明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


次号アダージョの人物は熟慮の末、思い切りカラフルな格好をさせることにした。おそらく剣も持たせるから、イメージとしては“オスカル”に近くなるであろう。この人物をテーマに、この格好をさせる人はまず、いないはずである。つまらないことしか思いつかなかった昨日の私にザマアミロといいたい。  夕方K本に行くと、目をつぶって話し声だけ聞いていると、坂上二郎にしか聞こえない80近いSさん。毎年採りたてのピーマンをいただくので、先日、房総土産の鯵の干物を差し上げたのだが、私を見るなり、向かいの小学校からピーマンをもいで持ってきてくれたようである。Sさんは近所の小学校、何校かをかけもち、花壇の花、特に菊や池の魚やウサギを、ボランティアで世話をしているのだが、最近の先生や親に対してよく愚痴を聞かされる。 ピーマンやニガウリもK本の真向かいの小学校で育てているのである。「干物美味かったなあ。頭から食べたよ」。K本で飲んでいても、腹減った、と奥さんの作った夕飯を食べに帰るSさん。奥さんと二人で食べてくれたのであろう。いただいたピーマンは、スーパーの袋に入っていたが、そこらのピーマンとあきらかに違っていて、袋の上から指ではじいても、ビンビンと反動がかえってくる。谷崎潤一郎なら上手いこというであろう。 帰宅後、ピーマンに塩でウィスキーを飲む。ピーマンを手でむしると、バリバリと派手な音がする。それに比べて、午前中にスーパーで買っておいた茹でソラマメは、ソラマメの溺死体の如し。もがれたことに気付いていないようなピーマンと、一緒に食べた私が悪い。

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今日はちょっと美味しそうな刺身を買ったので、早々に飲み始める。友人の演芸、プロレス好きミュージシャンのTさんと、先日リング上で亡くなったプロレスラー三沢光晴についてメールでやりとりをしていた。同い年で、会場でノアの試合を観ていたTさんは、三沢の死について、いまだに気持ちが吹っ切れず、今日は全日時代の、馬場還暦の頃のビデオを観ていたらしい。三沢光晴という選手は、力道山の頃からプロレスを(主にTVで)観てきた私に、プロレスはこれだ、というものを観せてくれた選手であった。 そうこうして、いい気持ちで、インターネットでジャンボ鶴田VSハリー・レイスの懐かしい映像を観る。この時代はまだ、技と技の間に間があった時代である。  父との共通の話題はプロレスしかなく、この頃はビデオの操作が出来ない父のために、よく録画して渡していた。最後の入院の頃、新日本プロレスのレフェリーが、内情を暴露した本を出し、Tさんに借りて父に読ませたのを思い出した。猪木派の父にしてみれば、目を覆うが如くの内容であり、直後に亡くなったことを思えばよけいなことをしたかな、と思うが、多くのまっとうなプロレスファン同様、その本は無視していた。 大晦日に格闘技戦などあると、終ったとたん入院先から電話がかかり、ひとしきり話したものである。父がおそらく猪木の次に好きだった前田日明が『前田日明がプロレスを壊した』なんて言われるけど、そうじゃない、アントニオ猪木が壊したんですよ。タッキーとやった時点で、観客もガッカリしたし、選手もガッカリしたし、俺も涙が出るほど悔しかったよ。猪木さんが何を、金のためにこんなことしてんの』とインタビューで答えていた。私は猪木は、そういうタイプだと昔から踏んでいたので嫌いだったのだが、暴露本について何もいわなかった父が、猪木対タッキー戦を知らずに逝ったのは幸せであった。 東京ドームや武道館など、何度か父と行ったが、見渡しても、こんな老人はいなかった。力道山を“リキさん”という、昭和2年生まれで、戦後の外人=悪役時代を経てなお、最後までプロレス好きだった父は、保守的で面白くも可笑しくもないと思っていたが、実は変わり者だったのかもしれない。私がTVでしか観たことがない国際プロレスを、観たことある、と父が口を滑らせたのは、すっかり痩せた父をマッサージしている時であった。それこそ「聞いてないよ」である。私は猪木派の父のために、馬場派であることを隠し、それを知らずに父は逝ったと何度か書いたが、プロレスしか共通話題のない、訳の判らない物ばかり作っている息子に、気を使っていたのは、むしろ父の方ではなかったか、と思ったら5年前に亡くなった父を思い出しシミジミとした。 父が初めて入院した頃、昔、お笑い番組を観て、大笑いする私と母を馬鹿にしていた父が、唯一笑っていたのが林家三平で、落ち込む父にテープでも聴かせてやりたいといったら、それまで親しくもなかったTさんが、忘れずにダビングしてくれ、Tさんとは、それからの付き合いなんだ、と思い出したらホンの少々泣けた。葬式の時には1滴も泣かなかった私が、ジャンボ鶴田のフロント・スープレックスを観ながら。

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子供の頃からスターなりに苦労が多かったようだが、近年の整形は、プレスリーのドーナツの過食のように、止められる人間が周りにいなかったのであろう。 私は日本武道館で、まだ黒人だったマイケルを観ている。当時『ベン』がヒットした頃ではなかったろうか。1958年生まれだとは意外である。私と1歳半違いではないか。当時子供だと思っていたら、私も子供だったということになる。中村勘三郎が、あの子役だった勘九郎が、なんていっていたら、私より2つ年上だったりもするが。 武道館ではトイレに行こうと館内を歩いていたら、向うから南沙織が歩いて来た記憶がある。遠くのジャクソン5より近くの南沙織というわけで、みんなにいいふらした覚えがあるが、しかし今思うと、一人であんな所をフラフラ歩いているわけがないのではないか。最近はめったに見かけないが、ロングヘアーの真ん中分けの女の子がいくらでもいた時代である。 マイケルのファンらしい友人の女性からメールが着たので、武道館でジャクソン5を観たといったら、彼女は、友達が東京ドームの地主の息子の知り合いで、ドーム公演をタダで観たといわれた。 マイケル・ジャクソンは妙な収集癖があると聞いていたが、エレファントマンことジョゼフ・メリックの骨格標本は入手したのであろうか?日本には最近、一人暮らしが寂しくて、タヌキの置物を15体盗んだ男がいたが。彼は私と同い年である。人は止めてくれる人間が周りにいる間である。

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植村直己は板橋に15年ほど住んだそうである。 この場所にはその昔、板橋の名の元になった太鼓橋があったという。旧中山道は石神井川にかかる橋である。現在はコンクリート製に代わっているが、私がこの場所を選んだ理由は橋よりも、かたわらに立つ道標の柱である。様々な場所にたどり着いた植村の、“地点”のイメージを象徴できれば、と考えたのである。書かれた距離が物足りないのはしかたがない。 世界のウエムラは極地に立ってこその人である。街中に立たせても画にならないし、本人も居心地が悪いだろう。ここに笑顔で立ってもらうにはどうすれば良いか考え、エスキモー犬を登場させることにした。犬はアラスカンマラミュートといって、エスキモー犬の中で最も大型の犬らしい。埼玉県の専門犬舎に御協力いただいた。季節として、毛のボリュームが今ひとつの時期らしいが、実物を見ると、実に迫力があり、今まで見た、すべての犬が霞んでしまう様子の良さであった。 当初、植村には、極地仕様の格好で立ってもらおうと思ったが、背景の樹々があまりに青々としており、さすがに暑苦しい。かといって、普通のアウトドアウェアでは物足りない。そこで白熊のズボンを穿いてもらった。 11号『太宰治と歩く』では、すぐ横に実物の女性の髪があり、一方の太宰の髪があまりに粘土なので自分の髪を撮影して合成したが、今号も周りが純毛だらけなので、同じことをしてみた。植村の独特の髪型は、少しでも寒さに耐えるようにという配慮なのか、どうでも良いかのどちらかであろう。 今号は犬が準主役として華を添えてくれた。私がアダージョの表紙制作を通じて編み出した、“違和感をもって違和感を制す”の典型的な例となろう。

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午前中、パリのシャトレ座をネットで検索していた。ロシアからディアギレフ率いるバレエ・リュスが、ここで第一回公演をしたのが、丁度百年前の1909年である。大変な騒ぎになり、以後音楽、絵画、ファッションと、世界に多大な影響を与えることになる。何回か改築工事がされたようだが、どの程度の改築であろうか。そのあたりも調べないとならないが、様子がそれほど変っていないのなら、ここを撮影し、1909年の『薔薇の精』1912年の『牧神の午後』などの舞台装置を再現して合成し、客をすべて当時の服装に変え、客席のジャン・コクトーの目線から、ニジンスキーの大ジャンプを描いてみることも可能である。 永井荷風が帰国したのが1908年。滞在中なら観に行ったのは間違いなく、ニジンスキーの飛翔について名文を残していたに違いない。私なら、荷風を客席に坐らせ、荷風の眼鏡のレンズに、ニジンスキーを映り込ませることも可能である。1910年ダンヌッツィオが書いた『聖セバスティアンの殉教』で踊ったのはイダ・ルビンシュタインだが、私なら三島由紀夫を客席で、感動で打ち振るわせることも可能であろう。などと妄想していると玄関のチャイムが鳴る。  誰だか判らない場合は居留守を使うが、鍵はかけておらず、風の通りがよいので薄く開いているときがある。ドアを開けて呼ぶのは、近所の工務店のSさんであった。何度目かの入院をし、杖をついて歩き、話す声も元気がなく、心臓が悪いと聞いていた。ところが今日の話では違っていて、正月江戸川の寿司屋で飲みすぎ、腰のあたりを骨折したらしい。階段に腰掛けるつもりが階段がなかったといっていた。声も出てる。「じゃあこっち、駄目になったわけじゃないんだ?」と呑むカッコの私「あたりまえじゃん、コルセット取れたら呑むよ」いやよかった々。と、ここまでは良かったが、この70半ば過ぎの老人、行きつけのK越屋にもいけず溜まっているのだろう、話が長い。そこから保険屋とのいさかいの話が始まる。私は何故こうも相槌を打つのが上手いのであろうか。話が終りそうになると「そういえば」を3回はくりかえしたろう。今年はハゼ釣りして、K越屋で飲みましょうということで、ようやくお開き。 『判りました。シャトレ座もルビンシュタインも今日は止めとくよ』。粘土を取り出し制作を再開した私であった。

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アダージョ8月号のロケ場所が決まる。  以前も書いたが、人物に縁があり(たいして無い場合もあるが)特集される都営地下鉄駅に近い撮影場所を探すのに、インターネットは実に有り難い。今では、よほどのことが無い限り、現場に出かけることなく決める。その間、関連したキーワードをひたすら検索し続けている。今回は早々に、人物にちなんだ場所を見つけたが、最寄が都営線の駅かというと、少々怪しかった。そこで本日、作品に登場する場所を見つけ、ここなら画になり問題もないと、一度は関係各位に報告したが、引っかかっていたのは、この場所なら、もっと相応しい人物がいそうだし、私としては“普通過ぎる”。いや、普通で悪いことはないし、今月25日配布号が、かなりの変化球を使ったので、次の人物はギミックなど使わず、直球で行きたいと考えていたので、充分なのだが、人物を直球でいくぶん、背景にもう一つ、何かが欲しかった。そう考えた矢先、この人物以外に使いようがない場所を見つけた。歴史その他調べるほど、ここ以外にない。特集予定の都営地下鉄駅より、直線距離にして5、6百メートルと、その点も申し分ない。編集長からも「どんぴしゃ」だとの返信。この場所の良いところは、人物の年代、服装など、選択の余地がある、ということである。それを踏まえて制作することにする。  ネットオークションで落札した資料用書籍、煙草臭くて閉口す。

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一日  


田村写真の田村さんに先日、レオニード・マシーンのサイン入り写真を落札してもらった。 サイン入りのが何がいいかというと、私にしてみると、本人が間違いなく触った、ということである。そう思って、マシーンがディアギレフやストラヴィンスキーと並んでいる写真を見ると、なんとなくリアルなのである。オークションでもディアギレフの写真は見たことがないし、ニジンスキーともなれば、一度入札したきり微動だにせず、かっさらっていく人物がいる。比較的入手しやすいのは、ディアギレフ以降のバレエ・リュス関係者であろう。もっともこれはこれで、ハリウッドのミュージカルで活躍でもしていたら、落札額は上がる。 『赤い靴』におけるマシーンは、なんだか変わった人物のように見えるし、当然ニジンスキーのように惹かれることはないが、ディアギレフがコクトーに「私を驚かせてみろ」といわれて作った『パラード』 1917年パリ・シャトレ座で初演。 作曲・エリック・サティ、舞台美術と衣装:パブロ・ピカソで、振付出演したというだけで十分な役どころではある。両生類チックな顔は、いずれ作ってみたいものである。
『乱歩 夜の夢こそまこと』より、『人間椅子』と『白昼夢』をアップした。没カットを並べてみたり、構成を多少変えてみた。『白昼夢』は屍蝋化した首が入ったガラスケースを乱歩が覗き込むシーンで、ガラスへの写りこみも作ったが、書籍では、ページの境目のため、よく判らなかった。せっかく作った部分は見てもらいたいものである。
http://www.kimiaki.net/rampo-yym.htm

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HPのデザインからすべて換えることなど、とても無理だが、乱歩のページなど散らかっているので多少整理をしている。『乱歩 夜の夢こそまこと』の中から代表的なシーンを載せたり、以前作った、制作当時の雑記を作品ごとにまとめたページなどを並べている。そうしていると、つい読んでしまって、馬鹿々しいことを楽しそうにやっていて、自分ながら羨ましくなる。 当初たんに作品集ということだったのを、私が乱歩だけで、と編集者に進言したのだと記憶している。私は最近はほとんどやらなくなってしまったが、当時まだカメラを右手に人形を左手に撮影しており、単に手前にあるものが大きく写ることを利用しているにすぎず、本となれば、毎ページ人形が手前にあるようではもたないと、フォトショップによる画像合成を始めたのであった。 合成用の画像を切り抜くため、ベジェ曲線というものを使うが、私はこれが理解できずに、画像を拡大して、プチプチプチプチと一つずつマウスをクリックして切り抜くという、恐ろしく手間と時間のかかることをしていた。モニターを長時間見ていても疲れないからいいようなものの、気がついたら歯を食いしばってプチプチとやっていた。ついこの間の話である。しかし、この泥臭いやりかたこそが、乱歩の作り物めいた世界にマッチしていた。  私も乱歩も(といってしまっては乱歩先生に申し訳ないが)自分のイメージしたリアリズムさえクリアすれば、あとはどうでもよく、ホントウのことなんてどうだってよい、というタイプである。ほとんど浮かれているような制作当時の雑記を読んでいると、私は江戸川乱歩専門で一生終えてもいいのではないか、と、つい思ってしまうくらいなのである。

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材料を買いに御茶ノ水に行く。 知人から、ギターは誰かターゲットを絞って練習した方がいい、と聞いたのを思い出し、昔から好きなブルース・ミュージシャンのCDを買う。映像で観る限りそのミュージシャンは、一定のポジションから指がギターの指板上を、あまり移動しないので、比較的楽そうだと思ったのだが、よく考えてみたら、狭い音域にかかわらず、聴いていて飽きないのは、その分、そのポジションの範囲で色々やっているわけで、簡単なことなど一つもないのであった。誰のCDを買ったかは書かないでおく。 中学生に混じって教則DVDを物色する。私が彼等の頃には勿論ビデオはなかったし、TAB譜もなかった。懇切丁寧に解説する雑誌などもないので、キース・リチャーズのチューニングも知らなかったし、レゲエはレガエだった。 帰宅してさっそくDVDを観る。今回は入門用と表示されている物を購入したが、結局、そこそこ弾ける人が、そのジャンルを入門するならば、というものであった。またやってしまったようである。  一生の間にできること、身に着けられる能力、それにより味わえる快楽には限りがあると私は考えている。作品制作に集中している時、楽しいことをあえて避けるのも、創作による快楽が減るような気がするからである。世の中には、やれば楽しいことはいくらでもあるだろうが、いちいち飛びついて、限られた能力を消費するわけにはいかないのである。人は欲張って、あれもこれもと欲しがり、手に入らず不満を持つものだが、そう都合よくはいかない。凸っぱった分、凹まなければならないし、凹んだ分は、凸っぱれもしよう。つまりギターなど上手くなったら、その分、私の作品制作に差しさわりがでてくるのである。 とでも思わないと、一向に上達しないギターの腕前に納得がいかない。

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HP  


gooブログはアクセス上位10000件以内になると表示されるが、数日、間を空けて昨日アップしたら、8868 位 / 1246980 になってしまった。きっと制作に没頭してると思ったら、という方もいるに違いない。もう少し体裁の良いことを書かくべきだったと、後になって思うのである。今回の房総行は、雨に降られることを前提で出かけたので、はなから飲酒に耽るつもりでいた。次回は同行する人物を厳選し、旅日記の品位を保つことにしよう。  最近は更新といってもブログばかりで、トップページのカウンターはあまり意味がなくなっている。そろそろHP全体のリニューアルを、と考えるのだが、いつのまにか膨大なデータになっており、なかなかその気になれない。10月には神奈川近代文学館で『大乱歩展』もあるので、それを記念し?まず乱歩のページあたりから整理してみたいと考えている。『乱歩 夜の夢こそまこと』(パロル舎)で制作した作品も、そろそろ載せてもよい頃であろう。たとえばデザイン上、ほんの小さい扱いになってしまった『盲獣』の、風船に結び付けられた切断された脚が、浅草寺上空を浮かんでいるシーンや、肝心な部分がページの真ん中に来て判りにくい作品なども載せてみたいと考えている。 乱歩といえば、最初に制作した気球にぶら下がった乱歩は、最初に完成したプリントを見たとき、あまりにイメージ通りだったので驚いたのを覚えているが、縄梯子の先5メートルほどに気球という設定で、実際は乱歩の肩のほんの先に、小さな気球が乗っているにすぎない。拙著では、自室に置いてあるところを小さく載せて種明かしをしているが、自分で制作した作品を自分で撮影する中でも、パースをつけて撮影用に特化した立体を作り撮影するという、もっとも特徴的な手法でもあり、構造上、そのままでは展示できず、展示の機会もほとんどないので、そんな作品も載せてみたい。

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喉は回復せず相変わらずである。港に向い、蕎麦屋で昼食。日本酒で天麩羅。昨日盛り蕎麦を食べたが、大盛りを頼んだら3倍はある。ゆっくり食べたらとても食べきれない量であった。アジの干物でも買って帰ろうと、500円を落とした魚屋へ。すると、すぐそばで道路工事してる人に、わざわざ頼んで下水の蓋を開けて貰ったそうで、無事に500円玉戻る。魚屋では大量の海水を流すためであろう。たった一日で酸化してまっ黒。ついでに救出された硬貨を見ると、1円など変形までしていた。お礼に干物500円分追加する。 今回最終日こそ念のために駅で傘を借りたが、使うこともなく天候には恵まれた。帰りは面倒になり、鈍行で寝て帰った。  帰宅後メールを簡単にチェックしたあと、すぐに三沢光晴の件を検索する。なにしろ受身に定評があった三沢がバックドロップを受け損なって死ぬとは信じられない。受ける前に、すでに何か起きていたのではないだろうか。バックドロップを受けた後、首を振り、ダメージの回復を待つ三沢は見慣れた姿であったが、実際相当悪かったのであろう。プロレス界をまとめる為には、不可欠な人物だったので残念である。ネットで、リング上で突如、2代目タイガーマスクのマスクを脱ぎ捨てたシーンを見て懐かしくなった。 5年前に亡くなった父とは、唯一の共通話題がプロレスであった。今回の件は、生きていたら真っ先に話し合ったはずである。当たり前なことしかいわない父は、いいそうなことが想像つくので、亡くなった今でも気分はあまり変わらないと思っていたが、今回の件は、なんというか浮かんでこなかった。 合掌。

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朝から酒が不足だと、自転車でコンビニへ買いに行くE。こんなところまで来て、ちょっとでもシラフでいたくないらしい。冷汁の残りなど、軽く朝食を済ませ、家にばかりいても、と黒滝を観に行く。何十年ぶりに見る蝦蟇蛙。濃いオレンジ色の模様が鮮烈。 海岸沿いの道に戻り、江見方面に。カネシチ水産で再びアワビの肝刺し、コチ、キンキの刺身で飲む。初日もここに連れてきてくれれば良かったのに、と約束の時間に到着しないで、予定を立てさせなかった男が勝手なことをいう。 そこに同じマンションのYさんより電話。まだ房総にいると答える。そして昨日、三沢光晴がバックドロップを受けて死んだことを聞きショックを受ける。TVも観なかったので、全く知らなかった。 Eは30センチはあるヒラメなど、土産を買っているが、私は風邪なのか、咳が止まらず面倒になり、もう一泊することにする。コンビニに寄り、車中用の酒等買うE。嫌にノンビリしているな、と思ったら、酔っているので時間の感覚がおかしくなってる。まだ大丈夫、といってるEの後ろで動き出す外房線。次は一時間後である。和田浦駅で自転車を返すと、この一時間待つ間の酒がない、といいだすE。ふたたびコンビニに買いに戻る。酒に関してはやたらマメである。駅内のベンチで待っていると、よろよろヘロヘロ帰って来たEの目前に中学生が興じるサッカーボールが転がる。「オジチャン上手いんだぞ」いうが早いが、キック。あらぬ方向に飛んでいくボール。「この辺りの子供は素朴でいいや」と笑っている。その素朴な子供たちに、このオジチャンがどう見えるか聞いて来い、といいたい。さらに駅構内のレンタサイクルや観光案内などしている女性に、「あの、ちょっと聞きたいんですけど」。すると私に向かって「俺、今何聞こうとしたんだっけ?」「知るかよ!」 ヒラメと車内用の諸々をぶら下げ、よろよろニコニコしているEを見送り、とっとと別荘に寝に帰った。コンビニで買ったスポーツ新聞には三沢のことが出ていなかった。

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Sと入れ違いにEが来る予定だが、3人で昼食を、と考えていたので、前もって到着時間を知らせよ、といっておいたのに案の定連絡がない。ようやく通じたと思ったら、出発が遅れたという。その声はろれつが回っていないように聞こえる。しかたないので和田漁港でも散歩しようと出発。さらに、トラックが線路に侵入したとかで、到着が遅れるというので、SはEの顔も見ずに帰った。15分後にようやく到着したE。足元がおぼつかないように見えたが、聞くと、朝から一滴も飲んでいないという。それはそれで問題だろう。 和田浦駅でレンタサイクルを借り 漁港にある蕎麦屋で蕎麦を食べ、刺身を頼むとアジ。地元の人間が利用する小さな魚屋に案内する。青魚はここに限るのだが、運悪くアジばかりでEの好きなイワシがない。アジは食べたばかりなので、和田浦駅近くの魚屋で塩焼き用のイサキなど買う。支払いの時、500円玉を下水の蓋の隙間から落としてしまう。見えているが、分厚いコンクリート製の蓋なので断念。魚屋の小母さん、「拾えたら置いとくよ」。  別荘に到着そうそう、さっそくイサキの塩焼き、かつお、金目の刺身、イカの沖漬けで『寿萬亀』。本日も遅くまで盛り上がった。 豪快に見える、もしくは見せたい人物は、小心者だと相場は決まっているわけで、こういう男には、木造家屋の軋みがラップ音に聴こえる。布団も敷いておいたのに、TVを着けっ放しでリビングの長椅子で寝るE。 

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昼すぎ東京駅でSと待ち合わせ、わかしお11号で房総に向かう。車中、飲みながら他愛のない話に終始する。 江見で降り、スーパーで買い物。歩いて『カネシチ水産』へ。アワビの肝の刺身でビール。イカの沖漬け、釣り金目鯛の煮付け、刺身など買う。スーパーの配達の車に乗せてもらい、和田町の親戚の別荘へ向かう。 夕焼けの太平洋を観ながらベランダで房総の酒『寿萬亀』。  日が暮れてきた頃、恐妻家のSに奥さんから電話。通称パットン将軍の着信音、ゴジラのテーマに笑う。例によって、電話に出てくれと携帯を突き出すS。お宅の二等兵と房総に来て、確かに酒を飲んでますと証言する。ついでに今度是非ご一緒に、と心にもないお愛想。私は友人の結婚は、一応友情をもって止めることにしている。そうしておいて、S版『与太郎戦記』“将軍と二等兵の日々”を聞くのは格別である。この芸も数年経てば、さらに磨かれ、完成度も高まることであろう。 熱くも寒くもなく、気持ちよく夜中まで痛飲す。

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拙著2冊でお世話になったデザイナーの北村武士さんと久しぶりに会い、神楽坂で飲み、その後T屋にお連れした。しかし結局、常連の波に飲み込まれ、四の字固めは本当に痛い、とかブレイン・バスターは、キラー・カール・コックスだとか、あれは投げられる吉村道明が上手い、あの試合はガチだった、お前は解ってない、石松の幻の右は、チャチャイ・チオノイは、などと今どきにはあるまじき盛り上がり方に、北村さんを呆れさせる結果になってしまった。神楽坂の気取った店と違った雰囲気を味わってもらおうという私の意図を超え、ブレイン・バスターの落差となってしまった。  帰宅すると、アダージョのライター藤野さんから、8月号の人物用にと、デスマスクの画像が3カット送られてきた。これは有り難い。肉付きは落ちているので参考にはならないが、骨格はむしろあらわである。当時くり返し書いたことだが、夏目漱石を作った時に、漱石の写真の鼻筋に修正の跡を感じ、危険を回避するためアダージョの表紙では正面を向かせたが、江戸東京博物館で直後に催された漱石展に出品されたデスマスクは、はたして、大変なカギ鼻であった。当時の写真館の写真師は、鉛筆一本でガラス製のネガを修正し、痘痕を消したり肌に艶を与え目を見開いたり、写真の技術というより修正の技術により、繁盛するかが決まったという。漱石の写真はフィギュアの原型師がパテで盛ったくらいの修正である。本人の許可なく修正を加えたとは思えない。私は漱石本人による指示だろうと考えている。これはあくまで私の想像の域を出てはいないが、少なくとも私の中で夏目漱石は、“写真館で鼻筋の修正を依頼するような男”というレッテルを貼られてしまっている。もっとも、それをコソッと依頼している文豪のイメージは決して悪くはない。それとも案外、明治時代は堂々と、男がそんなことを依頼するような風潮でもあったのであろうか。

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