明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



芭蕉と共演予定のオブジェは、北斎の背景と同様、撮影不可と思われたが、さっさと短時間で撮り終えろ、とまるで盗賊の手引きをする実は一味の番頭からのようなメールをもらった。 好きな本の書影をアップするというブックバトン二日目で昭和44年講談社江戸川乱歩全集第一回配本屋根裏の散歩者をアップした。乱歩はまだ生きていた。人からの又聞きで15歳の時に好きだった物は一生好きだ、乱歩と谷崎についてはよくそういっていたのだが、12歳の時だったことが発覚。どうりで小遣いが足りずに続かなかった。大人向けの乱歩は初めてであったが、この第一回配本は乱歩のの短編の名作が並んでいる面目躍如。白昼の笑顔が怖い事など初めて知った。 装画は横尾忠則さんで、変わった絵だなと思ったが、読後にまさに江戸川乱歩の世界だとビックリした。横尾さんにお会いした時にこのボロボロの本にサインをいただいた。 薔薇十字社の男の死は、元々三島と横尾さんの二人の写真集になるはずであった。企画者の内藤さんは一人では三島が引き受けないと考えたと伺った。横尾さんが怪我をして、その間に三島が自分の分を撮り終えてしまったのであった。三島には待っていられない事情もあったし。







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晴天  


松尾芭蕉、乾燥終わり、仕上げに入る。さらに芭蕉の前に置きたいブツを撮ることができる事になった。さっと忍び込んでとっとと撮って帰る事に。 今回の成果の一つは椿説弓張月であろう。はたから見れば、わざわざ人形を使って、単に浮世絵風な写真を作り、と見えるだろう。ただでさえ、だったら絵で良いではないか、なんていわれているのに。 しかし私にとっては、こういうことができるのなら、もう何でもできる。と私に思わせてしまったことが大きい。このように毛細血管が匍匐前進するように枝葉を伸ばし変化を遂げて来た。これで扱えるモチーフが無限に広がったことになる。陰影を描かないおかげで自由だった日本の絵師が、西洋由来の陰影や正確な遠近法を得て、リアリズム、迫真性を得たと引き換えに、失った物がある、と私は図書館で浮世絵、かつての日本画を眺めては考えていた。絵描きじゃないのに。 日本人はフォトグラフィーを光画とするところを真を写す、写真と思わず名付けてしまった。絵がかけなくても、撮れば自動的にリアリズムと迫真性は容易に手に入る。その写真を手段とする私としては、あえて陰影を削除する手間をかけて、リアリズム、迫真性と引き換えにやりたい放題をようやく手中にしたことになる。例によってこの喜びを分かち合う人は誰もいないけれども。 焼酎が売るほどあるが自分では飲まないという人と道端で待ち合わせる。マスクをしたまま距離を取り立ち話。美味しそうな焼酎をいただく。さらに死ぬまでに一度は食べておきたい木久蔵ラーメンも。

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一昨日、背景に考えていた場所が閉鎖中で、撮ることが出来ず、本来こんな場面にするはずだったことを書いた。作りもしてないのに余計なことであったが、そう思うとこの老人、ただ人形だけ見ると、何を観察しているのか、あまりにも前のめり過ぎないか?という気がしてきた。そこでせめて首だけでも少々上向きにしてみた。 いつだったか、北斎は当時としては異常に大きく、180センチあったという。デカくて世界的というと黒澤明を思い出す、とかなんとか書いたことがあったが、北斎の杖をついた自画像を元に作ったこの北斎、キャップを被せてサングラスをかけると、何だか黒澤に似ている気がする。当然頭にあったわけではないのだかが。 最近酒量が極端に減った。人と飲まないことも大きいだろう。引っ越し以前はどんな酒でも面倒くさいからと、何も割らず氷さえ入れず、すべて生のままで飲んでいた。さらに面倒になると佳境に入ったモニターの前でラッパ飲み。おかげでこぼしてキーボードを何十台買い替えたか。殆ど峠の山賊の如しであった。 二日酔いを一度だけしかしたことがない、という体質もあるだろう。引っ越しの時に工芸学校の同級生の作品は持って来た。よってラッパ飲みは廃止。それと電気ポットをいただき、寒いこともあり、お湯で割るようになった。すると以前とは飲酒時の起承転結に変化が起き、穏やかに着地するようになった。体内のアルコール量より、腕の上げ下げの回数で判断しているのではないか? 太宰の背景に使ったタバコ屋の看板婆アに起用した、三十年通った煮込み屋の女将の形見の栓抜きを傍らに置き本日もポットの湯を注いだ。






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松尾芭蕉乾燥に入る。私は気分が著しく天気に左右される。だからといってコロナじゃなくても散歩にも出かけないけれど。せっかくの晴天、まずは天日で乾燥。以前はネットでも目にしなかった芭蕉像を見ることができる。私は嫌味なくらい門弟3人の描いた肖像画だけを参考にしたが、杉風の初めて見る肖像画も見たが、下膨れの顔に、立派な鼻と耳たぶ。いくらか吊り気味の目。それぞれ画力に差はあるにしても、これはすべてに共通していて、師匠の面影を後世に残そう、という門弟達の想いが伝わって来て、なんだかしみじみとくるものがある。被り物の下は禿ていたのも間違いがない。 歴史的大家を私ごときがくさす機会はないのでいってみるが、何枚いい加減な芭蕉像を描き散らした与謝蕪。蕪村はまだ尊敬して描いているからまだマシだが、全国には県会議員や村長の顔にしているのもありそうである。ホントはどんな顔をしていたんだ?と少しは気にならないものなのか。とはいうものの、私が夏目漱石がワシバナだ、といったところで、加工された鼻の漱石写真が展覧会の度にパンフレットやポスター、図録に使われ続けるのであろう。本人にウソつかれればしようがない。私とデスマスクを見た人だけが、鼻のカタチなんか気にしてるから胃潰瘍なんかになるんだ、と思うのだろう。 北斎の背景に設定していた場所が閉鎖中で、画室で絵を描く北斎を断念した。これだから写真は嫌だよ、とグチの一つも言いたくなるが、芭蕉にしても本日、あるブツと芭蕉の共演というアイデアが浮かんだ。私はこんな時、思い付いた!という顔をするそうだが、ある人に、鍵持ってるなら開けてくれれば私一人が忍び込んで撮ってきたい、といっている。

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三島が自決の日に選んだのは初の長編書き下ろしである仮面の告白の起筆日11月25日である。私にはあそこにすべて書いてしまっている、とさえ思えてしまうのだが、予期しなかったのはその後の森田必勝との出会いであろう。それにより急激にハンドルを切ることになってしまった。と私は思う。 仮面の告白には、幼い時に読んだ絵本が出てくる。竜に噛み砕かれ苦しみながら死ぬ王子である。ただ幼い三島が気に食わなかったのが、その王子がその度に生き返ることであった、そこでその部分を手で隠して読んだ。誰の書いた物かは知らないが、私は王子の格好をできるだけ三島の供述通りにしてみた。怪獣を作るのは小学生以来であった。三島は後から合成したが、当時住んでいたマンションの屋上で片手に竜、片手にカメラで撮影した。決して住人に見られてはいけない、あられもない、言い訳が許されない姿であった。撮影しながら三島は生まれながらにして、すでに死に魅入られてしまっていたのだな、そして何事かを成さなければおられない宿命だったのだな、撮影しながら思ったのを覚えている。 私と三島の共通点といっては語弊があるが、私も物心ついた時には、すでにこうなっていた。そして頭で考えた行動はろくなことにならず、何故たが自分では解らないがやらずにおられない、ことはそれに従え、という事に早い段階で気付いたことは不幸中の幸いであった。誰が止めたって、やらずにれない人間はやる。衝動というのはそうした物で、ある種の犯罪者にさえ、いくばくかの同情をしてしまうのである。そう思うとたかだか人形作って写真撮って満足していられるのも不幸中の幸いといっていいだろう。







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しばらく休んでいた松尾芭蕉だが、首が出来ていて、そこから乾燥までが、一番面白く、また早い。足も隠れているし手も殆ど出さなければその分また完成は早いだろう。 さらに放ったらかしになっていたのが葛飾北斎である。背景に考えていた場所が閉鎖中で北斎の新作写真出品は断念となったせいでやる気が失せていたが、人形だけでも新作を出品しよう、と明日より再開する。 北斎は画室で絵を描いているところを思いついて一年は経っているだろう。当初窓から富士山が見える、というのを考えていたが、どうもつまらない。撮影すらしてない作品の構想を披露するのもおしゃべりが過ぎるが、どうせ結果は想像と違うだろうからひとつ披露してみよう。 前のめりになり、何やら目の前にある物を凝視している北斎。ただ何を描いているかは障子に隠れているが、蠟燭の灯りに照らされその影が障子に映り、何やらただならぬ事が繰り広げられてる気配である。妖し気な声も漏れ聴こえる。障子からはみ出して見えるのは、女の白い脛。その硬直してそり返った足に目を凝らしてみると、そこには蛸脚がしっかり絡み食い込んでいるではないか。椿説弓張月までこなしてしまうと、私の頭程度に浮かぶ物はすべて画にできるだろう。 考えて見ると、三島以外の作品は13点である。すでに蛸絡みの作品が2点ある。3点では多過ぎである。感心されるくらいなら呆れられた方がマシだなんていっているからこんなことになる。明日は芭蕉も乾燥に入り、北斎の仕上げ、太宰の履く下駄を作らなければならない。






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パンフレットには全作品ではないが、その三島作品の抜き書きを載せた。これは一体なんですか?という空気はお馴染みではある。さらに作品のキャプションにはほんの短く創作ノート的な物を書いている。三島由紀夫没後50年ということで映画も公開され、展覧会もあった。いずれもコロナのせいで行きそこねたが。しかし私のアプローチは特殊だろう。扱っているのが三島のある一面のみであり、三島作品を作品化したとはいえない。 三島が死の一週間前まで篠山紀信に様々な死に方を撮らせて死の直後に出版予定であったが、私が三島で何をやろう、と思った時、様々な状態で死んでいる所であった。私の場合は三島作品に絡めてという少々趣旨が違うが、それを知った時は、私だけが三島について解っているある面がある。私はこれを制作することの権利を得たような気分になった。私のような渡世の人間は思い込みで生きていところがある。私はあるガセネタを掴まされて、孫娘が高校を卒業したら男の死は出版されると聞いていた。出どころを聞けば、間違いない情報だと思うだろう。私はハラハラして数年間過ごした。趣旨は違うとはいえ、本人が魚屋に扮したり、ヤクザや兵隊になって死んでいる写真集が出てしまったら、私のやっていることはかなりのつや消しどころかバッタ物の滑稽さが漂ったろう。であるから隔月で4年続いたフリーペーパーの廃刊が決まったと同時に関の孫六の模造刀を入手し振り回していた。そしてこの人見知りが、伝説的な編集者であり、企画者の薔薇十字社の元社主内藤三津子さんと新宿中村屋で街合わせお話しを聞き、男の死というタイトル使用の許可を得、前回は会場で、三島さんきっとここに来ているわよ、とおっしゃっていただいた。ご高齢でもあり、実はまだDMを出せないでいる。

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出品作を決める。三島由紀夫が20点、その他が13点となった。予定では2メートル超の燃える金閣寺を背景にピストルと白さやの日本刀で革ジャンの三島。 何十倍にも拡大すると、それほど細密に作っているわけでもないのに、するほどリアルになるのがよく判らない。サンディエゴ写真美術館のクラチコさんに大きく伸ばすべきだ、といわれたのはこういうことなのか?正確には分からないが、写真は50センチ程の作品を拡大するツールとしても有効である。親が無くとも、ではないが、私はここまで作ったつもりはなかったが?といつも奇妙な気分になる。乱歩と宮沢賢治はリコーでも展示したが、三島は16年以来ロールに巻かれたまま見ていない。家の中で広げる気にはなれない。だいたい、私が新聞を読むとめちゃくちゃになってしまうのは近所の居酒屋では知られていた。危うきには近寄らずである。土管のようなロールのまま搬入するしかない。そして例によって、展示は画廊側にお任せする。ほとんど設営はやったことがない。こっちとこっち、どうしますか?と聞かれれば答えられるが、まったくノーアイディアで、学生の頃から見せ方について考えろといわれていたのだが。展示できるものをすべて展示した、16年の深川江戸資料館の個展でも、一言も発せず終わった。苦手なことに手を出すものではない。 三島以外のプリントは、葛飾北斎と三遊亭圓朝が2.太宰治、エドガー・アラン・ポー、室生犀星、泉鏡花、松尾芭蕉、その他ゲンセンカン主人、月に虎図、円谷な女となる。

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松尾芭蕉は乾燥を防ぐためビニール袋をかけっぱなしで三日目くらいだろうか。最終的な出品作を決めたり、キャプションの文章を書いたりして過ごす。それにしても、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想だなどと言っていたせいか、写真展を前に、全く外に出ず、家の中だけでまかなえる、というのは何よりである。以前、足腰が立たなくなった時に備え、世の中のパーツを撮り溜めておこう、というのを、これを機に改めて考え直そうと本気で思った。外付けのハートディスクが何台買っても当てにならないのが悩みどころではあるが。逆に言えば、残ったデータで充分こなしてしまっている。三島が搭乗記を残した最後の友人戦闘機と当時いわれた、F104通称三菱鉛筆は、何年か前に浜松の航空隊まで撮りに出かけた。地震の影響で温泉地も閑散としていたのを覚えている。もっとも、実はプラモデルで済まそうと、直前まで考えていた。イメージ通りになるのであればなんだつて良いのだが、操縦席に乗れる、つまり撮影できるというのででかけた。記憶は定かではないが、何かの事情で乗れないとか耳にし、超が付く出不精の私が浜松くんだりまででかけてきて、相手が自衛隊だろうが勝手にやってやる、と憤慨した記憶がある。しかしちゃんと三島が操縦席に座っているから、なんとかなったのであろう。しかし金閣寺は撮れない所から撮影したかつたこともあり、模型で済ませた。高さ20数センチの木製キットだったが3万円くらいしたのを撮影した。さすがに修整しないとアップには耐えられなかったが、今回も出品する予定だが、2メートル超のプリントにしたが,充分耐えている。イメージ通りになるならなんだって良いのである。という訳で明日から芭蕉を再開し、できれば嫁ぎ先の芭蕉記念館の収蔵品から芭蕉直筆の句などを撮影し配したいのだが、それも開けばの話である。







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在宅のストレスなのか、みんなでしばらく我慢しようと言ってるときにわざわざ海を見に行こう、と渋滞を起こしたりする人達がいる。おそらく家によっぽどの物がいるのであろう。酒場でグズグズダラダラと家に帰ろうとしない男達を見ても良く思った。家によっぽどの物がいるんだろう。 何度も書いたが、私の場合は子供の頃どこかの王様に石の塔に閉じ込められ、算数や宿題一切やらないで良いからここに一生おれ。クレヨン画用紙使い放題、図書室もある。なんてことを夢見ていたくらいでストレスはない。用もないのに散歩はできないし。 今日は久しぶりに麻布十番の田村写真へ手漉き和紙のプリントをお願いに行った。到着するやまず手を洗う。マスク越しとはいえ対面して人と話すのはいつぶりであろう。三島が最後に見たであろう市ヶ谷駐屯地の刀傷が残る総監室はバルコニーの向こうは水平線で日輪が昇っている。その光の輪などはちゃんと出るだろうか。この辺りのコクが欲しいとか、2、3気になる所を相談し、お願いした。特に陰影のない作品を始めてから、手漉き和紙にはまり。作中に艶があるならまだしも、印画紙表面に艶がある意味が分からなくなってしまった。最初の1カット。仮面の告白より、私が彼になりたい、彼でありたい、と幼い三島が思った汚穢屋の男である。同じく聖セバスチャンの殉教図は自ら扮し篠山紀信に撮らせているし、ヤクザにもなった三島も、汚穢屋にはならなかったから、これこそ私のすべきこと、と。 次々プリントされる作品を眺めながら、世にストレート写真という言葉があるが、もっともそこから遠い作品と思われるが、私の頭に浮かんだことに対しては、あまりにもストレート、いきなりそのままプリントされ赤面するくらいであった。












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松尾芭蕉は夏頃には芭蕉庵も作って芭蕉記念館に収まり、来たる芭蕉サミットで全国から集まる各地の芭蕉関係者を待ち受けることになっている。しかしこの芭蕉、私の作品の平均より大きく、庵まで作ると大型犬の小屋並みのサイズになるだろう。もちろん、記念館のスペースを考え、また中学の技術家庭科2の私である。昔やっていたジャズシリーズも楽器を作るのが苦痛で止めたのが半分理由でもあった。楽器褒められても、嬉しくもなんともない。そんな諸事情を鑑み、芭蕉庵はカットモデルではないが、コンパクトにしようと考えている。写らない所は冷酷なほど数ミリ単位で作らない私である。 何か天変地異でもあって記念館が消し去らない限りは、いやもはや、何があってもおかしくないと思わされている最中だが、少なくとも私が死んだ後でも当分は、芭蕉の門弟が描いた肖像だけを参考に作りました、という顔して2体の芭蕉像はいてくれるだろう。 ところで高校時代の友人に精神科の医師がいる。担当患者の自殺率の低さを誇っている男だが、高校時代からギターを作ると口ばかりの私に、俺が先に作ると、たいした工具もなく作った。出来たとうちに見せに来たとき、たまたまいた友人が患者が作ったのではないか?と疑った程の異形な、しかし彼にとっては合理的なWネックのギターであった。その最大の特徴は形代カタシロつまり人形がボディに封じ込められていることであった。壊さない限り見ることはできない。私だったら、出てきたら呆れるか、笑わせる物を入れるのだが、と思ったのをどういう訳だか急に思い出した。


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ヤフオクで落札したCDが届く。レオポルド・ストコフスキー指揮、フィラデルフィア管弦楽団1932年録音、映画憂國で流されたものに間違いないだろう。同じく落札した水玉急須は実は在庫切れが発覚。入荷が先とのことで返金される。 頂いた水出し茶がかなり美味しく、朝起きて窓辺にボトルを置いて茶葉が開くのを眺めるのが楽しくなり習慣化しそうである。ただ一時間で飲めるとはいうものの、もっと置いた方が、やはり美味しい。急須を入手しそこない、乞食が馬をもらう、の流れは一応断ち切られた。暖かくなるし、温かいお茶はティーバッグのままで。いや茶漉しという手もある。 しかしひょんなことから習慣というものは変わる。お茶紅茶は大丈夫なのに、昔からコーヒーは、たっぷりミルクを入れないと飲めなかったが、リコーイメージングのエスプレッソ?だかを飲んだら大丈夫になっていたのに気がついた。また酸っぱい物が苦手で酢など買ったことがなかったが、ラジオで深田恭子が餃子を酢で食べる話をしていて、深田恭子がそこまで私に勧めるなら?と試して以来、醤油を使わないことが多い。逆に中年と化した同級生がパンツ一丁で並んでいると思い込んで行ったことがなかった区の検診に初めて出かけ、意外な悪い方の高得点を獲得、ふざけるな、とやけくそで目の前の甘い物を食べたら美味かった。子供の頃からあまり好まず特に和菓子の類は駄目だったのに。あれはまったく余計なことをした。 朝から作品の横に掲げるキャプションを書く。三島20点、その他10点。簡単な創作ノートのようなものだが、これはなんですか?という空気には慣れているものの、マスク越しといえど口数を減らす効果もありそうである。

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家に閉じこもっていてもまったくストレスにならないのは何よりである。そもそも散歩嫌いだし。目的もなく歩く気になれない。キョロキョロするのも嫌いだし、そばでキョロキョロされるの嫌である。蜜のあわれを観る。観たつもりでいたが、単に予告編を見ていたに過ぎなかった。思っていたよりはるかに面白かった。私の場合、山の姫神様や黒蜥蜴などを別にすれば女性は本物を使う。それもただの一般人であるから、顔はそのまま使えない場合が多い。本来なら室生犀星の、蜜のあわれのエロティックな部分に踏み込みたいのは山々であったが。石井岳龍に先に映画化され手掛けるのが大分遅くなった。以前書いたが、最初の個展で売れた作品、アップライトピアノを弾く架空の黒人ミュージシャンだが、届けに中央線の高架下を歩いていたら当時の石井聰が歩いて来てすれ違った。狂い咲きサンダーロードを観て間がないときであった。誕生日も一月違うくらいだったろう。そしてデザイナーの個人事務所に届けたが手が離せないとのことでビデオでも見ていて下さい、といわれ、たくさんの中に三島の憂國があった。何故そこにあったのか。未だに判らない。まさか後に三島を作ることになるとは夢にも思わず、出回っているはずのない、異様に緊迫感のある画面を見つめた。 余談であるが届けたアップライトピアノ、会場で女の子が鍵盤の数を数えていた。いい加減だったから参った。私に取って鍵盤の数などどうでも良かったが、そうじゃない人がいるのだ、と以後肝に命じることとなった。

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個展会場で配布のパンフレットのデザインが決まったとふげん社よりメール。両面観音開きB5サイズ。 市ヶ谷に向う三島一行は、中古で入手したコロナ車中、案外俺たち明るいなあ、ヤクザ映画なら唐獅子牡丹が流れるところだ、と全員で歌った。三島は亡くなる直前二人の彫物師に打診をし、願望があったのは間違いないが、自分には入れてはいない。映画唐獅子牡丹の池部良と高倉健の二人になぞらえ、三島に唐獅子牡丹を、と考えたのは随分前だったが、諦めずにいて完成した。この辺りの話は何度もしているので繰り返さない。 リコーイメージングのIさんに連れられ当時築地にあったふげん社にお邪魔したのは一昨年。その後に本郷の金魚坂に行くことになっていたので、三百年続いた金魚問屋ならと、和紙のプリントも持っていた。そうしたらふげんで三島で、という話になった。その日のブログに書いたと思うがまさかの展開に呆然としながら本郷に向かった。しかしこの三島はいくつかのギャラリーに断られた前科があったし、私の聞き間違いではなかったか?昨年念のために確認にでかけたくらいであった。 ここ数日、コロナのこともあり、どうも力が入らずダラダラと過ごしたが、討ち入りの計画に揺るぎがない、とパンフレットを見て確信した。もちろんそのためには、空気の入れ替え消毒、人との間隔を空けるなどの体制を取っての上であることは当然である。是非来て下さいと私にはいえない。ただ明日から松尾芭蕉を作るだけである。太宰でやったように、明日の朝から一日、数時間おきにスマホ写真をフェイスブックにアップしようと思う。








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お茶  


それにしても、確証もないコロナ情報を拡散し、ガセと分かっても訂正もしない輩が多い。始めからネット情報は眉に唾して見ているから戦前の大本営発表よりはマシであろう。 ネット情報といえば、早速お茶殻の調理法を検索したらいくらでも出てきた。こういうのは試しても不味い、で済むから良い。無農薬のお茶をいただいたお茶屋さんがいっていたが、京都に行き、現地に交渉に行くが4WDを借りて行くような場所で、斜面でのきつい仕事を見ると、おろそかには扱えない、と思ったそうだが、掃除機を拒否し、棕櫚製のホウキにブリキのちりとりを入手し、数十年ぶりにお茶殻を畳に撒いて掃き掃除をしようと思っていたが、そんな話を聞いていたし、窓辺の文机の傍らに置いた水出しボトルの中で茶葉が開いていく様を眺めていると、掃除に使うには惜しく思え、また美味そうに見える。母が代用でやっていたように千切って濡らした新聞紙で充分だろう。今日からお茶殻は棄てずにレンジで乾燥させ、ためておこう。とりあえず佃煮あたりか。 ウイルス騒ぎの中、緑茶を飲むことになったのも何かの縁であろう。舌を肥やしても良いことなどない、と思うような山賊体質の私だが、お茶くらい楽しむのは良いだろう。一時、屋上などで抹茶を飲んだりしたことがあったが、鉄瓶で沸かした湯のお茶は甘味があった。ブラックコーヒーも飲めるようになったし、悪いことでは無いだろう。しかし昔からうすうすと感じていたが、どうも私にはカフェインの効果がなく、いくら飲もうと眠気とは関係がない。 ここ2、3日ダラダラしたが、明日より松尾芭蕉に取り掛かる。 

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