)日本の行く末を見つめる龍馬像となるわけだが、立たせる場所により、一味違った感慨に耽っているように見えるかもしれない。

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幕末生まれの歌舞伎役者、“劇聖”といわれた九代目 市川團十郎が以前から気になっていた。顔がやたらと長く、痩せて小柄。無表情で力が抜けているように見え、“荒事”の成田屋のイメージは、残された肖像写真からは伝わりにくい。それでいて、ひとたび形を決めたならば、その磐石の構えは、比類がないように見える。 独特のたたずまいは、天才バレエダンサー、ニジンスキーの肖像写真を始めて見た時と共通の何物か、を私に感じさせた。当時の目撃談によると、小柄な身体が、まるで舞台からはみ出すような大きさに見えたという。それはニジンスキーがジャンプをすると、空中で止まって見えた、というエピソードを思い出させる。超絶的な芸の持ち主は、物理学を越えた世界を観客に見せるものらしい。  歌舞伎座の改修工事が始まれば、アダージョで歌舞伎役者を扱う機会はないだろう。世の中が丁度インフルエンザ騒動の頃、睨まれたら一年間風邪をひかないと江戸時代からいわれた、成田屋は市川團十郎を提案したのであった。 始めに考えたのは成田屋十八番の中から『暫』の扮装の九代目が、歌舞伎座の屋根の上から、大太刀を振り回し、東京をニラミ倒して、インフルエンザはもとより、不景気や陰惨な事件、その他あらゆる悪をなぎ倒そうか、という場面であった。しかし、初代 團十郎が編み出したという隈取は、何処の誰だか判らなくなりそうだし、私には、あのような顔には見えないが、浅草公園には、九代目の『暫』の銅像がすでにある。それならば、と文明開化期の團十郎というイメージで、浮世絵師、豊原國周が描いたような、黒紋付に山高帽の九代目を考えた。これは伝統ある歌舞伎の約束事に触れないで済む、という、制作上の利点もあった。  見得の時に、目を寄せるのは歌舞伎の特徴ある表現の一つだが、相当数残された写真を見ても、九代目が“睨”んでいる写真は一枚も無い。人づてに当代の團十郎丈の「当時は写真を撮るのに時間がかかったため、にらみをしている写真がないのだろう、にらみの目は少しの間しかしていられないもの」というご意見を伺った。そして最終的には、坪内逍遥の九代目の目は実際は写真とは全く違う、という“挑発”に乗る形で、表情を作ってしまった。私は、常に本人に見せて、ウケるつもりで制作しているが、前述の絵師、豊原國周が、目を強調した絵を描いて九代目の逆鱗に触れ、出入り禁止になったエピソードを知っており、長時間かけて完成させた表情を、締め切りが迫る中、決心して変えてしまった翌日、私のヒゲに白髪が2本現れていた。そしてこんな顔に変えると、『勧進帳』の弁慶、もしくは『助六』にするしかない。 九代目は晩年、化粧が ごく控えめだったことは、モノクロ写真から伺えるが、工夫したことといえば、白粉との比較で白目が黄色く見えるため、白目を初めから黄色く塗っておいたことだろうか。背景は歌舞伎座だが、今号配布後、数日で改修工事が始まることになる。

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“月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり”『おくの細道』冒頭より。 私の制作した芭蕉像には、おそらく多くの人が違和感を感じるに違いない。芭蕉の肖像画、銅像、石像、木像の類は、没後数百年の間に、全国各地に膨大な数が作られ、今も作られ続けている。しかし芭蕉の門弟達が、師匠の肖像を描き残しているのに、なぜか無視され、勝手な老人像が作られ続けている。さらに、いくら現在より寿命が短い時代で、老け顔だっらしいとはいえ、私より年下で、一日4、50キロ歩いたという人物を、あまりな老人扱いである。そこで芭蕉像を作るにあたり、それが例え与謝蕪村だろうと、創作された芭蕉像はすべて無視し、間違いなく芭蕉と面識のあった門弟、森川許六、小川破笠、杉山杉風が残した肖像画のみを参考にした。当然、芭蕉はこうだったらいいな、という私の創作者としての欲もできるだけ排除した。  そうはいっても、西洋的写実表現の存在しない時代の日本画であるから、デフォルメされた表現の中から、実像をイメージするのは難しいが、画風が異なるにも係わらず、大きな鼻と耳に、小さめの口の形は、ほぼ共通であった。輪郭、目つきは、破笠のみが異なっていたが、許六、杉風は、いくらかつり気味の目に、下膨れの輪郭が共通なことから、多数決で、こちらを採用した。そう思うと、本文に掲載されている、森川許六が描いた『おくのほそ道』旅立ちの図として、曾良と思われる人物と共に描かれた作品が、その画力からしても、もっとも芭蕉像に近いと私には思える。加えて、芭蕉の存命中に描かれているところにも意味がある。  背景は清澄庭園である。『蛙飛こむ水の音』の図だが、普通頭に浮かぶのは“チャポン”という音だと思うが、実際は最初の水しぶきが“チャ”であり、直後の波紋で“ポン”となる。つまり実際はこうはならないが“チャポン”という音を捏造してみた。嵐山光三郎さんの『悪党芭蕉』(新潮社)によると、蛙はヘビなどの天敵に襲われそうになったときだけ、水中に飛び込むそうで、しかも音を立てずにするりと水中にもぐりこむので、これは芭蕉のフィクションだ、ということである。 撮影したのは実際は晴天の真昼間である。夜にしたことにより、水の音が、より周囲に響いたような気がする。月はスペースの関係上、ロゴのiの点に代用させてもらった。
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人は15歳くらいの時に好きだったものが一生好きだそうだが、そういう意味では、私にとっての小説家は、江戸川乱歩に谷崎潤一郎ということになるだろう。特に谷崎は、中学の授業中にも隠れて読んだが、たとえ先生に見つかっても文豪なのだから、とたかをくくっていたが、結局この間までハナを垂らしていたような同級生の前で『卍』を朗読させられ、関西弁に対する嫌悪感を払拭するには、漫才ブームを待たなければならなかった、ことは拙著『Objectglass12』(風涛社)にも書いた。 この谷崎は2体目である。1体目は作家シリーズとして2作目で、パソコンなど触ったこともなく、合成など考えもしなかった頃の作品で、実物のヌードと絡ませることしか思いついておらず、そのため今見ると、かなり小さい。そこで2体目は意識して大きく作ってみた。坐っていて約40センチ。  撮影場所は人形町『よし梅』の芳町店の座敷である。谷崎の隣りは、乱歩の『人形椅子』を制作したとき、閨秀作家“佳子”役をやっていただいた義太夫三味線の鶴澤寛也さんである。当初水天宮あたりを谷崎と歩いているところを考えたが、屋外では、せっかくの三味線奏者というところが生かせないので、屋内の設定に変更した。義太夫には谷崎も『蓼食う虫』で触れている。撮影準備中、店の方に床の間に一輪の椿を生けていただいたので、撮影方針はすぐに決まった。配布は本日からだが、おかげで新春号として相応しい表紙になった。谷崎のロイド眼鏡と羽織の紐は実物を合成した。
(この谷崎像は、来月1月8日(金)~11日(月)江東区古石場文化センターにて展示予定)

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横溝というと未だに研究本が出されているように、金田一耕介のイメージが強い。金田一の頭を掻き回すしぐさは、もともと横溝自身の癖であり、作中の設定では背も低いので、いっそのこと横溝を金田一にすることにした。撮影場所は作家、映画関係者が好んで使用したことで有名な旅館『和可菜』の前である。といっても、左側に黒塀がわずかに写っているだけだが。  大正時代、乱歩に誘われ神戸から上京した横溝が住んだ牛込神楽館は、乱歩が住んだ築土八幡からわずか数百メートルの距離で、お互い頻繁に行き来したようである。その丁度真ん中あたりに位置するこの細い路地を、徘徊好きの乱歩が利用しなかったはずがない。散歩ブームの昨今、この路地も人の通りが激しい。当初、平日の人が少ない時刻に撮影しようと考えていたが、ここを『悪魔の手毬歌』で金田一とすれ違うおりん婆さんが、歩いていたら面白いだろうと作り始めると、ただでさえ楽しそうでない横溝と、杖ついてうつむいた老婆では、都営地下鉄のフリーペーパーの表紙としては、妙な空気である。そこで予定を変え、できるだけ横溝世界とは違和感のある、携帯片手に路地を探索中の女の子を入れて、婆さんとのバランスを取ることにした。今の神楽坂と横溝世界の融合という、かなり“腕力”のいる作業であったが、出来てみると、婆さん女の子、どちらがいなくても物足りないような気がするから可笑しなものである。
『中央公論Adagio17号 横溝正史と牛込神楽坂を歩く』

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文豪というと、まずイメージするのは鴎外、漱石あたりであろう。文といっても豪なわけで、痩せ型の、例えば泉鏡花などは、あまり浮かんでこない。 加えて鴎外は軍人であった。軍医のトップ、中将相当の陸軍軍医総監である。そこで最初に浮かんだ背景は、小石川植物園内に本郷より移築されている、鴎外も学んだ医学校であった。そこに軍医総監姿の鴎外と考えたわけだが、使用がNGとなり、根津神社に変更した。軍医総監の礼服姿である必用は無くなったわけだが、文豪を文豪として描くのも能がない。残された写真は偉いし文豪だしで、モノクロならともかく、明治時代のカラフルな礼服を着せたら面白い結果になりはしないかと考えた。だがしかし結果はご覧のとおり、結局偉い人になってしまってメデタシメデタシというわけである。 小島政二郎の『古武士の面影』によると、昔は検印も印税もなく、一度出版されるとそれで終わりであり、著作権は出版社のものと思われていたらしい。再販になろうが何刷になろうが儲けはすべて出版社だったという。随分乱暴な話だが、田山花袋などは雑誌で発表したものを別の社から出そうとしたら、著作権侵害で訴えられたそうである。それはおかしいと、印税と検印を初めて採用させたのは鴎外であり、印税が入るたびに鴎外の恩を思うべきで、我々は鴎外に足向けできない、と正宗白鳥がいっている。

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植村直己は板橋に15年ほど住んだそうである。 この場所にはその昔、板橋の名の元になった太鼓橋があったという。旧中山道は石神井川にかかる橋である。現在はコンクリート製に代わっているが、私がこの場所を選んだ理由は橋よりも、かたわらに立つ道標の柱である。様々な場所にたどり着いた植村の、“地点”のイメージを象徴できれば、と考えたのである。書かれた距離が物足りないのはしかたがない。 世界のウエムラは極地に立ってこその人である。街中に立たせても画にならないし、本人も居心地が悪いだろう。ここに笑顔で立ってもらうにはどうすれば良いか考え、エスキモー犬を登場させることにした。犬はアラスカンマラミュートといって、エスキモー犬の中で最も大型の犬らしい。埼玉県の専門犬舎に御協力いただいた。季節として、毛のボリュームが今ひとつの時期らしいが、実物を見ると、実に迫力があり、今まで見た、すべての犬が霞んでしまう様子の良さであった。 当初、植村には、極地仕様の格好で立ってもらおうと思ったが、背景の樹々があまりに青々としており、さすがに暑苦しい。かといって、普通のアウトドアウェアでは物足りない。そこで白熊のズボンを穿いてもらった。 11号『太宰治と歩く』では、すぐ横に実物の女性の髪があり、一方の太宰の髪があまりに粘土なので自分の髪を撮影して合成したが、今号も周りが純毛だらけなので、同じことをしてみた。植村の独特の髪型は、少しでも寒さに耐えるようにという配慮なのか、どうでも良いかのどちらかであろう。 今号は犬が準主役として華を添えてくれた。私がアダージョの表紙制作を通じて編み出した、“違和感をもって違和感を制す”の典型的な例となろう。

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今回まず決めたのは、背景が夜ということと、清張の髪がいくらか風に乱れ、ネクタイがなびいていることであった。こういうことは、何がどうということではなく、なんとなく浮かぶのである。本文には日比谷と清張のかかわりについて詳しく書かれているが、日比谷といって私が思いつくのは『日本の黒い霧』とかかわりの深い、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が置かれた旧第一生命ビル(現DNタワー21)である。実際行ってみると実にサッパリしたビルで、最近デザインされたといってもおかしくない。補修が行われたためか、使われた石材の質によるものか私には判らないが、経年変化が感じられないので、ここをあのマッカーサーが出入りしていたとはイメージしにくい。一方隣りにならぶ明治生命ビルは装飾的で趣もあり、画になるように思われた。明治生命ビルもGHQに接収されているので、司令部に比べれば印象は薄いものの、私としては画になるかどうかも重要である。 今までどちらかというと明るい表紙が多かったので、今回は清張ということで、サスペンス調の夜景でいこうと考えていた。ところが窓に灯りがともる時刻になると、明治生命ビルはいささかロマンチックに過ぎ、前を歩くのが清張だと思うとまるで合わなかった。マッカーサーは司令部の場所を決めるとき、何棟かのビルを見て周ったそうだが、第一生命ビルは、そう思うと皇居を見渡す位置にあり、質実剛健的イメージのマッカーサーらしい選択と思われた。記念室となった旧マッカーサー執務室は、9・11テロ以降公開していないらしい。

01/07~06/10の雑記
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背景は聖路加(ルカ)国際病院である。この病院のおかげで周辺は爆撃を免れたが、特にこの部分は小津映画に登場した頃の姿を保っている。 小津は作品において、あらゆることにこだわった。特に有名なのは独特のローアングルであろう。セットの看板文字は自ら手描きし、壁にかかる絵画など本物の美術品を使った。撮影用小物で有名なのがヤカンである。カラフルな物が度々登場するが、『彼岸花』(1958)では小津の好きな赤い色のホーローヤカンが、ポイントとして唐突に置かれている。小津は自身の服装にもこだわったようだが、小津を作るにあたり、当時の小津組のプロデューサーで、現、鎌倉文学館館長の山内静夫さんに服装の色について伺ったところ、小津はすべてグレーにすれば間違いない、とのことであった。マフラーは時に赤いマフラーを愛用したようだが、たまたまベランダでそよぐ洗濯物が眼に入り、BVDのTシャツがマフラーに転じた。縮尺のマジックで、ペラペラのTシャツが暖かそうな布地に見える。また山内さんには、撮影にヤカンを使うことなどお伝えしていないのに「ヤカンは絶対赤」といわれたことが印象深い。横に配した撮影用カメラは、晩年ロケなどに使用したアリフレックスと同型の物で、小津コーナーがある、江東区古石場文化センターの展示品をお借りした。なお同センターでは、本日より来月25日まで、この小津像が展示される。

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背景は現存する樋口一葉が通った質屋である。年の瀬に質屋ということもあり、あまり寂しくならないよう心がけた。用事を済ませて外へ出たら、先ほどより雪が降っていて、というところか。
一葉をつくることになれば、やや右を向いたバストアップの写真を参考にすることになるが、同じ写真を参考にしながら、両極の結果を示した作品がある。一つは鏑木清方の裁縫仕事の最中に、ふと小説に想いをはせたところを描いた作品である。これは肖像写真とならんで、一葉のイメージを決定していると思われる。なにしろ南伸坊氏まで、おなじ扮装をして写真に納まっているくらいである。清方は顔の角度をわずか右に振っており、さらに目も鼻も口も“創作”してしまっている。にもかかわらず、まさに一葉と思わせるところは、さすが鏑木清方というほかはない。 もう一点はご存知5千円札である。真偽のほどは判らないが、札の肖像には、偽造をしにくくするため、髭や皺のある老人が選ばれるのが通例で、よって一葉決定は難航した、と聞いたことがある。元になった原版はコントラストが高く、ディテールが飛んでしまっている。清方とは反対に、ディテールが無い物は無く、一切創作することなく責任の持てる部分だけを拾った結果が、凍りついたお面のような5千円札なのであろう。一葉は右顔面に自信があったか、残された写真ほとんど右を向いている。私の場合はというと、背景の都合で左を向かせただけで、さらに横を向かせたのは、誰も知らないからいいや、と思ったわけではなく、傘の向きの都合である。

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心中事件を繰り返し、一度は相手の女性だけ死なせた、というイメージも悪かったのだが、少年時代の私に、思いっきり嫌われてしまった作家である。以来、嫌いというと太宰を挙げていた私であったが、太宰の没年齢をとっくに越してしまい、見え方も違うだろう、きっかけさえあれば、ちゃんと読んでみるのだが、と内心思っていた。なにしろ嫌い嫌いといい続けてきたので、自分からは読めない。しかし、仕事となれば仕方が無いとばかりに、改めて読んだ一冊目が『お伽草紙』だったのも良く、やっぱり面白いのである。こうなると“乃木大将とステッセル”というわけで、面白くてしょうがない。だいたい、どこをとって称されたかは知らないが、無頼でもなんでもないではないか。 撮影場所は旧島津公爵邸、現清泉女子大である。太宰は、当時分譲された土地に建つ借家に3ヶ月住んだだけなので、まるで『風と共に去りぬ』の舞台のような女子大正面ではなく、ひっそりとした一角を選んで背景とした。三島由紀夫の号で、実物の人間を横に配するのは、その素材感の違いから避けるべきだと学んだはずなのだが、太宰に酒も煙草も駄目となると、女性に登場してもらうほかはない。だがやはり、すぐ横の女性に比べて太宰の髪があまりにも粘土。ベランダから突き出した自分の頭を撮影し、急遽私の髪を貼り付けたのは、入稿の朝であった。

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表紙のテーマは“吉田茂とアールデコ”である。旧朝香宮邸、現庭園美術館は、吉田茂が首相公邸として住んだ場所である。この事実は意外と知られていないようだし、吉田茂といえばイギリスというイメージから、アールデコ調の屋敷に住んでいたという、意外性が面白いのではないかと考えた。朝香宮が皇籍離脱のさい、窮状をみかねた昭和天皇に、借りるよう頼まれたそうである。 背後のオブジェは、アンリ・ラパンがデザインしたセーブル陶器で、現在では稼働していないが、当初は水が循環していて、朝香宮妃が香水を流したことから香水塔と呼ばれている。そこで当時の様子をイメージしてみた。「犬に吼えられる奴は悪人だ」という、犬好きの吉田は、講和条約締結の記念なのだろう。サンフランシスコで入手したつがいの犬に、サンとフランと名づけ、その子犬にシスコとつけた。(またその子には、ウィスキー、ブランデー、シェリーとつけた) 吉田は身長155センチ、足のサイズは22、5センチだったという。たしかにマッカーサーと並んだ写真を見ると小さいが、胸板の厚さと肩幅のせいか、それにしては大変な貫禄である。日本の首相はいつの頃からか、その辺の商店会のオヤジのようになってしまった。もっとも、あちらの大統領にしても郵便局員にしか見えないのだが。 小学生の頃、給食のまずい脱脂粉乳を飲まされているのは、吉田茂のせいだと少々恨んでいた私である。

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前号の志ん生がリアルだったので、作り物だと思わない人が多かったようだが、そんな人にとって私はただの写真家である。リアルであればいいというものでもない。 三島は普通に街に佇ませても画にならない。かといって都営地下鉄のフリーマガジンで○○や××△というわけにはいかない。そんな時、馬込に『ヤマモト・スポーツ・アカデミー』が開設されたことを知り、このイメージが浮かんだ。ジム内が赤と黒のツートーンで統一されているところもクールである。そんなきっかけではあったが、はたして山本“KID”徳郁選手以上の適任者はあっただろうか?当初、スケジュールが合わないということで、他の格闘家も考えてみたが、誰一人として思いつかなかった。身長が三島と同じ163センチというのも偶然とは思えない。(三島158センチ説もあるが) 本来セコンドは3人と決まっている。キッド選手からも指摘があったが、三島に4人の若者と最初から決めていたので、試合会場ではなく、当ジムに道場破りが来たという設定でお願いした。災難だったのは現場にいた編集長である。キッド選手の要望で、反対コーナーでファイティングポーズを取るハメになった。一流の格闘家というものはイメージが大事なのであろう。このカットに関しては、後に三島の後頭部がくるはずの虚空を見つめてもらった。 今号はイメージした時から、背後に控えるキッド選手の存在感が、すべてを決すると考えていた。待望の次回参戦 は『DREAM LIGHT WEIGHT GRADPRIX FINAL ROUND』7月21日(月):大阪城ホール 対ジョセフ ベナビデス戦。

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