明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



人形制作の開始早々、つまり頭部の制作初め、これが憂鬱とまではいわないが楽しくはない。架空の人物はともかく、実在した人物の場合、無事に完成する気がしないのである。さすがに長い間作って来たので、結局いずれは無事完成するだろう、とは思うのであるが。それでも作り始めはいつもこの調子である。そして一日、二日でなんだか調子がよく、この段階ですでに◯◯に見えるじゃないか、などというときはまず間違いなく駄目である。それを知っているので、作り始めは機首を上げないように、低空飛行で進めていく、大事なのは調子が地震計のように上下せず、なるべく滑らかなラインを描きながら上がってくることである。そして頭部ができたら完成も同然。ポケットに頭部を入れてK本にでかけ、常連に披露したりして。どうです?などと、たとえば三遊亭園朝の首を見せられても、何もいいようがないだろうけれども。 そういえば噺家の旦那に圓朝を継がせたがった女房がいたが随分大胆である。それは旦那を双葉山にしようというような話であろう。

HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




鏑木清方が圓朝の横に配した燭台を入手したという理由で圓朝を作ることにしてしまった。GW中の深川江戸資料館の個展は、中締めとしたかったので、すでに頭部がある物を完成させ、数を出品するため新たな人物を手がける事は避けた。その復帰第一作が季節はずれ?になるであろう圓朝になるとは思わなかった。自分でも思わなかったようなことになるのは、私が流れに逆らわないからである。たまたま燭台を目にして1000円で落札したのが、今回のスイッチとなった。しかしもし圓朝を作ることになれば、灯りはヒトダマにしようと考えていたので、燭台は結局使わなかったりして。使うとしたらやはり鏡花や柳田に登場してもらうことになるかもしれない。 それにしても鏑木清方のデフォルメの仕方には惚れ惚れする。圓朝とは親しかったらしいが、お茶をすすりながら、この後怪談を語るのだ、という態勢に入っている。写真よりよほど圓朝していて私の理想ともいえる表現である。 一方個展には間に合わなかった太宰治や完成寸前までいった坂本龍馬もついでに作っておきたい。それに3年近く更新していないHPも、記録しておくためにも、まず隙間を埋めることから始めたい。と思う事は思っているのであった

HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『幽』人形/ヒトガタ特集に私と人形ということで一文を書かせてもらっている。 人形が怖いか怖くないか、という意味からいえば、作る側の想い、作為欲望に満たされている分、作家作品は、たとえ恨めしそうな表情をしていても怖くない。その文の中で、幼い頃、親類の家のTVの上に置いてあった20センチほどのバレリーナの人形が怖かった話をほんの少しだけ触れた。透明な柔らかい樹脂製で、怖い怖いといいながら、親戚の女の子と田んぼの向こうに捨てにいった。顔自体も粗製な分気持ち悪かったと思うが、むしろ中の透明でウツロな部分が人さらいでも可能な容積を持っているようで怖かった。あれは量産品で、作る側の念も何も感じようがないところが怖さのポイントだったろう。漫画『巨人の星』で強打者に限って打てないスローボール大リーグボール3号は、体力を消耗させてようやく打てたわけだが、体力はともかく、作る側の作為、欲まで消すのは難しい。拝む側の念を受ける容積が必要な仏像を作る仏師なら可能なのであろうか。 作りながらも無心で、となると私は溶接でベランダから下がっている物干の製作と、焼き物工場に勤めた時だけである。それ以降は作りたい欲望まみれであり、私の作る人形は怖くない、ということにかけては作者の保証付きである。

石塚公昭HP

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




本日も妙な時間に目が覚め、切れ々ながら合計すると良く寝た。洗濯したり久しぶりにギターを弾いたり。何かしようとすると眠くなる。ようやく身体が一仕事終えたことを理解したようである。多少のことであれば飲酒によりごまかしてリズムを取り戻せたのであるが、今回はそれは効かなかった。 まだ先になるが、今年は某画廊のグループ展に出品予定である。問題はテーマが決められていることであるが、洗濯中にアイデアが浮かんだ。これには女性の共演者が必要なのだが、例によって手近なところで調達するつもりである。顔出し必至であるが、問題ある場合は加工をする。ヌードもしくはヌードに近い場合など、モデルの都合で加工が必要な場合があるが、本人とやり取りしながら別人に作り替えた経験が何度かある。フォトショップで形を変えただけでは成分が残る。むしろ粘土造形の要領に近い方法を取った。時間はかかったが、写真関係者さえ誰も気がつかなかったから自信をもった。ただ私の場合、一般人の、誰も裸になるとは思わないであろう人ばかりを起用するので、気がつかれない、というころもあるだろう。今回は裸である必要はないと思うが。

石塚公昭HP

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




午後野暮用の後、門前仲町で先日撮影した画像データを渡し、早い時間から飲む。その後永代通りの朝日屋書店の前を通ると、未だに『石塚公昭の世界』のポスターを貼ってくれている。お願いに行って以来なので、お礼をいおうと入ると、『季刊雑誌歌舞伎 別冊宗家市川團十郎』『三遊亭圓朝』永井啓夫著(青蛙房刊)が目に入り購入。 圓朝といえば、鏑木清方が湯のみを手にして座る姿を描いている。樋口一葉も描いているが、両方ともただそのままリアルではなく、清方の表現、解釈が加わっている。おそらく清方は一葉に会ったことはないだろう。となると残された写真を元に描いているはずだが、写真とは顔の角度を変えている。リアルに描こうとすれば、特に向きは写真と同じになるのが普通であろう。私の場合は、一度立体にしてしまえばどこからでも撮れるので、あえて残された写真と向きを変えることが多いが、清方はおそらく、様々な角度の一葉を想像で描きまくった上で本番に臨んだのではないか。圓朝とは面識があるはずだが、これとて写真と見比べてみると、ただそのままではなく、清方の解釈が加わっている。私も単に模型になることだけは避けたいと心がけている。

石塚公昭HP

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




完成した伊集院静氏を持っていく。結局左手にボール持たせず。編集者を通してご本人に出品の許可を貰っておいて出さないでは話にならない。  未だ作業が残っていて落ち着かないが、個展というものは今までのこと、今後のことなど客観的になれる良い機会である。今日のテーマはある人にいわれたこと。私の作品は粘土の質感丸出しにかかわらず、拡大すると、かえってリアルに見えるが、細部まで詳細に作られたフィギュアを拡大しても人形にしか見えない、という。考えてみた。判ったら、知ってて初めからそうしているのだ、という顔をする。 5月6日の朗読ライブは、先日1部の江戸川乱歩作品でピアノを弾いていただく嶋津健一さんがみえて、二回目のリハーサルをすると聞いて楽しみである。2部の泉鏡花作『貝の穴に河童の居る事』 のリハーサル音源が、まさかの“カセットテープ”で届いた。女流義太夫のお二人だが、朗読の竹本越孝さんの河童、姫神、翁(柳田國男)、人間の使い分けが見事。女性の中年男は、中年、老年男専門の人形作家である私には、漫画から宝塚からすべて気に入らないが、姫神の後見人たる柳田が雰囲気満点。トトさんカカさん調の悲劇的内容の義太夫の手法で、珍しくユーモラスな鏡花作品がどうなるだろう、と思っていたが、人間どもに仕返しを、と必死に訴える河童の三郎。越孝さんの三郎はその必死さに笑ってしまう。1部の乱歩作品で『人間椅子』の女流作家役をお願いした鶴澤寛也さんは、鏡花作品なら琵琶か義太夫三味線だろうと思ったとおりの演奏で、時折、打楽器のようなトリッキーなバチさばきが効果音的に使われている。面白い試みになることは間違いないであろう。

 『特別展 深川の人形作家 石塚公昭の世界』

フェイスブック『石塚公昭の世界』

 『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昔は個展の中日なのにまだ作っていたこともあったが、永いことやっていて個展開催へ向けてのペース配分には自信があった。しかし久しぶりなことや、テーマを決めて、というのとも違い勝手がちがった。 眠くてヘロヘロ。控え室で作りながら、用事で会場に出ると知り合いがいたりして。まあ良いや、と。本日ざっとだが、ようやく展示された写真を全部観た。色んなことを考え企んできたな、と改めて。私がいうと信じられないという顔をされるのだが、これでも常にウケを狙って作ってきた。はたからはそうは見えないらしい。依頼された良く知らない人物はともかく、最もウケたいのは作る対象の人物である。ちょっとからかいたくなったのは、(まだ会場にはないが)森鴎外くらいである。あまりに文豪なので、もう一つの顔、軍医総監の礼服を着せれば文豪の頭にベルサイユの薔薇みたいになりはしないか、と作ってみたら結局立派になってしまった。軍服とはそういうものである。 何年来希望していた三島の背中の唐獅子牡丹だが、これなどただひたすら三島に見せたいという一心であった。なんでも実現してきた三島も、刺青は時間切れであった。 新聞を見て、子供の頃お世話になった隣にお住まいだった方まで来てくれた。

『特別展 深川の人形作家 石塚公昭の世界』

フェイスブック『石塚公昭の世界』

 『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最後のⅠカット、唐獅子牡丹を背負った三島に着流しに番傘の4人組。映画のポスター調。人形を作りながら調整していたが、ほとんど寝ていないせいで、はっと目が覚めるとマウスをどうかしたのかデザインがかわっている。そんなことを繰り返し、なんとか完成。途中でドリルや絵の具を買い会場へ。イベント屋のSと近所に住むHさんが助っ人。私はというと会場の隅にテーブルをだし、人形制作。職員の方も総出で2メートル超のプリントを設置。例によってレイアウト案がまったく浮かばない私は、その件に関して一言も発せず。ニジンスキーと九代目團十郎が隣り合わせなのは意図的であろうか。先日乳輪30センチと書いたが、改めて見たら20センチないくらいであった。 田村写真の田村さんが所有してくれているロバート・ジョンソンの人形を持って来てくれる。本日あがった十字路で取引するため悪魔を待つロバート・ジョンソンのプリントも雰囲気が出ている。 良い悪いはともかく、感心されるくらいなら呆れられたい私としては、その点に関しては合格だと、見回りに来た警備員さんの台詞で確信。しかし人形は、完成していない作品がまだまだ家で待っているのであった。

『特別展 深川の人形作家 石塚公昭の世界』

フェイスブック『石塚公昭の世界』

 『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


朝から着彩。午後近所の喫茶店で取材を受ける。こんな時、どんな人形を持って行けば面白いだろうか。ついそんなことを考えてしまう。初個展がいつだったとか、いつ何をしたか、とか聞かれても、ずっと自分のHPを当てにしていたので、詳しいことが判らない。プロバイダを替える前にデータを移動していなかったので、ネットに詳しい友人の手を煩わせている。とりあえず元に戻してから。リニューアルなど先のまた先であろう。帰りがけに、個展のポスターやチラシを貼ってもらっている近所のラーメン屋に勤める彼とすれ違う。これも展示する作品、と顔の部分を見せる。これじゃ見せてもな、と「外国の作家なんだけどさ」。「ドストエフスキーですか?」。あら当たった。お見それしました。 唐獅子牡丹を背負った三島を市ヶ谷駐屯地のバルコニーに立たせる計画は今回は断念。今のままでは背中を真正面に持って行くと顔が全く見えない。顔が生かされないなら作っても仕方がない。

『特別展 深川の人形作家 石塚公昭の世界』

フェイスブック『石塚公昭の世界』

 『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




彫Sより背中に唐獅子牡丹を背負い、肩から上腕部まで墨が入った状態の三島由紀夫を受け取る。 出来はというと想像以上である。時間さえあればもっと手を加えたいし、リアル感を追求するため、色々やってみたかった。というが、充分である。高倉健の昭和残侠伝シリーズは何作もあり、おおまかな印象でしかないが、小さな人形に描くという条件の悪さを差し引くまでもなく、こちらの方がカッコ良いと思った。見れば誰が描いたか判るらしく、そういったら本人は.謙遜していたが。 これでようやく同じ姿勢で待ち続けた、着流しの四人衆の元に合流することができる。『唐獅子牡丹』と名付けよう。  三島がもっとも好きな制服は金ボタンがならぶ白いエレベーターボーイのものだった、と中井英夫がいっている。そしてあの愛らしさがかけらもない、と盾の会の征服を批判している。エレベーターボーイが愛らしいかはともかく、私も最後の姿があの制服か、とは思う。 あのバルコニーには、大映のからっ風野郎で三島が演じたチンピラヤクザの格好で、すでに立たせている。あの建物はコンパクトに改造されていて、当時を再現するのは簡単ではない。そこで実はすでにあのカットから三島をどかした背景をすでに作ってしまっている。唐獅子牡丹に自衛隊員が唖然として野次が止んでしまうようなカットができないだろうか。こちらは『昭和残侠伝』と名付けよう。しかし担当のNさんには作品数を守るよう釘を刺されているのであった。

『特別展 深川の人形作家 石塚公昭の世界』

フェイスブック『石塚公昭の世界』

 『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




午前中より私の辞書に載っていないことばかりをする。シュルレアリズムといえば“手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い”という有名な言葉があるが、まな板の上のミシンかこうもり傘の如し。今日のところは何とかこなし、半分放心状態のまま帰宅。 2メートル超のプリントは某メーカーにお願いしているのだが、もう一回り小さい、(といっても短辺が1メートル超)を某所にお願いすることになっていたが、時間をいただいたので、さっそくデータを持ってお邪魔する。都合の良い時に、と思っていたが、さっそくプリントをしていただいた。エドガー・アラン・ポーの世界初の推理小説『モルグ街の殺人』。犯人はオランウータンだった、という話だが、映画その他随分観たが、不思議なくらいオランウータンが使われていない。チンパンジーであったり、良くて着ぐるみである。そこで、オランウータンにこだわった。結果、プリンターから出て来たのは実物のポーより、あきらかに大きいアラン•ポー。ついでモノクロームの澁澤龍彦。それを見て方針が固まった。 ようやく個展情報が資料館のサイトに。

 『特別展 深川の人形作家 石塚公昭の世界』

 『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




夕方某所にて彫Sと会う。彼女のお客を紹介され仕事場で撮影、オイルプリントにして以来である。刺青を入れてる所も見学させてもらい、東映のヤクザ映画との違いを認識。彫って行くとミミズ腫れのようになり、腫れがひくまでレリーフ状になる。顔料や血液、体液を拭き取りながら彫り進めるのだが、当初は体液の匂いに慣れずに苦労したといっていた。彫られている女性も知り合いだったので(知り合いでなくとも)どれどれ?と後学のため嗅いでみようとは思わなかったが。 『三島由紀夫へのオマージュ展 男の死』の時に、市ヶ谷へ向かう車中、「ヤクザ映画ならここで唐獅子牡丹が流れるのだが」と三島が歌い出し、隊員も一緒に合唱したことから、三島の背中に唐獅子牡丹の構想はあったものの、刺青の表現を考えているうち時間切れで断念していた。本物を撮影して“移植”することも考えたが、ウソとホントの間を常に泳いでいるような私であるが、どこがホントでどこがウソか、というのは、実は重要なところなのである。そしてようやく、ウソの三島の背中にホントの刺青師に描いてもらう、というところに落ち着いた。近年の刺青は漫画じみて目を覆いたくなるものが多いが、彼女の場合は古典的なところが良い。当初から彼女にすべてお任せするつもりでいたが、資料写真を見ながら検討し、意見もことごとく一致した。 見ていただいている方々に、必要以上に期待感をつのらせていただくために1カット。

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

深川の人形作家 石塚公昭の世界展4月23日より

『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




死の直前篠山紀信に、魚屋や体操選手、様々なシチュエーションで死んでいる所を撮影させたり、映画でチンピラヤクザや剥製にまでなっている三島である。三島本人にウケようといっても簡単なことではない。そう考えると、三島が間違いなくやりたくてやれなかったのが刺青である。たしか澁澤龍彦が学習院に通う息子の親が刺青いれるわけにはいかない、といったと書いていたような気がする。 刺青の件では事件の直前、三島は二人の刺青師に打診しているが、初めから篠山撮影との撮影用だったのか、一人目の時は本当に入れるつもりでいたが間に合わないことを知り、二人目には撮影用といったのか、そこが判然としない。もし本当に入れるつもりであった場合、打診する直前隊員とサウナで打ち合わせしている。つまり背中に何も入っていないところを見せておいて、バルコニーの演説の後、脱いだとたん森田以下、初めて目にする唐獅子牡丹。となったかもしれない。事件直後に『男の死』が出版されて、世間その他、笑っていた連中が驚くことを想像していた三島ならやりかねないだろう。もっとも森田はただでさえグサグサと介錯に失敗しているから、手元がさらに狂ったかもしれない。

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

深川の人形作家 石塚公昭の世界展

『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ドストエフスキーを乾燥させながら修正する。三島由紀夫、古今亭志ん生、伊集院静、夏目漱石、エドガー・アラン・ポー、伊集院静がおおよそ仕上げが終わり、本日より着彩に入る。三島は明後日、彫Sに預け、いよいよ背中に唐獅子牡丹が入る。東映の高倉健と池辺良の道行きシーンは確かスタジオセット丸出しだったような気がする。リアリズムより形式美ということで。 いつもであれば、画面に入る被写体には同じような光を当て、合成臭くならないようにするのだが、今回は映画のポスターのように切り張り感が出ても良いのではないか、と考えている。 三島が大映の『からっ風野郎』で演じたチンピラヤクザの格好で、市ヶ谷のバルコニーの上から辺りを睥睨する作品も、今回大きく引き伸ばして出品する予定であるが、(見上げる自衛隊員目線を味わえないだろうか?)考えてみたら、唐獅子牡丹を背負った三島こそバルコニーに立たせるべきではないのか。背中を向けた三島の唐獅子牡丹にどよめく自衛隊員。いずれ必ず。

特別展『百年目に出会う 夏目漱石展』神奈川近代文学館 漱石像出品

深川の人形作家 石塚公昭の世界展

『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




深川江戸資料館としては展示するなら徳川慶喜なのだが、今まで作家のシリーズということで続けていたことと、今後披露の機会がなさそうな慶喜よりドストエフスキーか太宰治を選ぶことになる。となると会場でエドガー・アラン・ポーを孤立させることを考えるとドストエフスキーを隣に、と思うのである。ドストエフスキーはポーの影響を受けているといわれているし、場合によっては二人の横に江戸川乱歩、というのもアリであろう。これ以上手を出して未完作品が自宅に残ることを考えると、あと一体が限界ではないだろうか。これは自分に言い聞かせている。 男は諦めが肝心、などと小学生の時からいっていたが、そんな奴に限って諦めが悪い。特に作ることになると急にせっかちになり、人にいえないくらい諦めが悪くなる。某デザイナーに“プロはさっさと仕事を済ませて遊ぶんだよ”と いわれたものである。しかし最後の一粘りで良くなる事はあっても悪くなる事がないから、そうはいかないのである。私の場合パッタリ死ぬなら良いが、あれもやりたい、これもできなかった、とうめきながら死ぬことは覚悟しないとならない。

深川の人形作家 石塚公昭の世界展

『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』予約受付中

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ