明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



幕末、明治の寄席を想像して背景画像を作り、そこに円朝を立たせ、寄席から漏れる灯りに照らされ、陰影がどうだこうだいっていたが、円朝立たせるより牡丹灯籠の二人の方がいいや、と円朝をどかしてしまい、お露とお米を配してしまった。 昨日も一回目の食事が夜となってしまい、木場のヨーカドーで食事をして、書店にはできるだけ立ち寄らないようにしていたが、飲み仲間の今拓也さんと岩崎宏美さん夫婦の夫婦漫才が載っているというので週刊朝日を買い、ついでに別冊太陽『川瀬巴水決定版』を入手してしまった。寄席風景は巴水等のいわゆる新版画の風景画を意識して制作した。 作品には独自のスタイルを持つことが必要だが、そのためには描く世界に厳格なルールを持つことが肝腎であろう。円朝を寄席前に立たせた時の光の有り様に、ああだこうだ迷ったのは、新たに始めた手法において、私がルールを持たなかったせいであろう。それは世界がどう見えているか、にかかわってくる。光の作家である巴水の作品を見てそれを痛感した。 まだ暑い中、谷中全生庵に向かう。全生庵は山岡鉄舟が起した臨済宗の禅寺である。寒山拾得の中国の寒山寺も同じ臨済宗。前回は何も考えないで伺い偶然に驚いた。寒山拾得を作れ、ということではないか? 明日8月1日より1ヶ月、恒例の円朝旧蔵の幽霊画の公開が始まる。私の円朝像も展示していただくのだが、同じ室内だとしたら幽霊画とはいえ、円山応挙と一緒に、ということになってしまう。

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深川江戸資料館のイベントのチラシは撮影の前日に届いたのでT屋に置いて来てしまったが、Aちゃんには可愛い写真を渡して、イベントは面白くないから観に行かない方がいいよ。といっておくべきであろうか。青白く透き通るような肌の白さ、なんてつもりでうっすらと静脈を加えたら、なんだか死体じみてしまった。これはいかん。さすがに修正。フェイスブックで怖い々いわれたのがつい嬉しくて調子に乗ってしまった。 悪党の伴蔵が新三郎の部屋を覗いたらお露は骸骨だった、というわけで普段はあくまで美しくあるべきであろう。“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”である私はどうしてもこうなってしまう。昔、撮影に使おうとして髑髏のプラモデルに色を塗っていたら、夜が開けた頃には煮しめた髑髏のようになってしまった。これでは発掘された古代人である。私の場合、一般の御家庭のように、頭から冷水を浴びせかける担当者が、いないせいもあろう。 幕末、明治の寄席風景を再現して一度円朝を配したが、お露とお米の方が良い、と円朝をどかしてしまった。


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今回のように素人にモデルをお願いする場合、特に女性を幽霊に変えてしまう場合、幽霊になる前の画像を保存しておき、協力して良かった、と思ってもらうのが鉄則である。まして綺麗な着物を着付けてもらい、高揚感にあふれる表情を現場で見ている。がっかりさせる訳にはいかない。 フェイスブックで怖い々いわれたAちゃん扮するお露は、すでに保存済みで、おかげで遠慮なくさらに怖くすることができる。2カット目は、私の想定では、幽霊とは知らず、寝床でお露をまつ新三郎を見下ろす闇から現れるお露、という場面だが、一カット目のように目を見開いておらず、恐ろしさはさほどないが、伏し目がちで切ない感じである。一方牡丹灯籠を持つ女中のお米は寝所まで付き添うというのは妙だろう、とは思うが化けて出たもの、化かされたものという場面であるから、まあ良しとしよう。お米もやはり幽霊らしく目の色を変えたり熱中していたのだが、途中、化ける前の段階を保存し忘れているのに気付いた。『貝の穴に河童の居る事』でも協力してもらい、名演技を披露してもらった。Aちゃん含め、5人の母親で、何かに動じるところを見たことがない。幽霊になった自分をきっと面白がってくれるだろう。 いや私も甘い。『四谷怪談』の田宮伊右衛門しかり、女性を甘く見て雑に扱い、たいへんな目に遭う男、というのが怪談の本道であろう。一からやりなおすことにした。 そういえば朝から何も食べないうちに夜になっていた。


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日時は未定ながら、ジャズシリーズの個展開催は決まった。後ろを振り返るのも、と渋々であった私に比べ、周囲の反応が歓迎調なのが多少癪に触ったが、誰ということのない架空の黒人像数点、その他写真作品は新作を撮影した作品、20年前のネガからのニュープリント。こんなところであろう。 昨年は、今までの作品を可能な限り展示した個展を開いた。中締めというつもりであった。作りたい、実在した人物も少なくなり、そろそろまた架空の人物に、たとえば『寒山拾得』を、などと、といっていたから、これもまたそういう流れだったのかもしれない。 私の場合、あくまで人形制作者であるから、写真作品の画面の中に人形が入っているべき、という頭があったが、お露、お米の牡丹灯籠は、当初の予定の風景の中にぽつりと、というより、もっとアップで表情をみせたくなった。入れる予定の円朝をどかしてもいいくらいである。また日本画特有の何もない背景に配するのも、陰影がないから可能である。私は常に、自分がやったことに新味を見いだし、そこを捕えて枝葉を延ばして来た。いいかえれば行き当たりばったり、行き先は未定である。しかし変われないなら生きてる甲斐がない。 お露役のAちゃんはフェイスブックで自分がまさか怖い々いわれているとは夢にも思わないだろう。展示作品はそれこそ最恐にしたいが、記念のために化けて出る前、いや新三郎に出合う前のお露を保存してプリントしてあげよう。こうなってくると、人物撮影もこの手法により積極的にやってみたくなった。

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お露の目の色を変えて怖いというのは男性ばかりで女性は一人もいなかった。むしろこちらが良い、と。怖がる方と怖がらせる方、当然といえば当然だが、こんな怖い物部屋に飾れないだろ、とまでいう人がいたが、まったく判っていない。幽霊画、妖怪画を所有すること、また刺青だってそうだが、それにより魔から身を守るという意味がある。同じ屋根の下にもっと怖いものがおり、せめて飾るのは心安らかになる物を、というのはよく判るが。 円朝から始まった新手法、私なりの筋道を通ってようやくたどり着いた、と自分自身は思いこんでおり、人形専用だろうと思っていたら人物もなかなかの結果が出て、これにより久しぶりに個展を、と考えていた昨日、よりによって昔制作していた黒人シリーズで個展を、という話がきた。1982〜96年までやっていた黒人のジャズ、ブルースシリーズだが、最後の96年のスペースユイの前、数年間ブランクがあり、この間、人形も作らず、廃れていたオイルプリント制作に熱中していた。一つには作品が段々細かくなってきて、それにあわせて楽器を作るのに嫌気がさしていたし、ほとんど架空の人物であったが、人形だけで会場を一杯にする気になれなくなっていた。そして最後となった96年に始めて自作を撮影した写真を発表し、自分で撮るならば、と実在した人物を作りだすきっかけとなった。それが転機となり、翌年作家シリーズに転向したのはHPやブログで度々書いているとおりである。 私がかつてそんな作品を作っていたことを知る人も今では少ないであろう。冗談じゃないよな、ここまで来て、とその頃を知ってる友人数名に話してみたら全員賛成。中にはこの20年、お前等、俺の個展を嫌々我慢しながら観に来てたのか?という失礼な奴までいた。

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木場のお露ことAちゃんは、小学生の頃からおなじみの、毎朝眠たそうに大学へ向かう彼女と同一人物とは思えないお露となった。お母さんのお米は、事前に伝えてはおいたが、せっかくメイクした眉毛を消すことになった。この程度のことで動じる人ではない。かえって面白がってくれるだろう。 いずれにしてもできたも同然。来月10日からのの深川江戸資料館の展示には間に合う。 陰影を消す撮り方は、人形を撮るからこそ、だと思っていたが、人間でも充分有効なことが判った。これで人形と人間の共演も、こちらの世界でも可能ということになった。今回の撮影の意味は大きい。私の大リーグボール3号も、いよいよ完成に近づいた、ということか。 本来、新三郎宅にカランコロンと下駄を鳴らして通う様は、背景の中で小さくシミジミ歩く予定であった。しかしお露とお米がなかなかの出来なので、表情をもっと大きく見せたくなった。 17歳のお露は新三郎に焦れ死にし、幽霊となって、それでもなお新三郎の元に通い続ける。そうとは知らず、骸骨をかき抱く新三郎。結局とり殺されてしまう。これだけのことをしでかすのだから、Aちゃんにはそれなりの表情をしてもらうことにはなる。昨日フェイスブックにテスト画像をアップしたら 怖いという方が多く、しかしただ可愛いAちゃんというわけにもいかず、今ネットで話題のお掃除オバちゃんほどでなくても、せめてこの程度の表情はしてもらいたいのである。




HP/Volumes/Transcend

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早朝T屋へ撮影機材を持ち込む。三脚と日本髪のカツラは先週のうちに運んでおいた。お茶付けを食べ、父親にAちゃんが起きてくれることと化粧はあくまで薄めにを託して錦糸町のヨドバシへ、調子の良くないバッテリーチャージャーを念のために買う。 T屋に戻り、Aちゃんが降りてくるのを待つ。上で柔道の受け身でもしているのか、という音が聴こえる。起きてはいるようである。念のため、外出中のお米ことT屋のかみさんに、化粧は薄めに、とメールでAちゃんに伝えてもらう。素人を被写体にする面白さと危険さは充分沁みている。何が起きてもおかしくない。 12時ジャストにAちゃん登場。タクシーにてMさんのマンションへ。『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)は、海岸のシーンはこちらの駐車場で撮影した。二人の漁師が丸太に巨大魚をぶらさげ運ぶシーンも。本日もお借りした和室のゲストルームでは、座敷に巨大魚が降って来たり、人間どもが、河童に化かされ踊らされたり等々撮影した。特に着物のまま海に足下まで浸かったシーンは自分で見ても上手くできたと思うが、どうやったかは思い出せない。 到着すると、今回も着物をお借りし、着付けをお願いするMさんの奥さんが、すでに着物を並べて準備をしていただいていた。用事で一時間遅れるお米の前にお露の着付けをお願いする。問題はカツラである。なかなか上手く装着できず、なんだか不自然だが撮影を始める。演技をしてもらった河童の時と違い、今回は幽霊である、カランコロンと歩いているといっても棒立ちに近い。室内用と角度違いを2種類撮るだけである。手の位置、見つめる場所だけ伝えて繰り返し撮る。次にお母さんのお米。先に撮ったお露に寄り添う想定で。牡丹灯籠を持ってもらう。今回は4秒の露光時間である。河童で懲りた、かみさんのまばたきだが、Mさんにチェックしていてもらうことにした。おかげでほぼまばたきなし。 帰宅後別々に撮った二人を並べた。カツラの不自然さを直すのに手間がかかったが、一眠りして只今完成。後は背景を撮影し、ヒトダマを配置すれば『牡丹灯籠』は完成である。

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私は東京の食べ物はジワリ々と塩分が強くなっている、と20年くらい前にすでに感じていたのだが、特に顕著なのがラーメンである。始めて入るラーメン店では、店主の隙を見てコップの水を加えることが2割ほどもある。猫舌なので平気でしてしまうわけだが、炭坑脇のラーメン店じゃあるまいし、何故あれほどしょっぱくするのか訳が判らない。もっとも、それで良いと通う客がいるのだろうから、私はただ黙って水を加えるだけである。 食べられなくて、一度だけ途中で残して帰ったことがある。それはラーメンでなくチャーハンであったが、トンでもなくしょっぱかった。いちおうレジでは伝えたが、犯人は何人かいた調理人の中の若い中国人だ、と判っていたし、何度か通って始めてのことだったので、もう二度と来るか、とはならなかった。私は腹をちょっと壊すくらいなら、たまたまだろう、とたいして気にはならない。 とここまで書いてきて、東京の食べ物がしょっぱくなったのは、東京オリンピック以降だ、といいたくなってきた。そういうと収まりがいいような気がしただけだが。私のイメージの東京は、1964年のオリンピック以前の東京であり、あまりの変わり様に不感症になってしまったのか、東京に何ができようと壊れようと、ほとんど何も感じない。よく腹を立てている人がいるが、あんたの家の庭木を折られたわけでなし。塩分ではなく甘味でいうと、チクロの味を知らない世代とは駄菓子に付いて語り合う気にはなれない。駄菓子に関しては団菊爺ならぬチクロ爺な私である。 当ブログには良くあることだが、たいしていいたいことがある訳でもないのに、だらだら書いているからこういうことになる。本日はタイトルだけ見ると内容がありそ気なのだが。

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来月10日からの深川江戸資料館のイベント、チラシはいつできるのか、と聞いたら昨日届いたと、送った方がいいか、というので当然でしょう、と返事。私の円朝を使っているはずである。一体目とほとんど同じポーズの円朝の身体を制作中。幕末明治の頃の噺家は現在のように身振り手振りを使わなかったという。まして円朝であるから微動だにせず。ほとんど同じ物を作るのだから、さすがに面白味はない。 サンフランシスコにいる妹からは日本の老人ホームの様々な噂話を耳にするらしく、できるだけ頻繁に母を見に行って欲しい、とメールが来た。母はどの施設にいても、病院に居てさえ楽しそうにしている。しかし一昨日見舞いに行った時、また昼間から寝ているだろう、と思ったら、無表情に空を眺めていた。それを見て私は一瞬言葉がでなかった。母はすぐ私に気付いたが、私は母のあんな表情を一度も見たことがなかった。行けば長くても20分もいれば、もういいからみんなの所へ帰りなさい、という。しかし父が亡くなって10数年、一人で働き暮らしながら、あんな表情を浮かべていたのか、と思ったらこうして書いていてもたまらなくなってくる。私は母のことなど何も解っていなかったのではないのか。 病院としてはしかたがないことなのか、コルセットで動きが制限されている。母が病院の個室に居た時、廊下の向こうまで聴こえる声で歌っていたのを、迷惑だからと止めさせた。次に入所が決まった施設で、みんなと一緒に早く思い切り歌わせてあげたい。

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子供の頃から写生の類いが大嫌いであったが、実在した人物を手がけるにあたり、写真資料を元に制作することを随分長いこと続けて来た。気持ちとしてはすでに亡くなっている人物といえど、本人に見せてウケたいと制作して来たし、ましてご遺族が健在な場合もある。失礼があってはいけない。そこへきて出合ったのが鏑木清方作の肖像画の傑作といわれる三遊亭円朝像であった。私の知る限り、写真に残された円朝と顔が違う。表情も伝えられる人となりとは違う気がする。若い頃の記憶をもとに制作した作品とされてはいるが、それにしても。そこから始まった迷いの日々は、長々当ブログで駄文をさらしてきた。結果、単純にいえば、これが清方の中の圓朝のイメージなのだ。それは残された写真を超えている。 私はまだ黒人の人形を作っていた頃、あるブルースミュージシャンの日本ツアーのポスターの仕事をした。参考用に写真、最新ライブビデオなどが渡され、それを元に制作した。(つもりでいた。)しかしそれらの資料を目にしながら作ったのにもかかわらず、自分の中にある、かつての姿になってしまった。なにしろ髪の長さ体形からして明らかに違う。しかも完成後、知人に指摘されるまでそれに気が着かない私であった。幸い来日時には短い髪で現れ、特に問題にはならなかったが。 その一件で、目で見たことより頭の中のイメージが先行してしまう自分に呆れ、客観性を持たなければならないと反省した。その時の反省点は当然であったし、その後日本人の作家を作るに当たり、良い教訓ではあった。しかしここへ来て出合ったのが清方作の円朝である。 そろそろ作りたい人物が少なくなってきたところに、立体から陰影を消す新手法を試み、おかげでこれなら可能ではないか、と気になり出す実在したか不明の寒山拾得。私はまた行き先の違う電車に乗り換えようとしているのではないか?今までの経験からいけば、なんでそうなのか判らなくても、そんな気がする時は乗ってしまえ、と決めている。幸い私には「無能の人』のように「あんたはなんでいつもそうなの」と泣き崩れる人もいない。

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牡丹灯籠のお露、肝心なことが抜け落ちていた。武家の娘であるから、身だしなみとして、布の袋に房紐の小刀を帯にはさんでいなければならない。小刀は何かで代用するとして、『貝の穴に河童の居る事』の鎮守の杜の姫神様の帯用に入手した金糸を使った布が残っている。後はそれを縛る房の付いた紐だが、古今亭志ん生に背負わせた火焔太鼓にぶら下げた房飾りはあるが、なにしろ売れ残りのボロ太鼓という設定である。確か紅茶で煮たり散々な目に遭わせているので、とても17歳の娘が帯に、という代物ではない。幸い房飾りだけなら、即日配送というサイトを見つけ事なきを得た。私のようにすべて一人でやっていると、ロケ場所探しからなにから、インターネットがなかったら話にならない。 午後、病院から紹介された有料老人ホームへ面接にでかける。入るとピアノの伴奏で老人達が歌を歌っていた。先日、リハビリ施設から断られてしまったが、母は病院がいうほどのことはない、とそこはかとなくアピール。特に問題はなさそうである。母は、ショートステイ、デイサービス、いずれも遠足を楽しみにする子供のように心待ちにしていた。病院でも個室は退屈だ、といっていた。そんな年寄りの話はあまり聞かない。それは実に助かっている。 行きは駅からタクシーで行ったが、タクシーという距離ではないな、と出て来たが、帰りはバス亭もなく、長い日影もない長い道をひたすら歩く。突き当たりを曲がり、と聞くとそこからまた真っ直ぐな道。嫌になった。

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今日も撮影にそなえてT屋にて朝定食食べながら打ち合わせ。Aチャンは寝起きの悪さは小学校以来、相変わらずなのは先日の寝起きの顔を見て判ったので、くれぐれも前日早く寝てもらうよう頼んだ。『潮騒』の初江役を頼んだ長女のAチャンは時間になっても現れなかった。何が困った、といって背景と合成する被写体には、できるだけ似たような性質の、さらに同じ向きの陽を当てることが肝心である。用意した背景の房総風景はほぼ正午の光線であったので、段々傾いて来る陽に焦った。しかも到着したと思ったら、海女着の下に履くズロースを買ってくるのを忘れた、というし、ヘアスタイルは昭和二十年代の田舎の娘にあるまじき様相で唖然とさせられた。その点今回は外光を閉ざした部屋での撮影なので、光に関しては問題はないし、カツラを被るのでモヒカンで現れようが問題ない。 午後母の病院へ。元々は足の炎症、低温火傷、風邪からくる発熱によりでデイサービス施設から入院したのだが、それらはとっくに治っているが、介護経験のある担当医が様々便宜をはかってくれ実に運が良かった。入院もあとひと月を切り、先日私は次のリハビリ施設に面接にいったのだが、後に認知症により受け入れできない、と断られてしまった。たしかに都合の悪いことは忘れてしまったりはあるが、同部屋の婆さん等と違い、日常話す分にはまったく代わりは見受けられない。釈然としないでいると、担当ケアマネージャーが、立場上いえないことではあるが、母のようにかってにナースステーションへご機嫌伺いにでかけてしまうような老人は責任取りたくないので認知扱いで拘束してしまうのだ、と訊いた。そういえば、たしかに一度伝え歩きをして転んで以来、へんなコルセットをしている。母は腰のためにしている、と訊かされている。脚こそ弱ったが、3年前、いくら止めても一人で飛行機で福井にまで行ってしまった母である。こんなことを耳に入れたら大変なことになる。

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一度書いたと思うが、私は小学校から中学にかけて、一連の名作をガロ誌上で読んでいる。当時兄でもいないかぎり、私の世代ではなかなかいないだろう。たまたま立ち読みしていて、白土三平のカムイ伝のくノ一が殿様をかどわかすシーンの、少年マンガとはレベルの違うエロさに買ったのだが、そのうちつげ義春、佐々木マキにはまってしまった。私はそれを小学5年の68年からだと思い込んでいたが、調べると掲載年月日がもっと旧い物まで覚えていたから、もっと前のようである。すべてが印象深いが、当時の私が最も強烈な印象を得たのは『ゲンセンカン主人』である。始めて体験した土俗的なエロテイシズムは子供の私には強烈過ぎた。そんなことばかりいっているが、少年という物はそうしたものである。 多分40年前くらいに青林堂から一冊物の全集を、当時かろうじて在庫が残っていた佐々木マキとともに取り寄せた物を未だに持っていて、たまに開いていたが、80年代の作品である「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る」「蒸発」と続くシリーズ連作を、本日始めて読んだ。笑いどころもあり、60年代作品とは一味違い、実に面白かったのだが、私と全く無縁の世界とはいい難く、妙に身につまされたりして。私に女房がいたら、今度はよりによって寒山拾得?と嘆かれるばかりか箒で掃き出されていたのではないか?最近話題の中年俳優と違って私に女性を見る目があって幸いであった。いや密かに私のブログを読んでいる女性がいて、それはこっちのセリフだ!という怒声が聴こえてきそうなのでこの辺にしておく。

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『牡丹灯籠』背景の撮影場所のロケハン。新三郎の元に通う場面は月光降り注ぐ民家の板塀沿い。これは予定通り。この世の物でないので、月光がいくら降り注いでもお露とお米には関係なし。あの世の物にはこの世の光線で陰影はできない。室内のシーンはある和室のコーナー。お露があの世の物ともしらず待ちくたびれ寝床で寝入ってしまった新三郎の寝顔を、愛おし気に見下ろすお露というところか。お露役の女性大生Aちゃんに、「好きな男がここに寝ていて、それを愛おし気に見つめて?」と説明して仮に「ウン判った。」といわれても、小学生の時から知っているので少々ショックである。大きなケーキがここに置いてあるつもりで、とでもいっておこう。いやホントに置いておくと絶大な効果がありそうである。Aちゃんはまだまだ花より団子だと思いたい。 手前にはこのシーンとは別の存在として手燭を持ち、その灯りに不気味に照らし出される作者三遊亭円朝の顔。ここまで決まれば、問題といえば、お米役のお母さんのまばたき問題だけである。以前懲りたのでいちいち現場でチェックのこと。 もう1カット。10月予定の某オマージュ展用の1カット。和室でしかも障子が不可欠。この撮影場所も決めた。こちらのカットは人形は登場しない。今日は昼からあちこち随分歩いた。

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以前、頭の中のイメージに陰影が無い事に始めて気付いてビックリしたことを書いた。いや陰影だけではない。遠近感だって実際と違うし。ついでに時間についても同様であろう。それを私は、眉間にレンズを当てる念写が理想だといいながら、頭から取り出したイメージを、この世の常識に会わせて加工し、配置していたのではあるまいか。カメラをやり始めて早々、旧いソフトフォーカスレンズやら観たままに写らない古典レンズをh集め、写真の右も左も判らないのにオイルプリントである。私は写真を始めた当初から、頭の中のイメージを取り出す手段として写真を選んだのにもかかわらず、カメラ、レンズという道具の呪縛から逃れようと自分でも判らないままあがき続けていたのではないだろうか。ホックニーの検証した西洋の画家はレンズの力をそれを利点として利用していたが。どうやらここ数年、浮世絵や日本画ばかりが気になっていた理由がようやく判りかけて来た。

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