明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ヤフオクで落札した物が届く。箱から取り出すとかすかに動き出した。死んでいると思った食材を取り出したらまだ生きていたような感じで妙な気分である。心臓部を取り出し、撮影用に息の根を止めて使うつもりであったが、その動きを見たらもったいないような気になり、取りあえずはそのままにしておくことにした。これで川口で鍛造をやっている友人に、良く切れそうな刃先を作ってもらおう。これで1作品は目星がついた。完成の暁には4、5カットはものにしたい。 建物の全景が写った風景を撮影するため、建物を作る、などと書いてしまったが、仮に建物を作ったとして、それをどう風景と馴染ませるか。これは難しい。風景自体が国内に在りそうにない。三島の金閣寺も撮りたい角度は池からや、上から撮りたかったので20数センチの模型を使ったが、今回はさらにリアルでないと切迫感が出そうにない。 学生時代の試験中。日頃の不勉強のせいでこの科目、せめて一日でも励んでおかなければならない。だが眠い。今日寝てしまったら、追いつめられた明日の私は勉強しないはずがないだろう。ならば明日の私にがんばってもらおうと眠りについた。その調子で、数ヶ月後の私に委ねることにしよう。しかし当ブログでは、糠床だったり熱帯魚だったり、いつの間にか触れなくなった話題も多い。触れなくなったら試験中、さらに追いつめられた明日の私のようなことになった。ということである。

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ネット上で肖像写真をさらに見つけたので、計4種類のようである。5種のようにも見えるが、それは写真を元に描かれた画かもしれない。 私は散髪といえば床屋など行かず、自分で髪をつかんで、はみ出した部分を切る、というような有様で、髪の分け目がどうの、という人間ではないが、制作中の人物は時期により、左右両方向に分けていたようである。先日ダゲレオタイプの左右逆像について書いたが、その点を注意して観察すると、そういうことになる。一般的に分け目というのは気分によって変えるものなのか私には判らないが、紛らわしくもこの人物はそのようである。いずれにしても、今は裏焼き写真でなく正像かどうかは、服のあわせを確認するまでもなく、その曲がった鼻筋で判別がつく。しかし顔全体がこれだけ曲がっていると、左右様々な印象の違う肖像画があって当然であろう。 今回も動物が登場する。知人の飼っているものでまかなえるものと、そうでないものがある。『貝の穴に河童の居る事』の時は、ミミズクをどこに撮りに行こうかと思っていたら、ごく近所に猛禽類のカフェができてしまった。さすがに今度はそんな都合の良いことが起きるはずもない動物だが、それは多摩動物園に居ることが判っている。撮影するのが楽しみである。 問題は建物全景が欲しいのだが、洋館はあってもイメージに合う物がない。無い物は撮れないのが写真である。私の理想は外側にレンズを向けず、額にレンズを当てる念写である。自分で作るしかないだろう、 

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制作中の人物は、ネットで肖像写真を検索したかぎりでは、今の所3種。ただ1カットは、修正を加えたため別カットに見えるだけのようにも思え判然としない。作るぶんには、残された写真が1カットでもかまわないが、想像で作っていたら、後から別角度からの写真が出て来て、想像が外れていた、というのが困るわけである。よって出来るだけ目を通しておきたい。それにしても少ない肖像写真から、それの左右逆像、またそれに修正を加えた物から、様々な肖像画、イラストレーションの類いが生み出されているのには驚かされる。中には左右逆像を反転したつもりで、反転しましたと断りながら、ご丁寧に逆像に戻しているサイトもあった。しかし松尾芭蕉を作ったおりに、芭蕉とじかに接した3人の弟子が描いた肖像のみを参考に制作したのと同様、よけいな制作物は一切排除しなければならない。 先日奥さんが留守のお宅に4人でお邪魔したK2さんが、TOTOを観た帰りだとT千穂に。奥さんに内緒なので、半券は捨てて帰らなければならない。御馳走になったワインやウイスキーの礼をいうと、あのワインは何かのおりに奥さんと飲もうと、10年も大事にとっておいた物らしい。空き瓶は始末したが、頼んだピザの箱も見られているだろうし、どう切り抜けるか策がないまま、山登りに出掛けるという。こうなると2軒目では、K2さんが同じ大学の後輩である奥さんの憧れの存在だったとか、その後に続く愛妻物語の、少々胃にもたれる話を聞かされるのも我慢しなければならない。そんな愛妻ならとっとと家に帰ればいいではないか、という話だが、例によって本日も、アルコールの力を借り意を決したように、かつて奥さんに憧れられた先輩は、重い足取りで帰っていった。

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一日  


頭部を作る場合、集中しすぎると客観性を失い、あらぬ方向にいってしまうことが多い。そのためには目を離すことも必用である。煙草を吸っていた頃は、煙草を吸う間が丁度良かったのだが。そこでギターを横に置いて、合間に練習することにした。そもそも私のギターの腕が上達しないのは、ろくすっぽコピーをしたことがないせいであろう。そこでインスト曲を決めてコピーを始めた。名人上手の類いは避け、スローテンポな曲と考え、ピーウイークレイトンを選んだ。となると凡そあれだろう、ということになろうが、自分のことを考えると果たされない可能性が高いので書かないでおく。ただ問題は、煙草の場合は自然と吸いたくなるが、ギターはそう都合良く、制作の途中に弾きたい気持ちが湧いてこないので、人形一体完成する頃には一曲弾けるようになる、なんて訳にはいかないだろう。 先日ヤフオクで探していた撮影用の小物を無事落札。1200円。撮影用であるから動く必用もなく、始めからジャンクで結構というわけでこちらの方は目論み通りであった。そして今回もある動物が必用である。私は向田邦子を制作した時、猫を粘土で作った。実に不細工である。これは本物を使うべきであった。特に毛がいけない。そこで植村直己で本物を使ったら、純毛が横にいるせいで植村直己の毛がどうにも粘土である。ベランダで自分の髪を撮影して貼付けた。太宰の時もそうであった。今考えると得策という気はしないが、植村直己に板橋を歩かせろなどと、無茶振りされる分、それにかこつけ普段やらないようなことを試した。この動物に関しては、フェイスブックで知り合いが丁度良いのを飼っているのを知ったので、なんとかなりそうである。

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参考にする写真がモノクロの場合、間違いが起こりやすいのが陰である。カラーであれば、陰の中に色が含まれているので判別がつくのだが。制作中の人物の場合は鼻の下の髭が紛らわしい。上から覆いかぶさるような鼻が作る陰を、案の定、これをすべて髭だと勘違いしているイラストが多い。夢野久作といえば良く目にするのが、細い煙管状のパイプをくわえた写真である。いかにもドグラマグラ的怪人物に見えるが、意識して写真的効果を取り除いて眺めれば、私にはただノホホンとした穏やかな人物にしか見えない。大判のカメラで、妙なことが起こりやすい古典レンズで、光と陰を観察したことが役に立っている。

本来休みの日は飲まないK2さんがK本で、ホッピーの瓶を並べている。ここのホッピーや酎ハイは、そこらの居酒屋とは大違いのアルコールの含有量である。聞くと奥さんが留守だから。という答えであった。先日、山帰りの重い荷物を背負いながら家に帰ろうとしないと書いたが、今日はそういう訳でどこへも寄らずに帰るという。私の友人で、奥さんや娘が留守の日は、まず全裸になる、という男がいるが、それがどれだけ自由で清々しいことであるか、残念ながら私には想像がつかない。そこで総勢4人で留守宅にお邪魔することになった。“鬼の居ぬ間の洗濯”の洗濯とは命の洗濯をさすらしい。川沿いをヨロヨロ歩くK2さんの後ろをついて歩く。以前私の個展に、前日に川に落ちた、といって痛そうにして来たが、家に帰るくらいなら川に落ちた方がマシ。とでも思わないかぎり、どうやったら落ちるのか、という人工的に整備された場所であった。お宅では美味しいワインとウイスキーを御馳走になる。K2さんの清々しさが我々に伝わるせいか、楽しく過ごしたのであった。

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制作を始めた人物。それにしてもなんでこんなに鬱屈した表情をしているのか。ダゲレオタイプの場合、現在より露光時間が長い。よって子供や動物の写真はブレてしまって上手く撮れない。逆にいえばこの人物は、たまたまではなく普段からこんな顔だったといって良いだろう。私はこの人物が実際、鬱屈を抱えた人生を送ったことを知っているので、さもありなん、といった所ではあるが、わざわざ写真スタジオに出向いて撮影したのだから、チーズとはいわないまでも、なんとかならなかったのか。じっとしていようと思ったら、こんな顔になってしまったのだから、やはりこれが普段の顔なのであろう。 しかし肖像画の類いを見ると表情は穏やかで柔らかい。こんな時期があったのか、画家のサービスだったのか。この作家の10年ちょっと後に生まれたドストエフスキーは、写真を見ると目は虚ろで口は半開きで髭はすだれ状態。文豪のイメージとはちょっと違う。ところがやはり肖像画は文豪調になっている。私の場合も、ここで文豪然としてくれなければ画にならないので、ボクサーに付いたセコンドよろしく、気付のアンモニアを嗅がし、さらに闘魂を注入してみた。『偏愛記 ドストエフスキーを巡る旅』 しかし前にも書いたが制作中の人物は、これから私によってそうとう酷い目に遭うので、鬱屈した表情は好都合ということになる。始めから『オ願イダカラ、ソレダケハ許シテ』。という顔をしている。

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町工場や廃炭坑など、さまざまな“撮影用部品”を探していたが、イメージ通りとはいかず、昨日その代用となりそうな物を思いついた。小さなそれを拡大して使おうというわけである。ヤフオクに複数出品されており、朝までかかって幾つか目星を付けた。なにしろガラクタであり二束三文である。完動品である必用はなく、ジャンクで充分。撮影効果を考えるとボロい方が良いくらいである。 今まで鳴らない破れ太鼓など一カットの為に、随分ゴミを入手してきたが、これでどこか遠くの廃工場などにロケに行かずに済んだわけである。それに「この場所知ってる」。なんていわれずに済むのが何よりである。カメラなど持つと、自分は安全な生活を営みながら、とかく腐ったような物を撮りたがるものである。それはともかく。 私はこうしてできる限り、有りもしないウソを作り飛ばして死んで行くつもりである。そう考えただけで物心ついた頃からお馴染みの快感物質が私を満たしていくのが判る。私はおそらく何か表現したいとか、残したいとか、そんなことより、まずその快感物質をむさぼりたい。その一心なのであろう。こんな生まれつきのことは私には全く責任がないと考えている。 制作を開始した人物は酔っぱらいである。何カットも撮影しようと思うと、少なくともほろ酔いと前後不覚状態の表情は必用であろう。先日も書いたが駄目人間のデータはもう沢山、というくらい私は保有している。であるからして、洗面所の鏡も見ないようにしているのはいうまでもない。

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朝起きて、ハイパス用コンデンサーをギターに装着。なるほど。ボリュームを絞っても高音域が保たれる。配達中であろうギター仲間のトラックドライバーSさんと、高校時代の友人で精神科の医師のAにメールで結果を報告する。診察で忙しいAはメールの返事は遅く、よこさないこともあるが、ギターに関する返事だけはすぐに帰ってくるのが可笑しい。 そういえば本日、以前メールをいただいた方だと思うが、次回スタジオに入る時に、ドラムで参加したいという奇特なお申し出をいただいた。いやはや大変有り難いことではあるが、我々がどれだけ下手糞であるか、その点を全く御存知ない。下手糞加減を説明しようと思えばいくらでもできたが、都合の悪いことは書かないのが当ブログであるし、自分はともかく、他の連中の下手さを書き連ねるのは気が引ける。だいたい私にしてからが人見知りだが、最初にスタジオに入った時、Sさんは長い時間をかけてギターのチューニングを済ませると、あとは時間終了まで首をかしげながら、持参したアンプのツマミをただ捻って終わった。よってせっかくではあるが、お断りするしかないだろう。同レベルの下手糞が肩寄せ合って集っている訳である。

昼食を済ませ、ようやく新作の頭部を作り始める。開始までが実に長かった。しかし完成後の撮影に関しては、どうやって撮影するか、また撮影用の小物はどう調達するか、随分前から考えていた。本日もこんな設備がある場所はないか、とネットで検索したり、友人に問い合わせをしていた。なかなか見つからなかったが、ある物で代用することを思いついた。私はこういう時、いかにも閃いた、という顔をするらしい。

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人物を制作する場合、当然写真資料を参考に作るわけだが、ネット上の画像はもとより、書籍に掲載されている写真でも、存外多いのが裏焼された写真である。つまり左右が逆になった写真である。写真師による夏目漱石のワシ鼻の修正を見破った私であるから、髪の分け方、さらに洋服のボタンなどチェックするのは当然のことである。本日から作り始めるはずの人物をネットで検索してみると、それこそほぼ半分といってよいほど左右様々である。こんなひどいのは始めてである。これには原因があった。 この人物の肖像写真といえばこれだろう、というウイキペデイアにも使われている画像を眺めていると、外套のボタンが左側に着いている。ところがそれに書かれた“Copyright ”の文字は正像である。これが実は間違いの元である。田村写真の田村さんに見てもらうと、時代からするとダゲレオタイプだろうとのこと。つまりダゲレオタイプとしては正しい。当時は写真は鏡に写ったように逆になるもの。それが常識である。それがどうしても我慢できない、たとえば日本の侍の中には着物を逆に着、刀も逆に差して正像に写ろうとする人達がいた。武士の魂を逆に差す訳にはいかないというところであろう。 私はある有名作家のお宅で、この人物像を2種目にした。一つはブロンズ、一つは陶製のトロフィーである。どちらも髪の分け目が逆の、ダゲレオタイプを鵜呑みにした逆像であった。つまりトリックを考える人達が、こんな単純なトリックに引っ掛かった像を貰っていた訳である。髪の分け目が左右逆なだけだろう、などと思うのは大間違いである。隣の人の鏡に写った顔を見れば、そこには見慣れぬ人がいる。特にこの人物、かなり顔が歪んでいる。鼻筋もやたら曲がっているので逆像ではまったく違う顔なのである。どいつもこいつも世界中、シビアさが足りない連中ばかりである。 さて私はというと、今日始めて左右反転した実像を知った。しかし逆像が頭にこびりついてしまっているので、制作に入るには一度アルコールできれいに拭い去る必用があるだろう。そんな荒療治が必用なんて、何かを作るというのは大変なことであるなあ。制作開始は明日からにしよう。シミジミとしながらK本の敷居をまたぐ私であった。

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制作中の人物は誰か。当てていただいた方に小さなプリントをお送りすることを何度かやった。フリーペーパーの『中央公論Adagio』の表紙を担当している頃だった。配布するまで、誰を特集しているかいえないので、例えば現在世田谷文学館に展示中の『円谷英二と勝どきを歩く』であれば、勝鬨橋を大ダコが襲っている場面を作るにあたり、ある海産物を入手。などとブログに書いては、想像していただいていたわけである。しかし今度の新作は、自主的に作る訳だから内緒にする必用はなく、ブログで奥歯に物がはさまったようないい方をせず、誰を作ってます。といいながら作ればいいわけである。しかし正直、なかなか決心がつかなかった。いえばやらない訳にはいかなくなるだろう。もっとも、作るといいながら止めていることはある。ブログを以前から読んでいただいている方はご存知だと思うが、例えば内田百間の『ノラや』を本物の猫を使って制作しようと考えたが、この構想が、昨年の写真絵本ともいうべき『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)に取って代わった。その返す刀で室生犀星の『密のあはれ』を本物の金魚を使って制作しようと考え、金魚の人間バージョンの娘に当たりをつけていたが、あまりにも具体的にイメージが浮かび過ぎて、かえって何か足りない物を感じてしまい、今の所棚の上に置いている。やはり結果が見えない物にチャレンジしたほうが歯ごたえがある。それにもうひとつ。私はどうも、マイナーな作品ばかりやりたがる、と思われている節がある。決してそういう訳ではない。 あまり奥歯に物を挟みながらのブログは面倒である。早々に制作中の人物についてああだこうだいいながら作りたいものである。おそらく明日から着手することになるだろう。

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一日  


午前中はエレキギターのコンデンサーをビンテージのワックスに覆われた物に換える。なんでこれで音が変るのか、理屈がさっぱり判らないが間違いなく変る。ピックアップを換える前に、まずコンデンサーであろう。それにしても自分の不器用さが嫌になる。半田ごてで配線の覆いを溶かしまくり。一本のギターは部品が細か過ぎて降参。 夕方トラックドライバーのSさんより飲酒の誘い。日曜のこういう場合、Sさんの先輩のKさんを呼ぶのだが、聞いていて面白くも可笑しくもない女性の話しかできない酔っぱらいの爺いはほっといて、ギター談義に花を咲かせることにした。彼は私より8歳くらい若いが、なんだか高校生に戻った気分でああだこうだ喋るのが楽しい。Sさんにしても、飾ってばかりだったギターをスタジオで一緒に弾くようになり、競馬、パチンコをすることがめっきり減った。良いことである。 居酒屋で飲んでいると最近特によくあることだが、焼酎が薄くて終盤にさしかかると飲みながら同時に醒め始め、こうなるといくら飲んでも無駄である。店を出た時にはすっかりシラフ。今日は何もせず寝るつもりでいたが、しかたがない。新作のイメージを考える。 今回は撮影効果を考え、河童の三郎に続き髪を繊維にすることに決めている。シチュエーションに応じ、髪の変化が効果を生むはずである。それというのも、今度の人物は自分が書いた作品のおかげで、私に酷い目に遭わされる予定である。大変なピンチに陥るはずで、髪が整髪されたままで居られるはずもなく、いかにピンチを迎えているか、その乱れ具合が表してくれるに違いない。それはあくまで撮影用であり、その状態では外には出さない。もう一つ。長年使い慣れた粘土を、肌の露出部分に限り、肌理の細かい粘土に換えることにした。

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世田谷文学館の展示も始まり、これでようやく新作に取りかかれる。海外の作家であるが、久しぶりにクイズにして、と思ったら作リ始めてもいないのに、すでにお二人に当てられてしまった。冗談をいう前にオチをいわれてしまったようで実にカッコが悪い。この人物は酔っぱらいで有名だが、その類いは毎日のように観察しているので、私の中にはデータで溢れている。昨日観察対象となった人物は大きなザックを背負っての山帰りであった。仮にK2さんとでもしておこう。近所なんだから家に荷物を置いてから飲めばいいじゃないか、と思うのだが、とにかく帰らない。帰ったと思ったら戻って来る。家にはそうとう怖い物がいるという噂であるが、それと目が合うと石にされてしまうらしく、目撃例は少ない。無事帰った報告も、かなり酔っぱらってからしていた。おそらく遭難したことにして行方不明になってしまおうか、と迷ったせいであろう。 ベロベロである。そろそろ帰った方がいいと、みんなにいわれても帰らない。小学生の時の、通信簿をもらった日の私を見ているようである。あの時の私も酒が飲めていたらこのぐらい飲んだろう。山に出掛ける時と数倍の重さに変化したザックを背負い、ヨロヨロと帰って行った。 当ブログで酔っぱらいというと代表的な人物が一人いるが、私の検索ワードに人物のイニシャルが出ると耳にして以来、できるだけ書かないようにしている。先日は同じ話を繰り返し聞かされうんざりし、「ああそう。◯◯だったんだ」と適当にいったら「誰に聞いた?頭に来た」。という。さっきから自分が繰り返し話してたんじゃねえか。明るいうちに酔っぱらい、つまずきそうになって前のめりになったまま、永代通りを小走りしている動画はときおり眺めて笑っている。

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昨日の搬入に間に合わなかった眼鏡2つ。なんとか作った。眼鏡を作る為に外して持って帰った円谷英二の首とともに、5時のレセプション前に取り付けるはずであった。だがしかし。当ブログでは本当のことしか書かない。ただ都合の悪いことは詳しくは書かない。京王線は特急だ急行だ、と煩雑である。世田谷文学館のある芦花公園にたどり着くまでに私は当駅を2回通過した。よって『茨木のり子展』(~6月29日)のレセプション会場の、館長の挨拶を聞きながら取り付けることになった。 会場に嵐山光三郎さんがおられたので挨拶する。金沢の鏡花記念館で河童の写真を展示できたのは嵐山さんのおかげである。先日亡くなられた安西水丸さんへの追悼文には胸をうたれた。文学館に収蔵されている写真作品を観るのは私自身数年ぶりである。近所のガキ共を使って、怪人二十面相を捕まえ、乱歩先生とバンザイの少年探偵団は合成を使用したが、それ以外は人形を国定忠次の“加賀の住人小松五郎義兼が鍛えし業物”小松五郎義兼のように捧げ持ち、カメラを額に当てて撮影する『名月赤城山撮法』で世田谷各所で撮影した作品である。乱歩が愛した村山槐多作の『二少年図』は平井家より当文学館に寄託されているが、それを背景に乱歩と槐多像を館長室で独占して撮影したのは役得というしかなかった。4点は『中央公論Adagio』の表紙用に制作した作品である。人形作品は江戸川乱歩/寺山修司/円谷英二/夏目漱石/横溝正史/柳田國男の6点。10月5日まで。

http://www.setabun.or.jp/exhibition/exhibition.html



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結局搬入の朝まで制作。久しぶりに見た江戸川乱歩は眼鏡をしていない。よせばいいのに、壊れやすいからと外したらしい。何処へ行ったらや。隔月のフリーペーパー『中央公論Adagio』表紙用に制作した円谷英二は、ネットで注文した瀬戸内海のタコに勝鬨橋を襲わせている。円谷がかける眼鏡に私が使っている眼鏡を流用していたとしてもバチなど当たるはずがない。ただそれを忘れていてはいけない。 長年お世話になっている江戸っ子の運送屋さんは、せっかちゆえに先方に何時着でお願いします。とはいわない。たいてい早く着きすぎる。よって何時にウチに来て下さい。と頼む。それでも私が汗だくになっている最中に到着したのだが。助手席に乗る。 新宿に差し掛かると、青いサッカーボールのような形の360度写すカメラを屋根に立てた車がいた。ドアには大きくGoogleの文字。あの娘とキスしているところを撮られないでよかった。もっとも先方は警官に停められていたのだが。あとはTVの視聴率をカウントする機械を見られれば思い残すことはない。 結局気がつくと早くも芦花公園。予定通りに到着。写真作品はすでに収蔵されている世田谷を背景にした作品プラス4点。作家像用には、3個のライト付きボックスが用意されていた。6体展示するので2人につき1個の計算であるが、江戸川乱歩は寝ころがっているので場所を取る。結局ボックスを追加してもらい、乱歩は最近まで国宝が収まっていたというケーズに。ということで、乱歩と横溝正史が個室。柳田國男と夏目漱石。円谷英二と寺山修司がペアに。違和感あること解剖台の上のミシンとコウモリ傘の如し。ここで笑わなければ、世田谷文学館で笑う所はないだろう。 ほとんど寝ていないのに、これから帰って明日の内覧会までに眼鏡二つ作るのは難しい。学芸員の方に、「普段眼鏡かけていたって外すことぐらいありますからねエ」。いい残し帰る。

 

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“プロはさっさと仕事をして後は遊ぶんだよ”知り合いのベテランデザイナーに良くいわれたものである。仰ることは判らないでもないが、やれることはできるだけやっておきたいわけで、最後の一粘りで良くなることもあり、あそこで止めて遊びに行かないで良かった。とゾッとするくらいなら寸前までやっていたい。今回は面倒な追加部品もあり、結局搬入ギリギリになりそうである。搬入は本来文学館側にお任せするところであるが、そう考えると近所の顔見知りの運送屋に頼んだ方が良さそうである。ギリギリまで粘って助手席に乗って一緒に行ってしまえば良い。実にきっちりした人で、車中の会話も楽しい。欠点といえば典型的なせっかちな江戸っ子で、現場に早く着きすぎてしまうことである。まだ開いていない展示会場のビルの前で、荷物を前にしばらくボンヤリするはめになったこともある。そのかわり仕事は間違いがない。 おそらく展示の性質上、会場はフラットな照明で、スポットライトで陰影云々、ということではないだろう。逆にいえば設置場所はすでに決まっているので、ただ置くだけである。とっとと済ませて帰りも助手席に乗って地元へ帰ってくれば良い。その日は他に予定はないと聞いているし。問題はただ置くだけといっても、江戸っ子が何分間なら現場でただ黙って待っていてくれるであろう。

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