明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



先日出てきた小学生時代の通信簿に書かれていた。「掃除の時間に何をして良いかわからずふらふらしています。」つまりこれは生まれつきの病気であって、私に責任はないと思う。 本日、金気の物は何でも持っていってくれる、という中国人の業者に来てもらった。感じの良い二十歳の青年と彼女のコンビである。ブラウン菅型テレビこそ一台五百円かかったが、アルミだろうと鉄だろうと何でも良い。壊れていようがおかまいなし。リサイクルというより溶かして使うぞ、という感じである。掃除機など側がプラスチックなので遠慮してしまったが、中に金属があれば良いという。そうなの?デスクトップパソコン四台は持っていってくれたが、さらに25°~35°のアルコールのせいで駄目にしたノート型が何台もある。金属がむき出しでなくとも良いなら、他にもあるのでもう一度来てもらうことにした。 部屋を片付けようと頭のすみにちょっと浮かんだだけで、制作意欲が全身にみなぎってきて作らずにはいられなくなる。私は自身のこの特殊な仕組みを利用して、どれだけ作品を制作してきただろうか。逆にいえば、片付けていたら産み出されなかった作品がどれだけあったことであろう。ということじゃありませんか?と私は誰に向かっていっているのであろうか。

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部屋を片付けていると、河本の店内で、永井荷風を片手に持って撮影しようとしている写真が出てきた。女将さんは割烹着に髪も黒い。しかし荷風が来店したと、しばしば間違われる店内に飾られている作品より後であり、どうもTV番組の一場面のように見える。記憶がない。可能性があるとしたら『トゥナイト2』か関西TVの『痛快エブリディ!』ではないか。他に外にロケに出掛けたことはない。ついでに大量のビデオテープを捨てることにした。すでにデッキがないので、本のように片付けながら読んでしまう危険はない。捨てながら、非常に興味深いタイトルを散見するが、DVDに落とす場合他人に委ねなくてはならない。断腸の思いで捨てる。 思いの他、私もTVに映っていたものだが、子供の時のNHK『お母さんと一緒』?を別にすれば最初に出たテレビ東京の『麻世の真夜中デイト』が出てこない。私は出ない約束であったが、疲れた様子のスタッフ注視の中、一人我儘いってる気分にさせられ、しかたなく、一回で済ませる約束で出た。誰にも内緒にしていたが、オールナイトフジもやっていない頃で、深夜番組自体が少なかった。友人が観ていて電話が来た。受話器を持ち上げた時点で爆笑している声が聞こえた。ラグジュアリーな夜がどうのと司会の川崎麻世がいっていた。本人はまだ学生だったろう。真面目な青年に見えた。番組は、新番組でまだ放映されていないのに、視聴者からハガキが着ていた。歌のコーナーには扇ひろ子に3人組のキャンキャンだったろう。今は思い出したように、途中下車の旅からオファーがあるくらいである。街の変わり者として映っているのが想像できるので遠慮している。

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来年定年で田舎へ帰るK2さんが、今のうちにやれることはやっておこう、というわけか、女性を連れてきた。事前にお手柔らかに、というメールが回ってきたので、そちらを見ないようにしていた。どこの店でも飲むと声が大きくなり迷惑なのだが、ヒソヒソと話している。なんだやればできるじゃないか。しかも自分のことを“僕”なんてぬかしていやがる。敬語を使えることも初めて知った。腰の低きこと、谷崎潤一郎『春琴抄』の佐助の如しである。可笑しいのなんの。武士の情けで突っ込まないでいてあげた。 拙著『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)で笛吹と踊りの師匠の夫婦と房総の海辺に旅行に来る師匠仲間の娘をやってくれたAちゃんは、撮影直後に結婚したのだが、妊娠したと聞いた。河童に目をつけられる重要な役どころをやってもらった。その前年には、三島由紀夫の『潮騒』の初枝をやってもらっている。この時は撮影日にヘアースタイルが昭和的でなくなっていて焦ったが、河童の時は、たった数ヵ月で痩せてしまって面食らった。着物の下にタオルを巻いたり、ほっぺたを膨らませたり。何しろむっちりした娘と書いてあるのでしかたがない。今にしてみれば色恋が原因だったのは間違いないだろう。一般人を起用する場合は注意を要する。その後、旅館の番頭にも撮影直前に床屋に行かれてしまったのであった。

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連載“常連席にて日が暮れる”第二回は『出禁』。人間いくらでもやり直しができる。というが、そうは行かないのが河本の出入り禁止である。女将さんに宣せられたならばアウトであり救済の余地はない。私はほぼ30年通ったが、はしゃぎ過ぎたOLが同僚の男性社員に伴われ、菓子折もって謝りに来て、渋々受け取ったのを目撃したことがあったが、二度と現れなかった。この出禁の厳格さを一番知っているのが常連である。であるから、河本では正気を保ち、泥酔するのは2軒目から、という人か多い。よって近所には、トイレを借りる客に「河本のションベンうちに持ってきやがって」。とボヤく店主もいる。 深川の連載がいつまで続くか判らないが、今のところスペースがなく、写真が大きく紹介できないのが残念だが、駄文よりもむしろ写真を載せたいところである。玄関脇のアンタッチャブルな一隅を片付けていたら小学校の卒業文集がでてきたが、文章のテイストが今とあまり変わらず呆れた。通知表もでてきたが、先生の評を読むと、現在の私を評しているようにしか思えず。 他に私が人形制作を志すとは思っていない頃の人形作品の写真。友人に撮ってもらった。前田日明、ジョー・フレイジャーのサイン。日本タバコ産業て作ったB全の駅張りポスター。昔の私の作品はタバコをよくくわえていた。柳ジョージのプロモーションビデオ。黒澤映画の『乱』だったか、炎上シーンを撮ったスタジオで撮影した。当然VHS。要変換。

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一日  


ただ今、神奈川近代文学館で開催中の柳田國男展に、拙著『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)を置いていただいている。作中、河童と相対する灯ともしの翁を柳田國男にやってもらうことを思い付いた時、瞬間立ち上がり、そのまま河本に飲みにいってしまった。さらに河本の常連にも登場してもらうことになった。本作の来年5月のスライドを流しながらの、女流義太夫の名コンビによる朗読会は、そうとう面白いものになるだろう。こちらも地下鉄車中で閃き、すぐにメールをした。鏡花はリズムを重視した作家である。朗読むきであることは間違いない。朝、定食を食べにT屋に行き、踊りの師匠役をやってくれたかみさんに、スクリーンに、顔か怪獣くらいの大きさに映るかもよ?といっておいた。 真夏にあんな思いしてたったの1カットかよ。と未だにいう人もいるから、考えておかなければならないだろう。

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昨晩撮影した河本の外観。暖簾も加わり、河本に通い続けた人にとれば、目に馴染んだ風景になっただろう。何度も見てしまうのでデスクトップに設定。 しばらく休業が決まった時、河本自体を撮らせてもらうことにした。お客には迷惑かけずに撮影ができる。しかし女将さんが帰ってくると、やはりこの笑顔があってこそ。となった。近頃は、肖像権だ個人情報だと、昔のように、酒場など気軽に撮ることはできないが、女将さんの表情が肝腎なので客の顔はできるだけカットしていた。しかし先日、女将さんや河本を心配してのことではあるが、いいオヤジが熱くなってしまった。女性の常連Hさんが「みんな十歳なのよ」と。日頃仕事で子供と対しているから実感がこもっている。女将さんを皆で心配し、いたわっているつもりでいたが、ファインダーの中の屈託のない客の笑顔をみると、むしろ女将さんに十歳にさせられていることに気づいた。 となると私が撮ってるのは、女将さんと、十歳になれる機会と場所を失いたくない良い大人ということになるのかもしれない。 以前、三島を制作した時、どこでも血だらけにする方法を考えたが、今回は誰だかは判らないが、十歳の笑顔であることは判るように術を施している。

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暖簾  


夜になると野暮な街路灯に照らされる河本だが、ここ2年くらいだろうか。店内の蛍光灯が昼光色に変わった。外から見ると赤々と温かく良くなった。私は昔から蛍光灯が寒々と感じ、引っ越しすると、真っ先に電球に変えるのが常であった。 夜の外観を撮る。休業する大分前から暖簾を出さなくなっていた。ネットでしばしば言われるように、店だか民家だか判らない。久しぶりに暖簾を掲げてみることにした。 私が通いだして、この暖簾で何代目であろうか。横に大きく河本、と書かれていたこともあれば、その字がアップリケのように縫い付けられていたり、小錦の特大パンツのような時もあった。そのほとんどが、厨房担当のあんちゃんの手作りであろう。そして出されることのない現在の暖簾はというと、出されなくなった理由の一つかもしれないが、劣化が甚だしい。日焼けにより、かつて紺色であった下地は薄い灰色がかった茶色と化し、判別困難な河本の部分は破けてガムテープで補修されている。撮影中に、営業していると勘違いされても困る。人通りの少なくなった頃、暖簾の片付けを担当していたTさんにお願いして、撮影中待機してもらうことにした。といっても数カットで終了した。どうしても信号機が入るが、色味的に赤信号を選ぶことになる。そういえば学生の頃、赤提灯だと思って向かったら、道路工事してた、ということが何度かあった。 チェックすると、やはり暖簾がある方が画になるのは当然のことである。一日も早い再開が待たれる。

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台湾よりラボをやっている方とスタッフ2人ということで、できるだけ見てもらおうと、作品を持っていく。私が大正時代の文献をたよりに実験を繰り返していたとき、何よりブラシによるインキングの動作を、活字からイメージするのが困難であった。田村さんが私のインキング映像をアップしてくれたものを観てくれ、興味を持ったという。ブロムオイルに比べると、石塚式は、ゼラチン層を厚くした分像を出すのが容易で、ゼラチン層が厚い分、柔らかいブラシでソフトに扱う必要がある。 台湾には、いわゆるピグメント(絵具)法によるによるプリント自体がなく、若い人は関心を持つだろうとのことであった。2000年に技法をHPに公開して以来(リニユーアル準備中)質問のメール一つ来なかった日本でなくて良いから、試みる人が増えて欲しいところである。楽しかったといってくれ、有意義な一日であった。

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再開  


自殺の名所になってしまった地元の駅で、幼稚園からの付き合いのYと会う。5年ぶりぐらいであろう。これから、ジムに行くというのでちょっとお茶でも。彼はゲイであるが、昔いいたいことがある。と一日かけて私に告白したが、私に飛びかかってくる、というならともかく、そんなことどうでもよい。 ボディビルを始めた頃、サプリメントに詳しくなり、盛んに自説を唱えていたが、小学校の金魚がビタミン不足で病気になった時、水槽にレモンを絞ってたな。と思いだしていた。中学の飼育部が予算を取りすぎ、と生徒会で問題になった。好きな熱帯魚の買いすぎであった。そこで文化祭で、オス同士だと死ぬまで戦うと聞いていた闘魚ことベタとアストロの金魚丸のみショーを企画。残酷趣味に教室は満杯。しかし両方仲良く泳ぐばかり。部長を一人残し、我々は教室から逃走。 武道館でT・REXを観た鴇、C席にミッキー・フィンがなげたタンバリンが目の前でカーブしていった話など近況を交えながら。おおよそは、小学校時代の我々がいかに馬鹿だったか、という話であった。20数年前、4時から河本で2人でズラリと炭酸の空き瓶を並べたが、思えば最強の時代であった。彼は美容院をやっているが、そろそろ引退するそうである。インターン時代、実験台になり迷惑したものである。

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搬入  


『日影丈吉と雑誌宝石の作家たち』 日影丈吉を作ることになるとは思わなかったが、ようやく搬入である。昨日の初台に続き、町田も初めてである。出品は計3体。新作の日影以外は乱歩、横溝と、昨年世田谷文学館に展示した作品であるが。 会場は完成まで当分かかりそうな状態であった。日影のインタビューだかの録音が残っているそうである。「早くいってよ」といいたい。平面の写真から立体を作る場合、本人の肉声が聴けるにこしたことはない。八百屋がスイカを叩くのと同じようなものである。木場の魚屋の倅である。下町訛りが出ているのではないか。エッセイの中にも東京弁が出てきた気がする。今展のメインビジュアルは澁澤龍彦編『暗黒のメルヘン』のカバーに使われた村上芳正である。ポスターをもらう。 帰宅後、撮影している河本のデータのチェック。先日、飲酒の果てに、良い歳をした連中がヒートアップしてしまった。勿論河本でやったら即出禁であるから、二次会である。Hさんにいわせるとみんな十歳なのよ。という。確かに見た目は四十過ぎから来年定年だったり、と実に情けないが、十歳といわれれば、あんなものであろう。そこでふと思ったのは、連中を十歳にしてしまっているのは、実は皆で心配し、いたわっているつもりの80歳の女将さんなのではないだろうか。写った女将さんの周囲の屈託のない、無防備な顔を見ていてそう思った。連休明けなど、夏休みが終わり、早く先生や同級生の顔が見たい小学生の如しである。また別な撮影方がありそうである。

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一日  


麻布十番で田村写真の田村さんと合流し初台へ『小林美佐子新作展ー陰獣』。ここのところ雑事で展覧会、個展に出掛けることがなかったが、小林さんは、私のオイルプリントの個展に来てくれ、さらにワークショップに参加して、個展タイトルが江戸川乱歩の『陰獣』となれば行かないわけには行かない。会場の『Zaroff』は一階が喫茶店でマニアックな雰囲気。 作品は複合技法によるヌード作品で、オイルプリントはというと、ワークショップ一日での第一作と二作ではないか。しかも初日に一点売れている。文献をたよりに開始から初披露まで何年もかかった私としては唖然とするばかりであるが、小林さんがすでに複数の技法を経験していること。“石塚式”にゼラチンを厚くした田村写真謹製ゼラチン紙が貢献しているのはいうまでもない。それにしても、私がやってきた物が人に伝わり、しかも売れている、というのは思った以上に格別なものがあった。次回のワークショップには台湾から複数人参加するらしい。台湾にはオイルプリントをする人はいないそうなので、伝わっていけばいい。

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一日  


モニターが反応せず、カードが読み込めなかったカメラの修理が終わる。原因聞いても誰も答えられず。子供の頃から壊れやすいイメージがあった。 子供の頃、ヘリコプターからチラシをまいていたが、なんで皆で拾い集めたのか良く解らない。子供が事故にあったとかで、あの宣伝方法は禁止になったとか聞いた気がする。そろそろ夜の河本の外観を撮りたいのだが、通りの向かいの街灯が、斜めに野暮臭い光を放っており、それをどうにかしないと、記憶の中の夜の河本にはならない。乱歩の『目羅博士の不思議な犯罪』で使った手を使おうと考えている。そろそろ常連に進み具合を報告したいところである。帰宅後日影丈吉の頭部を、身体に接着する。あとは搬入を待つばかりである。

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デジタルの風景写真を見ていて、なんだか化学調味料過多の料理のような、気持ち悪さを感じる。修正し過ぎもあろうが、その写りにも原因があるのだろう。 その点私の場合、主に195、60年代の、真面目に良いレンズを開発しようとしながら目標に届かず的なレンズ、もしくは初めから目標などないようなレンズを使っているせいで、デジタル臭さ云々にまで至ることはない。そもそもは作者の泉鏡花がベトベトしていて生臭いと書いた河童を撮るために入手したレンズであったが、この河童、普段は90センチで小さくなる分には、いくらでもサイズを変えられる。実際の人形のサイズを利用して、草むらや海岸で撮影したが、物語を描くには合成を多用することになり、レンズの癖のあるボケがさまたげとなり、ほとんど使わすじまいであった。その妖怪用レンズを河本の撮影に使用している。もっとも、見た目80なのに来年二十歳だとか、300年生きるといいはる被写体にはちょうど良いようである。

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来年の個展の関連イベントとしての朗読会は、第一部は江戸川乱歩作品。嶋津健一さんのピアノに田中完さんの朗読。評判も良かったので、一度だけというのは惜しいと思っていた。来年5月ようやく。一方の第2部。昨日電車内で思い付いた方から快諾いただいた。 女流義太夫の太夫、竹本越孝さんである。私がこだわっていたのは河童から若い娘、中年夫婦など演じ分けられる人である。個人的には宝塚、弁士、噺家、少女漫画まで、中年男にすべて違和感があり、歌舞伎を見るまでもなく、お願いするなら男性という頭でいた。 泉鏡花の怪異譚。後ろで鳴るのは和楽器。琵琶か三味線だろう。三味線なら河童がでてくるし?太棹が良い。となると拙著『乱歩 夜の夢こそまこと』の『人間椅子』で作家の佳子を演じていただいた鶴澤寛也さんだ、というわけで、すでにお願いしていた。多少引っ掛かっていたとするならば、現代人の朗読に義太夫三味線が上手くブレンドするか、ということであった。ところが昨日地下鉄の車中突然ひらめいた。森の石松、三十石船「お客人。肝腎なのを忘れていたよ」の心境である。あちらはオチがあったが。寛也師匠が頭にありながらうかつであった。男を演じて大迫力の越孝さんである。ずっと以前から越孝ファンであるTさんに報告すると「越孝さんの男は最高ですね。業の彫りが深くて。」と、いうことが違う。 この閃きは、作中の河童の三郎に対する灯ともしの翁を柳田国男にやってもらおう、と思い付いて以来である。あの時は思い付いた瞬間立ち上がり、そのまま河本に直行した。今回は電車を降りてから直行した。 ちなみに3日からの神奈川近代文学館の柳田国男生誕140年展の書籍コーナーには『貝の穴に河童の居る事』(風涛社)が置かれる予定である。河童の三郎と柳田の共演や、バイ菌恐怖症で蠅を恐れた鏡花のためにサービスで三郎に蠅をとまらせてあるところなど見ていただければ幸いである。

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久しぶりに麻布十番の田村写真へ。湿版写真を見せてもらったが、完成度がさらに上がっており、当時の写真師とまったく遜色がないように思える。田村さんとは付き合いも随分長いが、相変わらず感心するのは物の見え方である。 先の話になるが、来年の深川江戸資料館レクホールの個展は、会場が広いので、並べられる作品をできるだけ、とは思っていたが、画廊と違って多目的に使われるスペースなので、展示の仕方によるとダサくなる可能性が高い。しかし一つだけ、広さとさらに天井が高いのを利用し、作者である私も見たことがない展示にする方法がある。人形を人間大に拡大したプリントである。これはサンディエゴの写真美術館の館長にそうしろ、といわれたことがあったが、その時はそうおっしゃられても、と苦笑するしかなかったが、この展示が決まった時に田村さんにもいわれた。 私は常に人間を撮るつもりで撮影している。(人間に見えるようにとは違う。私にとって必要なリアル感さえあれば粘土丸出しで良い。)そう思うと、人間大になった時、それでないと出てこないイメージが在りそうである。作家シリーズを始めた頃、江戸川乱歩が気球にぶら下がっているプリントを田村写真で始めて見た時『私はこういう事しようとしてたのか。』と思ったのを鮮明に覚えているが、あれを私自身がもう一度味わうとしたら、人間大プリントではないたろうか。 資料館にはホールがある。そこで以前世田谷文学館でやった乱歩作品のスライドを流しながらピアノ演奏と朗読の再演と『貝の穴に河童の居る事』を予定している。しかし河童の朗読を当初予定していた今拓哉さんがスケジュールが合わず。ずっと考えていたが、田村写真からの帰りの電車内で突然思いついた。スケジュールは空いている。果たして快諾が得られるだろうか。 河本にて日影丈吉の立像を披露。頭部はよくポケットに入れて持っていくが全身像は久しぶりであった。

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