明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



格闘技など見ているうち買い物にでるのが遅くなり、近所のスーパーへ行くと閉まっている。今日はまだ開いているかもと木場のヨーカドーに行くと閉まっている。どうもこんなことは二回目のような気がする。しかたがなくできたばかりのコンビに入ると広い店内に客が誰もいない。物凄く寂しい人間のような空気が漂う。『いや違う。私はだいたい大晦日は一人で過ごしており。積極的にこうしているのだ』店員にテレパシーを送る。今年は母は妹とどこかへ旅行にいっている。
今年もあっという間の一年であった。出不精がさらに酷くなり、友人とも数えるほどしか会わずに終った。会う場合も地元に来てもらう。替わって頻繁に会っていたのが、近所の“有象無象”の類である。日ごろ一人で制作していると、創作のことに関して人と話し合う気になれない。制作から離れれば、できれば馬鹿々しくいきたいものである。特に今年S運輸を定年退職のKさんである。なんでこんなことになってしまったのか良く判らないのだが、“カナカナカナ”と聴こえる独特の笑い声が、なんとも人を和ませ楽しくなる。Kさん効果は絶大であり、帰宅後は新たな気分ですぐに制作を始めたくなる。
アダージョを続けているここ4年の間は、個展の類はできなかった。インターネットに縁がなく、都営地下鉄に乗らない人にとって私は引退状態なのではないか。しかしアダージョで鍛えたせいで、制作時間がいくらか短縮されている。来年辺りは何かやれないだろうか。やるとしたらまず○○○だが、展示させてもらえる場所があるだろうか。そんなことは数点完成させてから考えることしよう。

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制作の合間に傍らに置いたグヤトーンLG-80Tを弾く。見た目は玩具のようなギターだが、私の所有するギターの中では一番音が良い。ちゃんと調節して大事に使いたい。今は吸わないが、煙草を吸うくらいの頻度であろうか、VOXの電池式の小さくて手軽なアンプをギターに直接さして音はヘッドフォンで聴いている。ギターに関しては探究心が乏しく、ゆえに上達しない。煙草を一、二本吸い終わるくらいで、やることがなくなりまた制作に戻る。私の場合は集中しすぎて客観性が失われる傾向があるので、間を取ることが必用なのである。

配布中の徳川慶喜は水戸藩の出である。尊皇攘夷思想を全国に広めた中心人物は九代藩主の斉昭と学者の藤田東湖だが、安政の大獄で斉昭が井伊直弼と対立し処罰を受け、水戸藩内が分裂し、斉昭を支持する尊皇攘夷の改革派が過激集団『天狗党』となる。慶喜を担いで朝廷に尊皇攘夷を訴えるため、幕府軍や諸藩の追っ手と戦いながら京都の慶喜のもとへ向かう。最後は加賀で降伏することになるが、彼らを不穏分子として捕縛させたのが当時禁裏守護職にあった慶喜である。晩年、あれはどうせ助けられなかった、といっていたようである。そして天狗党は400人近くが斬首された。藤田東湖の子、藤田小四郎とともに天狗党三総裁の一人だったTも処刑さたが、中学生の時、納屋に捨ててあったボロボロのLG-80Tをもらった父方の親戚はTの直系の子孫だと聞いている。歴史といったって、そう昔のことではない。慶喜を作りながら、たまに奇妙な気分になった。

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背景は小石川後楽園である。後には現在東京ドームが大きく控えているが、慶喜が生まれた水戸藩の屋敷はこの場所にあった。二代藩主の光圀が完成させた庭がこの後楽園ということになる。 徳川慶喜は新し物好きで趣味も多く、写真、自転車、狩猟など好んだが、中でも有名なのが写真であろう。将軍しか撮影できない場所から庶民の生活まで、あらゆる物を被写体にしている。そこで慶喜の傍らにカメラを置くことにした。 慶喜の使ったカメラは数台現存している。当初同様の機種を調達して、と考えたが、事実にこだわって面白い場合と、そうでない場合がある。カメラは当時は当然高価な物で、一般人が容易に入手できるものではなかったが、将軍が使用した物と考えると案外地味である。三脚の上にレンズが付いた黒い箱を乗せても、いまひとつに思える。そこで将軍だったらこのくらいの物を、と慶喜愛用の写真機を捏造、でっち上げることにした。コンセプトは“伝統工芸の粋を集めすぎてしまった”カメラである。背景は緑が多いので、映えるように蛇腹も赤蛇腹にした。 けっして華美なものを好んだ人物ではないが、あくまでイメージであり、正確に事実を再現するのが私の役割ではない。またおそらく慶喜の置かれた立場からくるのであろう。弟の昭武が撮影したプライベートな写真を別にすれば、慶喜の肖像写真には独特の憂いのようなものがある。それをこの過剰なカメラの眩しさにより、陰翳を強調できれば、と考えたのである。

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桂文楽『明烏』('68)古今亭志ん朝『抜け雀』('72)金原亭馬生『親子酒』('78) 三遊亭圓生『掛取万歳』('73) たいした理由があるわけではないのに、妙に縁が無かった人物にジャズのソニー・ロリンズ、ロックのジェフ・ベック、落語の桂文楽がある。志ん生の対極にあるような芸だが、物凄く計算されていて、削りようがないような噺を堪能。志ん朝はまだ若かったが、実に華がある。私が一番好きだった馬生は昔禁酒した時に、ドラマや映画で酒場での飲酒場面がが出てきても平気なのに、馬生だけは駄目で、顔を見ただけでチャンネルを換えたものである。今回はお父っあんが酔うのが早かったが、あれをジワジワとアルコールが沁みていく様をやられたら、とても耐えられるものではない。圓生も好きな噺家であったが、亡くなった時、特集番組で過去の映像を観て、落語といえども、古ければ良いというものではないことを知った。この人たちでないと味わえない味をそれぞれが持っていることに感銘を受けたのであった。 仮に私が何秒で涙腺が緩むか、という競技に出場せねばならなくなった場合、小沢昭一が古今亭志ん生にインタビューした際の話しで、すでに現役を引退して隠居状態にもかかわらず、それまで読んでいたネタ本を慌ててコタツの下に隠した、というエピソードを思い出すことにしている。

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個性  


グヤトーンLG-80Tが届く。数十年ぶりの再会である。あの頃の私は今とは別の生き物であった。というくらい久しぶりである。 当時良い音だという印象があったが、あまりのしょぼさに、そんなはずがないと自分の耳を信用しなかった。しかし懐古の想いだけではなく、この音はずっと記憶に残っていた。ロリー・ギャラガーが、子供の頃手にしたグヤトーンがまた欲しくなり、来日時にグヤトーンまでいって探した気持ちは判る気がする。 YouTubeに、チャーがLG80Tを始めて手にした頃のことを話しているインタビュー映像があった。http://videoschistososdefutbol.com/tag/LG-80T昔はビデオもなく、音だけで弾き方を想像して練習したが、実際見たら弾き方が違っていたという話が面白い。今のように教則ビデオまである時代とは大違いなわけだが、その試行錯誤が自分の個性になった、という話は興味深い。私も全くの独学であり遠回りしたが、それにより個性ができた、と日ごろ考えていたからである。 黒人のプレイヤーにはビックリするほど変わった弾き方をする人がいる。日本だったら途中で余計なアドバイスをされてしまうだろう。あるミュージシャンは、誰かに嘘を教えられ、それを信じてしまった、などという噂があったが、それはともかく、そのままプロに到達してしまうというのが凄い。そう思うと私もかなり変わった作り方をしているはずであるが、ミュージシャンと違って“合奏”することもなく、よって人と“奏法”を比較する機会がないわけである。 先達の身につけたものを教わり、そこに自分の経験を足していけば、どんどん良くなっていく筈だが、決してそうはならない。博物館にでも行けば一目瞭然である。だって人間だもの。というところなのであろう。 そもそも自分で工夫し、試行錯誤し苦しむところに快楽や醍醐味があるのに、そこを教わっては何にもならない。と私は思うのだが。もっともどこかヘンなことは判るのだが、何がヘンなのか判らず、制作中の作品を前に固まっている夢を未だに見る。あのトンネルがあれほど長い事を知っていたら、どうしていただろうか。  インタビューではフェンダー・ムスタングを弾きながら「あっちのインチキギターの方が音が良いな」といっていた。

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風邪  


どうもKさんに風邪をうつされたようである。寒気がして熱が出るような風邪は、辛い物でも食べて汗を出せばすぐ治るが、喉から始まる風邪は熱が出ないかわり長引く。今の所喉がいがらっぽいだけだが、クシャミも出始めた。一通り通過しないとこの風邪は治らない。なんで年の瀬にあんなオジサンに風邪をうつされなければならないのか。いやな予感はしたのだが。 風邪気味で病院に行ったというKさんが、横でクシャミや咳をしながら、ナースの制服がいかに透けていたかを嬉しそうに話していた。おそらくあの時であろう。あんな話に耳を傾けた私が悪い。

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朝、数日ぶりにT屋へ。朝は主人のHさんが、二日酔いでたった今人を殺したような顔で降りてくるまで、かみさんの担当である。この間Kさんが、かみさんを呼んで鍋で一献ていうのに来ないから、フィリピンパブに連れて行かれて、Kさん一人やりたい放題だった話。一度Kさんのぬいぐるみ着てKさんを体験してみたいよ。などと笑っているとそこへKさん。「久しぶり」。 今日は旅に出る、とデジカメを持っている。定年を迎えたKさん、夜は飲んでいれば楽しそうだが、問題は昼間である。趣味もなくパチンコくらいしかすることがない。旅というからどこへ行くのかと思ったら鎌倉だという。「でも天気よくないからなあ」。 「じゃあどこまでも真っすぐ行ってみるのはどお?道が二つに分かれてたら棒が倒れたほうへ行ってさ。どこまでも行くと必ず牧場があるから。そこじゃたいてい未亡人が小さな息子と暮らしてるよ。薪割りでも手伝ってさ、2、3日経つと街の悪い奴が必ず因縁つけてくるから全部やっつけて。そろそろ帰るかなっていうと、Kさんになついた息子が、Kさん帰ってきてーっていうぜ。背負いたかったらギター貸すよ。エレキだけど」。 夕方Kさんからの電話に出てみると、背後でチンチンジャラジャラとやかましかった。

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『歌舞伎座を彩った名優たち-遠藤為春座談-犬丸治編』(雄山閣)を読む。九代目團十郎を作ったせいで、九代目を中心に、明治の芸談に一番興味がある。九代目はフィルムが1本残っているが、なんだか良くわからず、写真や残された芸談、劇評によって想像するしかない。写真には坪内逍遥がいうように、本当の凄さは写っていないというが、私が九代目に魅かれたのはその写真によってであり、同じく舞台上の映像が残されていないロシアの天才バレエダンサー、ニジンスキーと同様の魅かれ方であり、異様に長い顔の九代目のたたずまいは、間違いなく何かを放っている。 『團菊じじい』という言葉がある。九代目と五代目尾上菊五郎が最高であり、昔は良かった的な年寄りのことをいう。遠藤為春がまさにそうであり、二人亡き後、歌舞伎はまったく変わってしまったという。観たことがないお前等には解からないよ、と喉元まで出ているのだろうが、それをいってはお仕舞いである。聞き手の戸坂康二も九代目のことは観ていないわけで、遠藤からなんとか話を引き出そうとしている。当時の文献、雑誌でも劇評目撃談は随分読んだが、肝心な所は私には判らない。あの小さな身体が舞台からはみ出すように見えたといわれても、観客が集団催眠にかかっていたかのようで、ニジンスキー同様、究極に達した芸は、物理学を超えた夢を観客に見せるもののようである。しかしこのくらい訳の解からないことにこそ、私の創作の余地がありはしないか、と思うのである。“どうせ誰も観たことないんだから知ったこっちゃない”。このくらいの心持でないと他人で、まして偉大な人物など作れやしないが、この心持が制作終了とともに雲霧散消してしまうところが私の辛いところである。

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NHKの連続小説は未だに開始時刻8時15分というイメージが変えられず、気が付いたら終っている。父親役の遠藤憲一は悪役専門から、最近は良い味を出している。ただ一つ。ナレーションをやり過ぎである。 私は子供の頃シルエットクイズが得意で、TVを見ながら人物を当てたものである。これは今の仕事に多少かかわりのあることかもしれない。それと、これはまったく役に立つことはないが、一度頭に入ると電話の相手の最初の「モシモシ」で誰だか判ることである。常に待ち構えているわけではないし、電話にかぎって普段の声と変わってしまう人や、たいした付き合いじゃない人がかけて来た電話は別であるが、たいていはモシモシとともに名前より先に、即座に顔が浮かぶのである。先方はいきなり久しぶり、といわれたってきっと誰かと間違えているのだろうと思うだろうし、説明したところでだからどうした、ということで相手も感心のしようがないであろう。そこで遠藤憲一のナレーションである。頼む方もなんでこうも一人に殺到するのであろうか。業種限らず呆れるほどCMに使われている。それは良いから使われるのだし、あの囁くようなハスキーな声には何かあるのだろう。しかし私にとっては、ちょっとやそっと調子を変えようが一人の人物の顔が浮かんでしまうのである。申し訳ないが食傷気味である。これを書いている間にもすでに一回聴かされている。

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昨日ヤフーオークションにて『グヤトーンLG-80T』を18000円で落札。ギタリストのチャーが、兄のお下がりで初めて手にした機種として知られる。 私が初めて手に入れたのもこれであった。もっとも私の場合は中学生の時、父方の田舎の親戚の納屋に打ち捨てられていたのをもらってきたのであった。糸巻きのペグの部分は一つ無かったし、塗装は剥がれ、惨憺たる状態であったが音はちゃんと出た。ボディが薄くて軽く、ぶら下げるとヘッドが下がった。あまりみすぼらしいので黒いラッカーで塗りなおした。 当時一緒にギターをかき鳴らした幼稚園からの幼馴染に真っ先に知らせたいところだが、数年前に亡くなってしまった。想えば彼が秋葉原で、おそらく輸出用のノーブランドのギターを1000円で買ってきたのが電気化の始まりであった。恐ろしくネックが太く、塗装の下に透けて見える木目はどうみてもラワンである。彼はギターを買う前にコードブックを買うような男で、自作のアンプはすでにあった。友達が持て余したドラムセットを彼が借りてくるまで、私が“打撃音”担当で、段ボールやタッパウエア、ハイハットシンバル代わりの蒸し器などを叩いた。それらを叩くスティックだけはラディック製であった。  高校に入ると、同級生のAを交えて和菓子屋のNの家の二階で、相変わらずやかましいことであった。当時すでに外国製エレキのコピーモデルが流行しており、海外からの噂話だけを元に作られたようなLG-80Tなど非常にしょぼく感じたもので、そのうち私によって再び打ち捨てられることとなる。Nの家が大きな音を出しても大丈夫なのは、通りに面していて、アンコを練る機械の音にまぎれているのだと思いこんでいたが、Nのお袋さんといまだに付き合いのある母によると、我慢も限界に来ていたらしい。 現在精神科の医者をしているAは、最近多少時間ができたようで、一度貸しスタジオに行こうという。私などそんなところへ行くほどの腕もないが、大きな音が出せるのならと思っている。そういえばAはダブルネックのエレキギターを自作している。ウチに持ってきたとき、たまたま居合わせた友人が「患者が作ったんじゃないのか?」といった異様な姿で、ボディには生贄のような形代が封じ込められている。なんでそんなことをするのか私は特に聞かなかった。彼との付き合いが未だに続いているのも、私が“そういうこと”をいちいち気にしないからであろう。あのギターの音だけは聴いてみたいものである。AはボロボロのLG-80Tを覚えているだろうか。

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私が身辺雑記で盛んに書いていたのに、パッタリ登場しなくなった物があるとすれば、それは壊れたか腐ったか死んでしまったということである。糠味噌は腐らせたし、一時は繁殖までさせた熱帯魚のフラワーホーンも全滅した。人工的に作られた種であるためか、私の飼い方が悪いのか、ある程度の大きさになると、決まって理由も判らないまま死んでいった。中学生以来再開した熱帯魚飼育であったが、何度か全滅を繰り返し、止めてしまって数年経つ。 私が再開したきっかけは、友人のHが先に熱帯魚の飼育を再開していて、昔と違って器具が良くなり、ウチの水槽はいかに綺麗か酒を飲むたび力説されたためだが、当初彼は水槽内の水草を綺麗にレイアウトすることに凝っており、熱帯魚はアクセントに過ぎなかったが、今度は私が、元々好きだったシクリッドという魚を飼いだすと、彼もそれに乗り、二人してフラワーホーンに熱中した。私はやめても彼は続けていたが、昨日、フラワーホーンをいらないか、というメールが来た。綺麗な固体であったが水が合わないのか、三日に一度換えないと真っ黒くなってしまうという。それではさすがにめげるだろう。上手く綺麗な魚にしたいものだが、もう繁殖など考えず、この一匹だけを死ぬまで付き合うことにする。 人は15歳の頃に好きだったことは一生好きなんだそうだが、熱帯魚と共に本日もう一つあったが、それはまた明日。

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市川海老蔵丈が事件以来、充血した目をして記者会見に望んだ。後悔してもしたりない所であろう。 私が九代目團十郎を作るにあたり、資料漁りの古書店で、九代目を中心に十五代羽左衛門などの資料を集めていることを耳にし、勉強熱心であることは聞いていた。アダージョの九代目は私が進言したのであったが、成田屋の歴史を知るにつけ、大変な人物を選んでしまったということが判ってくる。そこで歌舞伎の約束事に触れずにかわそうと、当初普段着の九代目を考えたのだが、写真集の坪内逍遥の序文で、團十郎は後の世代にくらべ写真写りが上手くなく、実際の團十郎の表情はこうではない、というのを読み、挑発?にのり、写真では1カットもない、睨みを利かせてみたのである。もちろん“劇聖”にしては不十分であろう。その際、團十郎丈に直接質問してくれた方があり、写真に表情が残っていないのは、当時の写真の露光時間の長さから、睨み続けられなかったのだろうという答えまでいただいていた。逍遥がどう見たかは判らないが、後の世代は写真感材の発達により、単にシャッタースピードが早くなっただけのことであろう。あの時代、感材の感度は急激に上がっていたはずである。 完成直後、成田屋のお二人にはプリントをお送りするつもりで準備していた。また舞台俳優の今拓哉さんにも差し上げ、これを持ってる舞台人は出世するという都市伝説を作ってください、などといっていた。実際今さんは楽屋に飾っていてくれているそうである。だがしかし、肝心の成田屋のお二人には未だお送りしていない。アダージョの特集人物は、たとえ嫌いな人物でも制作中は熱中する。しかしできてしまえばそれで熱は冷めるものだが、歌舞伎趣味は未だ冷めず、暇があると芸談の類を読み、サイン入りブロマイドなど集める始末である。そんな状態が続いたおかげで、つまり知れば知るほど、ビビってしまった、というわけなのである。この騒動のおかげで、またお送りするのが先になりそうである。

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一日  


アダージョ来年2月配布号の候補に上がっていたTだが、(前回も苗字がTだったので馴染みのある名前のKにする)ライターのFさんより、『先日、日、英・仏・台湾の記者と飲んだ時、Kに対する所見を随分聞かれました。いま、皆が知りたい人物の一人でしょう。大変タイムリーだと思います』。というメール。えっそうなの・・・? おそらくこれで決まりだろう。さあどうするか。“私が作っているのは誰でしょうクイズ”を、背景の建造物を含めてやってもいいくらいの人物である。(ヒントを考えるのが面倒で決心がつかず) 7時に田村写真勤務のHさんと待ち合わせ、久しぶりに塩浜の『ホルモン道場』へ。Hさんはニジンスキー、ジャン・コクトーをテーマに古典技法のオイルプリントでの2002年、渋谷『美蕾樹』の個展に来てくれた時、まだ大学生であった。後に西武百貨店でオイルプリントのワークショップをやったときも参加してくれ、それが縁で田村写真に入った経緯があり、そのうち食事でも、と思っていたら三十路に達っしてしまっていた。一あくび十年という感じである。Hさんとだと、快楽亭ブラックや新東宝の話など、今時の女性がしなさそうな話題に終始する。一通り飲んで、時間も早いので帰りにお茶でも、と思ったが喫茶店などなく『サイゼリア』に入って、結局ワインを飲む。木場駅まで送り、もう一つ飲み足りない。S運輸を定年のKさんにメールしたら「今○○ちゃんと飲んでます」と返事。しょっちゅう「何処そこで飲んでます。一人で寂しい」というメールが着て、そのたび付き合ってるのに役に立たないオジサンである。しかしそういえば午前中、T屋ですでに一緒に飲んでいた。一日に二度見る顔ではない。 帰宅後Hさんが好きだというアメリカのプロレスラーを教わったので検索したが、この筋肉、ぜったい薬使ってるだろ?

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昨日に続きパソコンの前で検索。思った以上に難航している。某建造物をからませねばならず、かといって建造物にちなみ、アダージョの特集に相応しい人物がいないから困るのである。該当する人物はあったがすでに扱ってしまっている。私からも2、3提案してみたが、もう一つのようである。都心の建造物ゆえ、近辺にちなんだ人物はいるのだが、画を作る側とすると某建造物を入れるのであれば、その時代に相応しい人物にしてほしいということがある。 坂本龍馬が通った千葉道場があったということで、特集場所が大手町に決まった時は困った。二本差の侍をどうやってビジネス街に立たせれば良いのか。しかしそこには旧江戸城の大手門があった。下級武士の龍馬が当時、パカッと開いた大手門に近づけたとは思わないが、江戸城が開城したところは見ずに死んだので、あえてそこに立たせてみようと、いっそそれならば禁じ手としていた現代人と同じ画面に。さらにどうせならばと、はとバスのガイドや外人のカップルなどを配した。あんな手はそうは使えない。 今回の人物はというと、某建造物のおかげで、昔の人物では画にならないところが問題なのである。ある人物も提案されたが、私が“偉い人”を作ったばかりのせいか、アダージョのラインナップを考えると、普通の人すぎるように思える。帯に短し襷に長し、という奴である。そこへ編集長よりある人物が提案された。過去に何度か出た名前であるが、ここで来ましたか。果たして決まるのであろうか。

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闘い  


アダージョ24号の入稿を済ませたばかりでのんびりしているはずだが、次号の特集人物が決まらないので落ち着かない。毎回 特集人物と、それにちなんだ都営地下鉄駅近辺が特集場所となるわけだが、たとえば作家などは、昔の東京が狭かったこともあり、ちなんだ場所といっても、だいたい似たような場所に集中しているし、歴史の浅い都営地下鉄ということもあり、かなり無理がある場合も出てくる。創刊3号の『チャップリンと日本橋を歩く』はチャップリンが来日時、日本橋の天婦羅屋で、海老の天ぷらにはまって何十本も食べた。ただそれだけである。しかも取材をかねて、編集長、ライターとその老舗天麩羅屋に行ってみたらすでに廃業していた、という始末である。 創刊号の江戸川乱歩の依頼を受けたときはまず、フリーマガジンというものがよくわからず、チラシに毛が生えたような物くらいに考えていて、時間がなかったこともあり、手持ちのデータを加工して使用した。しかも私はその一回だけのことだと思い込んでいて、今後も続くことを知ったのは、入稿を済ませ、初めて編集長と顔を合わせたときである。 創刊二号が向田邦子で、片手にカメラ、片手に向田邦子像を国定忠治が愛刀、小松五郎義兼を捧げ持つように撮影する“名月赤城山撮法”で、六本木の繁華街の撮影は、そばに編集長にいてもらい、こんなことをやっているのには、深い事情があることをアピールせずには恥ずかしい状態であった。しかし、早くも創刊3号、件のチャップリンで、人形を現場に持っていって、ただ撮るだけでは画にならないことを悟り、以後、現場を撮影し、それに合わせて人物像を作り合成することになる。結果、これだけ作ってきても展示できる状態の人物像は数えるほどしかない。そして毎号身をよじるようにして制作しているわけだが、フリーマガジンといっても広告がなければ成り立たない。今回、営業方面からある建造物を入れて欲しいとの要望である。その建造物が特集ならまだしも、写っていれば良いとは漠然とし、おかげでさらに難しくなった。しかし企画会議には営業関係者は出てくれない。出てこないなら私も出席しないことにしよう。

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