明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨晩から制作を続け朝。今日はKさんがファンであるT屋のかみさんに、誕生日のケーキを届ける日である。大統領にもゴーストライターがいる。このケーキに何を書くか、Kさんは毎年迷っているので私が考えるのだが、昨年の『結婚してください』に続き今年は『一緒に逃げて』を提案した。旦那と一番下の娘の○ちゃんに、その部分を食われて何が面白いかである。しかし、字数が多くて断られた昨年に続き、今年も躊躇して頼むことができず、手書きの紙切れをケーキに乗せるにとどまった。 徹夜明けの所にKさんより何度も誘いの電話。私はその部分を齧られないなら、まったく面白くないので行かない、と拒否。かみさんにも、これはケーキに書かれていないと、といわれたという。 夕方Yさんからの電話でT千穂に。隣のKさんは例によって引き続き酔っている。今日は藤あや子似だとKさんがいっていた女性と9時に待ち合わせているという。確かに大変素敵な女性であったが、藤あや子に似ているかといえば、共通点は目と鼻の数くらいであろう。 そこへ昨日に続きK本の常連。Kさん嬉しくなってしまい、藤あや子との約束を後悔している。さらに中国人の団体。若い女性も大勢。完全に舞い上がるK。止めは女将さんが、9時に私の彼女が来るとアドリブでホラを吹き、さらに身をよじる。『あんたとは一切関係ないだろ!』しかしついにあきらめ、店中の女性にまるでスターのように愛想を振りまきながら藤あや子の所へ。 帰宅後、仕上げ作業をし、ひとごこち付いた頃、Kさんの携帯より藤あや子からKにいると電話がくる。行ってみるとKさんあい変わらずである。 店の人から先日Kさんが、○○客を○○○○、その女性に「テメェ○○○○!」といわれて○○○○た話を聞く。○の数に特に意味はないといっておくが、こういうことを書けば、間違ったKさん人気も収束のはずだが、Kさんはどうでも良いが、こんなヘンなオジサンと毎日のように会ってるの?と今度は私の常識が疑われてしまうことになる。

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T千穂で飲んでいるとK本の常連が流れてくる。そこでどうしてもKさんをいじることになってしまい、カワウソに角砂糖の如しで喜んでしまっている。この光景を目にするたび、このKさんの間違った人気を収束させるのは私しかいない、と責任を感じるのであるが、かといって、実態をあからさまにはどうしても書けない。 一人の奥さんはKさんと同郷ということで、Kさんの隣に坐ってしまう。二日酔いであまり飲んでいないから良いようなものの、酔っていたら絶対止めるところである。Kさんは敬語を使うところを聞いたことがないのでハラハラするが、気さくな奥さんで、お互い子供の頃裸足だったと盛り上がっている。Kさんは熱いものやベトベトしたものでないと、なんでも手でつまむ癖がある。奥さんに進められたものをまた手で食べている。しょうがないな、と思うとキュウリのおしんこに楊枝を二本だした。さすがに奥さんに気を使ったな、と思ったら、キュウリを手でつまんで楊枝を刺した。そしてキュウリを持って齧っている。なんの役目も与えられずただキュウリに刺さってプラプラする楊枝。またそのキュウリもネズミのようにチビチビと齧るのである。 Kさんは奥さん連中が参加するK本の集まりに加わりたくてしょうがないが、私が阻止している。確かに愛嬌のあるKさんだが、カワウソの皮をかぶったタスマニアンデビルといってよく、女性の乳房に対する異様な執念には、誰しもが後ずさることであろう。K本の常連と違って、T千穂の常連のM子さんは、私がブログではオブラートに包んでいるから、とよくご存知である。 本日もこんなに品のないジジイだ、とネガティブキャンペーンのつもりなのだが、大手ゼネコンのMさんあたりが、オシンコと楊枝を前に、「Kさんこれ食べてみて?」などとやりそうである。絶対止めるように。そんなんじゃないんだから。

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出版のため取り掛かっている作品は、人の形をしている、いないを含め異界の物が数種登場する。そのうち主役、準主役その補佐役で3人。準主役のお姫様は頭部が完成した。連休中に、いよいよ主役の頭部の制作に入ろうと考えている。これが見た目からして人に非ずというわけである。 今まで常に著者を作中に登場させてきたが、今回は未定である。そのかわり当初から考えていたのが著者とは別の、某作家を登場させることである。これは誰かは完成まで内緒にしておくつもりだが、見てもらえれば、著者を登場させていないのに(ヒッチコックのように、通行人ぐらいで登場させる可能性はある)その作家を私が登場させる理由がわかっていただけるであろう。そしてその頭部はすでに出来ている。その他の異界の物は、粘土で制作するか、あるいは写真の合成で制作するか、それはもう少し進行した時点で、どちらが効果的かにより決めることにする。 そして異界の物共に対し、人間である他の登場人物は、友人知人にやってもらうのだが、主だった配役は決まったが、通行人などの端役もいずれ考えなくてはならない。 そうこうして、私は登場させるつもりはまったくないのに、自分が登場する、と近所の某店で、女の子達に言触らしている人物がいることが発覚した。「マアすごい」とかなんとかいわれてやに下がっていたらしい。作中に額にへの字の傷がある人物が出てきたら、何か意味があるように見えるではないか。へを消すのもうっとおしい。まったく、62歳になる夜に何をやっている、という話である。

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昨日のブログに、かつてのプロレスラーを列挙したが、幼稚園児の頃からTVの前で、目を皿にしてあらゆる人種の裸体を見つめてきた。毎週展開される日常ではあまり目にすることのない姿態。これによって骨格から筋肉の構造が凡そ頭に入った。 私の場合、勉強しようと表層の脳を駆使して企んだことはだいたい徒労に終り、プロレスを観て、筋肉を研究しよう、などと、ただの一度も考えたことのないものに限り頭に入ってくる。 私の方向音痴や、数字に弱い部分は、この無意識の間に収集するデータを収納するために、ハードディスクのスペースを空けているのだと解釈している。そうとでも思わないと納得ができない。 子供の頃から馴染んだレスラー名鑑に匹敵する物に出合ったのが、高校時代のブルースブームの時、黒人ブルースミュージシャン名鑑である。明らかにジャズマンと違う佇まい。中には人前に晒して良いのか?という御面相も混じり、“ハウンド・ドッグ”や“ライトニン”など、レスラーのリングネームのような芸名。“ペッグレッグ”なんていうのまでいる。そして数年後、初個展が『ブルースする人形展』(82’)ということになった。 人間の諸々相ほど興味深いものはない。

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先日、仕上げを残し完成していたお姫様の頭部だが、主役との対応を考えると、まだ甘いと判断した。俗物の主役に対し、あくまで見下ろした立場の姫が、あまりにも庶民的に過ぎると思えたのである。改良を続けていた。しかし顔が6センチ程度の頭部である。ほんのちょっとの、ヘラの動きや気分で奈落へ落ちたり、ピンチを脱したりするわけで、その大きさの物を数日間、或いは一月以上制作する間は、気が気ではなく、頭部さえ出来れば楽しいことが待っているのだ、とひたすら耐えるわけである。  ところでこちらのブログで、プロレスラー100人を選出する、という企画がなされていて、あと12人は?ということで私も考えてみた。 『ビッグダディ・リプスコンプ、カウボーイ・ビル・ワット、ホイッパー・ビリー・ワトソン、パット・オコーナー、キラー・バディ・オースチン、スカル・マーフィー、ゴリラ・モンスーン、キラー・カール・コックス、ドン・イーグル、キラー・カン』。 キラーと名乗るレスラーを3人も選んでしまったが、一人は実際リング上で2人殺している。 亡くなった父が最後まで大のプロレスファンで、唯一の共通の話題なので、入院中スポーツ新聞を持って見舞いにいったことは何度か書いた。子供の頃の映画で、病気の子供の所へジャイアンツの選手が見舞いにきて、約束どおりホームランを打つ、というような映画があったが、ここにアントニオ猪木が見舞いに来たら父はどうなるだろう、と想像したくらいで、当時の雑記にそう書いた覚えがある。 保守的な父は保守的なジャイアント馬場を嫌っていた。一方私はというと、父とは逆に、手前勝手な猪木が嫌いであったが、父はそれを知らずに亡くなった。  話は戻る。キラーだゴリラだスカルだカウボーイだ、と懐かしいレスラーを想い出しながら選んでみたが、これがなんとも愉快で楽しかった。そして選び終えて40分程であろうか、お姫様の頭部が完成していたのである。 ことほど左様に、ちょっとした気分でも制作に影響する、ということなのである。

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私が子供の頃、『慌てる乞食はもらいが少ない』といった。子供でもこれなら意味が判った。というわけで主人公の制作に未だ入らず。『乱歩 夜の夢こそまこと』(絶版)の時は一作につき数ページであり引用文も短く、オムニバスの絵本という感じであった。それぞれ作品ごとに個別に考えて制作したが、今回は短編とはいえ、まるごと一作である。よって全体を考えて制作しなくてはならない。人に非ずの主人公と、準主役というべき姫(こちらも形こそ人だが、人間ではない)との聖と俗の対比が話の展開上重要であろう。

Kさんがファンの、T屋のかみさんの誕生日が近づいている。一昨年○○命と書いたケーキをプレゼントし、その部分を旦那と中学生の娘に食べられた。昨年の丁度今頃、三島由紀夫へのオマージュ展のために、F-104戦闘機を撮影に行った浜松に、暇なKさんも同行。前日に飲んでいて、KのRさんにハグされ有頂天になってしまった。翌朝の出発から一日中酔っ払ったままRさんの話を延々と聞かされ続けた。「結婚はしないよ」。飲み屋で冗談で一回ハグされ、なんでそうなる? 宿泊先の舘山寺温泉では、布団に入ってから、今年はケーキに何と書くか悩んでいるので『結婚してください』がいいよ。と提案した。私としては、旦那と娘にその部分を食われて何が面白いかである。ケーキ屋の店頭で勇気を出して私の案を注文したが、字数が多すぎ断わられた。 そして今年もすでに悩み始めている。字画、文字数の制限はどうなのであろう。食われるには『一緒に逃げて』など面白いが、ケーキ屋の店頭で恥ずかしいなら、Kさんが切々と歌う曲にちなんで『矢切の渡し』。これでは面白くない。娘の○ちゃんが、Kサン馬鹿じゃないの?と笑顔で齧るイメージ。

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先日ツイッターで、今年某作家生誕○○○周年ということを知った。只今出版に向けて制作を開始したのは、この作家の著作のビジュアル化である。つまり私が出版の話をした相手で、なるほど今年は丁度良いな。と思った人がいたかもしれないが、それはまったくの偶然である。以降当然知っていて決めたことにする。 先日携帯の液晶を壊して修理を依頼し、書類に日付を書くとき今年が何年か訊いてしまったが、直したと思ったらまた修理ということになり、また訊いてしまった。日にちを訊くのはどうということはないが、年を訊くのは少々恥ずかしい。平成を十年も間違えた場合は、ちょっとウッカリして、という小芝居は必ず必用であろう。 30代の頃からすでに自分の齢が出てこないことは良くあった。年号が身に沁みるには365日は私には短すぎる。母の誕生日も8月ということしか覚えられないし、父の命日に至っては4月か5月のどちらかであろう。日にちなど連続した時間のただ一点であって、それが3だから5だからといって、それほどの意味があるとは私には思えないのである。 数字というものはすでにあるから利用しているが、自分の為だけだったら本当に必要なのか、と思わなくもない。時間などは数字で区切らず、谷啓的にいって、ただ“ビロ~ン”としたもの、というわけにはいかないものであろうか。こんなことをいっていては社会では生きていけない。ここだけの話である。 しかしKさんの日々の行動を見ていると、自分の年齢は自覚すべきだ、と思わされる。小学生が退職金と年金でフラフラというのはヘンである。

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K本からのKさんのメールをスルーして専門学校時代の友人Hと門前仲町のOに行く。Kさんとはどうせまた会うだろう。Oは満席で入れず。閉店時間になると酔っ払ってビリー・ホリデイを大音量で流していた親父さんは亡くなったらしい。ビリー・ホリデイが一番好きだ、と赤い顔してウットリしていたが、場所柄からして『奇妙な果実』は客の追い出し効可抜群であったろう。 煮込みのOへ行く。こちらに越してきて二十数年になる。ここは先代がくわえ煙草の灰を落とさないとか、京塚昌子が何本食べた、とか有名であったが、たまたまきっかけがなく本日初めて。 煮込みは甘めの濃い味噌味で、ほとんど生の宝焼酎に申し訳程度の梅エキスに大変合う。瓶ビールに焼酎4杯。狭い店だが、奥に二畳あるか、という座敷があり、K本その他でよく顔を見るIさん。状態が牢名主の如しで、そうとうな常連なのであろう。女将さんに私の話をしている。大袈裟に伝わったのか、色紙を渡される。いやはや、そんな大そうな者じゃ御座いませんと辞退。こいつは誰だ?意味不明な色紙を飾られても。 次にT千穂へ。KさんはHと何度か飲んでいるが、KさんにはHが妙にハンサムに見えるらしく、やたらというので少々気持ちが悪い。そして3人で再び門前仲町に戻りカラオケスナック。先日のカラオケ大会ではK本の常連の女性Hさんに、年取ってはまるとこうなる、といわれてしまったが、私の場合は選曲の意外性だけが勝負である。傾向としてゴーだのレッツゴーだのエレキがどうした、というのが多い。 望月浩がビートルズの武道館公演の前座で歌った『君にしびれて』。前座といえばドリフや尾藤イサオばかりで、忘れられているのが残念だが、懐かしい、とさえいわれないところに快感がないとはいえない。なんなら同じ望月の『高速エスパー』も歌うぜ。いしだあゆみといえば『ブルーライト・ヨコハマ』より間違いなく名曲なのは『太陽は燃えている』であろう。というわけでまた一日。

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カラオケが苦手だった大きな原因は、私が人見知りで恥ずかしがり、ということもある。人数が多くなると口数が減る。 高一の時に、地元の高校生が合同で某区公会堂でコンサートをやることになった。そこはそのまた昔、先日亡くなった安岡力也がシャープホークスで『勝ち抜きエレキ合戦』のテーマ“燃えろ燃えろエレキ、若さでぶつかれエレキ♪”と歌った同じステージであった。自分が酒に強いことを知らなかったので、出掛けに日本酒をコップ一杯飲み干して出かけたが、何事も起こらず慌てた。結局照明がまぶしくて、客席が見えずに無事に終る。あとで録音を聴いたらずうずうしくも念入りにチューニングに時間をかけていた。 初出版の折に、渋谷のライブハウスで出版記念ライブをやったが、様々な方に御出演いただいたのに、肝腎の私は挨拶をするでもなく、結局一言も発せず、お辞儀をしただけに終った。 昨年、一水会の鈴木邦男さんに個展に来ていただいて、雑誌で対談し、ひょんなことからロフトのトークライブの端っこに参加することになった。カラオケで人前で歌って慣れたので、と思ったが、モニターを皆で見つめるカラオケと違って、みんなこちらを向いているのが誤算であった。しかし一緒に登壇したのがオウムの村井秀夫を刺殺した徐裕行氏で、観客は私の話より氏の話を聴きたいに決まっている。責任の軽さからこれも何とか無事に終った。 想えば授業参観に来なかった父は、来たと思ったら、お父さんの御意見を、ということになり、父の番になる前に教室から消えていたから、こんなところは父からの遺伝かもしれない。 

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私はどういうわけか嫌いだったり苦手だったことに限り、やることになる。それは何度か書いている。子供の頃から嫌いだったのが、何かを見て描いたり作ったりすることなのに資料を集めては実在の人物を作っている。かつては写真に興味がなく、カメラ嫌いの機械音痴であったし、デジタルなどもってのほかであった。アナログ時代に取材を受けた編集者には未だにからかわれる。 マゾヒストの男が上司に叱られることを無上の喜びにし、営業もできるだけ乗り物を使わず苦しんだり、その趣味のおかげで相撲部屋に入門する人もいるらしいので、私が未だに嫌いなままで続けているとしたら相当なものだが、一応好きなものに転じていると本人は思い込んでいる。 写真やパソコンを始めた時、古くからの友人は一様に耳を疑っていたが、ここまで人は変わるか、ということではカラオケである。そしてさらには演歌である。以前は下手糞な歌を聴くのも聴かせるのも、何が良いのだ、と思っていたが、上手い下手はともかく、気持ち良さそうに嬉しそうにしている人と過ごすのは、楽しいものだ、と教えてくれたのは慢性的酔っ払いのKさんである。私の場合、小学校の6年あたりから中学生の頃、土曜の3時にやっていた大橋巨泉、星加ルミ子、木崎義二が司会の『ビート・ポップス』により洋楽に目覚め、以後歌謡曲に興味を失ったので、メロディーを覚えているのは60年代の歌に限られてしまうのだが。その私が自分で信じられないのが演歌である。初めて歌ったのは『サムライ日本』だったが、三島由紀夫が市ヶ谷に向うコロナの車中、楯の会の会員と最後に歌った『唐獅子牡丹』を軽い気持ちで歌ったところ、“唐獅子ぼ~た~ん~”と発声した時の満足感に驚いてしまった。そしてここでは明かさないが、ある女性演歌歌手にはまり、毎日ユーチューブで見ている始末である。DVDやCDを買う日も近いであろう。昔、突然キャンディーズにはまり、日ごろアイドル好きの連中を罵倒していた私は、おかげでコソコソと隣町までレコードを買いに行くはめになったのを想い出す。 

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ここ十数年、実在の人物を作ってきた。最低限似ていないとならないので資料を集めるが、実は子供の時から、何かを見て創作することが大の苦手であった。想像で描いたり作ることばかりが好きで、写生が大嫌い。石膏デッサンにいたっては、専門学校の授業で少々齧った程度である。芸術学部がある大学系列の高校に通った私は、美術部にも属しておらず、放っておいてもそこへ行くつもりが、デッサンの試験があるのを知ったのは三年の進路相談の時であった。複製された学習用の石膏像ほど、長時間眺めるのに適さない物はない。クラスのもう一人志望していた男は一年の時から習っていたという。「何で俺に教えないんだよ」。「まさか知らないとは思わなかったし」。それはそうである。彼はいつか、テレビチャンピオンだったか、粘土細工を競う番組で、美術系の予備校の講師として、審査員で一度顔を観た。 そんなわけで初個展から黒人の人形を制作したが、その間は架空の人物ばかりであり、実在の人物は数える程度であった。ジャズシリーズ最後の個展に、写真も展示することにしたので、初めて実在の人物を中心に制作し、ファンのような気持ちで撮影することにした。そして翌年から作家シリーズに転向したわけだが、私はどういうわけか、苦手だったり嫌っていることに限ってやることになる。  好きな作家は凡そ作った。ここまできたら、満足するまで作り足していこうと思っているが、そろそろ実在の人物にこだわらない制作にシフトしていこうと考えている。その手始めといえるのが、今度出版される予定の作品である。主役、準主役とも架空のキャラクターで、脇役に実在した有名人は使うが、著者にいたっては登場しない可能性すらある。 早く作りたいのに自分を焦らしてまだ開始していない主役は人間ですらないが、これは一切の資料を参考にすることなく完成に至るであろう。架空のキャラクターの場合は、私が頭に描いたイメージにさえ忠実であれば良いわけで、資料から開放された制作は、私にどれだけ創作の快楽をもたらすのであろうか。そしてそれが判っていながら、まだ制作に取り掛からないマゾヒスティックな私である。

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こんどの作品はK本の常連客など友人知人に出演してもらうのだが、著作権が切れている作品なので、ネット上の青空文庫でも読める。密かに各自予習をしていただいているようである。しかし古い作品ゆえ、この場面がどういう状況なのか、頭に描けないこともあるだろう。そのあたりは、おいおい説明していくつもりだが、何しろ顔の造作だけで選んだ一般人である。演技力にははなから期待していない。関節の可動するマネキン人形に徹してもらい、ポーズを一つ一つ作り撮影しようと考えている。カメラを向けたとたん、表情に緊張が走り、瞬きをがまんして、といったとたん瞬きを始めるのが一般人である。今回はロケ場所の都合上、現場に集ってもらっての撮影は不可能なので、事前に撮影した背景に合成することになる。場合によっては、各人別々に撮影する可能性もあるだろう。そのことを考えても、かえって画として、素人のわざとらしさを生かそうと考えている。  私の場合、できることなら眉間にレンズを当てる念写が理想なのだが、それができないので、仕方なく自分の外側にレンズを向けている。『どんな鳥でも、想像力より高く飛ぶことはできないだろう by寺山修司』仰るとおりである。翼を下さい?誰がそんなものいるか、という話である。
本日は結局半日図書館。作品が発表されたのは戦中だが、雰囲気から大正時代に設定した。当時の風俗、習慣を調べているが、現在古い建物が残っていても、確実にないのは電柱である。これは必ず作ろう。 というわけで、今日もまた主役の制作に入らなかった。明日辺りは作りたくて、かなりイライラしてくるはずである。このイライラ感は何かに似ている気がするか、せっかくKさんが登場しないのに品がなくなるのでいわないでおく。

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お姫様の頭部を仕上げを残し次の制作に入る。いよいよ待望の“人に非ず”な物にとりかかる。私は子供の工作じゃないのだから、作りたいからといって、発表の予定のない物は作らないよう、強く戒めている。かつて思いついては悪戯描きのように、習作ともいえないような物を作って喜んでいた時期が長かった反省からである。(そんな時期もあって良かった、と思いたくはあるが)。 よってそういった物は、個展をするくらいのテーマにまで高めるか、制作依頼でもなければ我慢するほかはない。『中央公論Adagio』の表紙を担当していたときは、これに乗じて、ついでに作れないか、と2、3提案してみたが、惜しいところでかなわなかった。ところが某出版社より何か企画を出せ、というので主人公が人間でないものを提案してみたら通ってしまった。 当初、先方が提案してきたのが海外物で、一冊まるごと仕上げるには、それこそ海外に行って背景ぐらいは撮影しないとならない。そんな予算がでるというならともかく。そこで私から提案してみたのだが、通った時は呆気なかったので、それはそれで“そちらがあんなこというから、それだったらこれで、といってみたけれど”、と若干慌てたが、待望の人に非ずな物を制作するチャンスがようやく訪れた訳である。 ただその出版社は、某書籍が大ヒット中で、その対処に追われていて、本日もようやくメールが着たと思ったら『着々と作業が進んでいますね』。などと他人事のような有様で、これからどんなスケジュールで進めていくのか、細かい打ち合わせができていないので、何をどうしようとしているのか、まだいえないのである。制作について書けなければ、近所の酔っ払いのオジサンの登場が増えるだけである。そんなことではいけない。かまわず制作に取りかかる。  しかし例によって作りたくてしょうがないのに、わざわざ間を空けて、腹を減らしてからかぶり付こうというわけで、明日あたりは図書館で読書かもしれない。物心ついて以来の私の凶暴なる制作欲との付き合いも長いので、悪役レスラーのマネージャーのように、扱い方は心得ているのである。

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制作  


まだ詳しいことは書けないのだが、制作中のお姫様は、一時迷走はしたが、頭の中にはっきりとしたイメージがあったので、予定通りの出来となった。これにいずれ人毛を植えるというか貼り付けるつもりだが、問題は衣装である。何種類かのポーズをさせたいので、粘土より布で作った方が良さそうだが、私は小学校の家庭科では5段階の2という有様で、これがまったく苦手なのである。私が手先が器用だと思ったら大間違いである。これは誰かにお願いするしかないだろう。  それにしてもこの著者、着物はこんな柄で帯はこう、などといちいち描写してくれるので実に厄介である。もちろんすべてがこの調子である。また私が普段、あらゆることがいい加減なわりに、こういったディテールがいちいち気になり、こんなことまでやる馬鹿は他にいないだろう、と一人ニタニタする、というヘキがある。魚がいないところに釣り糸を垂れ、ニタニタしているのに似ているんじゃないか、と薄々気がついてはいるのだが、ヘキというものはそうしたものであろう。 作中、ある物が出てくる。その描写からしてこういったものだろう、と推理し、とりあえず検索するが、類似の物は見つけたが、違う。絶滅している可能性が高い。今後図書館でできるだけ探すつもりではいるが、一方では自分の想像で作ってみたくもあり、見つからないで欲しい、という気もするのである。

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ここのところ制作を続けていて昨晩も徹夜で、柄にもないお姫様の頭部。仕上げを残して完成。風呂で寝てしまい、午後2時よりのカラオケに少々遅刻。K本の常連と奥さん連が集まり、近所のビジネスホテルのカラオケルームで、飲食持込でカラオケである。毎年恒例の花見だが、あいにくの天気でかえって良かった。ほかに予約も入っていないということで、終了時間はとくにきめず。  前回の花見の時、私は二次会のカラオケはこっそり離脱してしまったが、今の私は違う。まずは橋幸夫から。 それにしても芸達者が揃っている。毎回欠かせないSさんの通る声による都都逸。さすが勤め人。場数を感じさせるTさんの意外な甘い歌声。Hさん母娘は表現力で聴かせる。エッセイストの森下賢一さんはさすがの選曲『カスバの女』。今拓哉さんの歌は帝劇の『レ・ミゼラブル』以来だが、『明日のジョー』は場違いなレベルであった。私はというと、選曲の意外性だけが勝負なのだが、一番歌いたかった望月浩がないし、クレイジー・キャッツは4曲しか入っていなかった。 二次会はT千穂。カウンターにはKさん。Kさんはカラオケのメンバーに入っていない。K本歴自体は長いのだが、K本の焼酎の量に、転んで二度救急車に乗っている。はしご酒のKさんにとっては、K本だけで終ってしまうのである。また決定的なのは、常連に女性客が少ないことであろう。 今さんがそのKさんに自ら歩み寄り握手を求めている。なんということであろう。すべてこのブログが悪いのである。喜んでしまったKさん。いつの間にか合流。お開きの後は個人タクシーのMさんとKさんとで、門前仲町のカラオケスナックへ。 昨日会った高校からの友人は、私がカラオケをやると訊いて驚いていたが、彼は大手家電メーカーにいたサラリーマン時代、カラオケを拒否していた。「サラリーマンがそういうことじゃ駄目だろ」。宗旨替えしたとたん私も勝手なものである。

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