明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



芭蕉記念館の芭蕉庵は、納入直前に、すでに完成していた板葺き屋根を藁葺きに、急遽変更したために、やり残した部分があった。我が家からの搬出を考え、屋根と本体を別々に作ったが、本日ようやく接着。多少の隙間はいずれ埋めよう。汚し塗装も加えた。閉館後の作業中、掃除のおばさんが、昔こんな家に住んでたので懐かしい、と褒めてくれた。 次号の『タウン誌深川』のエッセイのため撮影。芭蕉庵制作について書いても、あまり面白くないので、今回毎日のようにホームセンターに通い、つい日曜大工好きであった父を思い出していたので、父について書いた。ズボラな私と違い、元設計技師であった父は、鉛筆をやたらと尖らせていたが、私の鉛筆で製図して高層ビルを作ったとしたら、最上階は相当傾くだろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  



芭蕉記念館に行き、芭蕉庵に燕の巣、文机、煙草盆、ヒヨウタン、燭台を配してきた。開館中は作業出来ないので、少々手を加える部分は後日。

星の数ほど描かれてきた『寒山拾得』だが、どれほど描かれて来ようが、中国が何千年だろうが私のようなアプローチは初めてであろう。ただそれだけで毎度お馴染みの、何物にも代え難い快感がこみ上げて来る。この渡世も私くらい長いと、“要らないから誰もやらないのだ”ということは、頭の隅にもよぎらせないことが可能である。 ”人は頭に浮かんだ物を作るように出来ている”確か養老孟司がそんなことをいっていたが、実に恐ろしい仕組みである。恐ろしいけれども、その仕組みのせいだとしたら、仕組みの問題であって私には何の責任もない。責任が無い割に幼い頃から薄いガス室に閉じ込められているような、そこそこのバチが当たり続けている心持ちがしないでもないが、プラマイゼロということで良しとしておこう。ここまで来るとプラスもマイナスも判然としないが、何もかも得ようとしてもそうは行かず、何かを得るためには、何かを捨てなければならない。誰に教えられずとも、そのことについては私の動物的勘が、あらかじめ知っていたことは何よりであろう。 昨日芭蕉記念館にスマホを忘れ、今アップしている。スマホを忘れるのは今月2度目である。そろそろ危ない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ジャズシリーズの頃から搬出入をお願いしている運送屋さんは信頼できる仕事ぶりなのだが、欠点といえば江戸っ子で何をしても早い。よってそれを計算して時間を指定するのだが、それでも若干早めに到着。屋根と本体分けたままなので、搬入は楽であつたが、急遽乗せた藁葺きの水分のせいか歪みが生じ若干隙間があり、接着したかったが、設置場所の都合もあり、後日に。正面は全開、窓も一つ開いているが、江戸時代は暗かったといっても、会場の煌々とした照明の下では暗い。担当者と相談の上、半開きにすることに、戸板は持って帰る。 奥の細道に出かけた直後、という設定なのだが、やはり文机、米を入れたヒヨウタン、煙草盆は用意することにした。最後にペンペン草を屋根に植えて帰宅。 建物を作ると人形と違ってこうなるの?とはけっしてならず、いかにもあの芭蕉の作者が作るとこうなる、という結果になった。担当者と、こうなるとやはり芭蕉の樹は欲しくなるね、と。私としては、窓を一つ開けたのは、そこから古池を眺める設定なので古池も、といきたいところである。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




当初、私の芭蕉像が収まるサイズの芭蕉庵を考えていたことを思うとゾッとする。今使っているのは、模型工作レベルの材料で、1番太い柱でも2センチだが、当初の構想通りだったら、それこそ材木のレベルで、外に出すのもベランダから降ろすことになったろう。しかも芭蕉の樹や古池まで作ろうと考えていた。しかしそれでは芭蕉記念館の何処に置けばよいのか、という話である。 多く残されている芭蕉庵図は、ほとんどが後世に描かれた物だが、先日書いた通地べたに直接設置している図が案外多い。ただてさえ、埋め立てられた湿地である当時の深川の潮臭い場所で床下がないのはあり得ない。と先日も書いた。しかし実のところ床下の空間がほとんど無いような部屋に住んだ経験が私にはある。朝起きると床はナメクジの這った跡だらけで、とても床に布団を敷く気にはなれない。ナメクジ長屋に住んだ古今亭志ん生の心持ちが私には多少解る。 私がいいたいのはそんな話しではない。床が高い分、履き物を脱ぐ敷石が必要であろう。何に入っていたのか。荷物に入っていた発砲スチロールの欠片ほがあり、私が寝転がっていたせいで押しつぶされており、それが何とも良い感じの平らな岩に見え、ちよっとちぎっただけでそのまま色を塗って使うことにした。何しろまったくら作為のない、まさに自然石の趣である。 それにしても今回の芭蕉庵は、私の屋根裏、またはナメクジ部屋に住んだ経験が十二分に生かされている。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




凝ったつもりで制作した板葺き屋根を納期直前に草葺き屋根に変更するという暴挙。昔の芭蕉庵図を見ると、いずれも今の藁葺き屋根のように、刈り上げ部分か露出しておらずただ茅や藁を覆い被せたような簡素な屋根である。大昔は、そんな草葺き屋根もあったのであろう。これなら可能だと急遽仕事を増やした。直線を切ったり貼ったりの木工と違い、粘土やパテやドロドロの素材となれば通常業務範囲であり、こちらのテリトリーとなる。屋根は夕方近くにおおよそ乾燥を終え、最終的着彩を待つばかりである。明日は苔の緑も入れたい。ペンペン草は運搬を考えると搬入当日、現場で植えた方が良さそうである。 本体の仕上げにかかる。木部の下地の着彩をおおよそ終え、明日はひさしの組み立て、着彩の仕上げ等々。芭蕉庵を横にしたり逆さにしたり出来るのは本日で最後である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨晩のうちに仕込んでおいた茅葺き用材料。なじませるため一晩熟成。思い付いた物をぶち込んだが、主に三つの材料を練ってドロドロに。塗料を混ぜたせいで摺った山芋にしか見えない。主成分は書かないでおく。記念館で、あの茅葺き屋根はアレらしいぜ、と来場者にいちいちいわれては芭蕉庵が可哀想な気がする。それにしても急に思い付いた割に上手くいき、これは今後応用できそうである。最終的にはペンペン草を生やすつもりである。ペンペン草が何かは知らないが、適当な雑草らしき物は用意してある。その際気を付けなければならないのは、あっちちにもこっちにも、とペンペン草だらけにして屋根の上でペンペン草を栽培しているかのようにしてしまうことである。昔、白骨を制作していて、着色に凝りすぎ、煮染めたようになって白骨ではなくなってしまった。朝から始めて扇風機を回しっ放しで日が落ちた頃には9割は固まった。一日暖かかったから良いものの。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




芭蕉庵のパブリックイメージなどと私がいうと可笑しいと笑う人がいるが、芭蕉の場合は門弟達が師匠はこういう顔だ、と間違いなく描き残しているから、全国の芭蕉像があまりに好き勝手なのに呆れて、嫌味なくらいそれに従ったが、芭蕉庵に関しては、それがない。ならばそこでは確証のない解釈は抑え、パブリックイメージに準ずるべきであろう。作家を長く制作してきたが、人によって、自分の解釈を表現して面白い人と、世間の抱くイメージにあえて準じてこそ、という人がいた。 茅葺きといっても都合良く縮尺があう材料もないので、粘土にガサガサと茅葺調の跡を着けることにした。中村不折の描いた芭蕉庵は、ボロボロの廃墟のように描かれている。住んだのは十数年だつたと思うが、うち捨てられた設定なのか。確かかわず飛び込むの句が作られた句会には芭蕉庵に40人集ったという。学生時代、たまたま私の六畳のアパートに人が集まってしまい、数えたら三十人前後はいただろう。制作中の庵はそれよりも広いと思うのでその点は楽勝ではある。 学生時代、試験が迫り一夜漬けでこなすしかない。だが眠い。今日寝てしまったら、明日の私は間違いなく勉強せざるを得ない。では明日の私に任せて今日の私は寝ることにしよう。それは結果私の成績が悪くなるだけで済んだが、芭蕉庵はそうはいかない。数年前からせっかく飲めるようになったブラックコーヒー、私にはカフェインがまったく効かず眠気覚ましにならない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




搬入直前に屋根の仕様を板葺きから茅葺きに変更とは。一度記念館に納めたら、屋根と本体を固定してしまうし変更は利かない。板張りも馬糞紙を水に浸けてあえて板の歪みを演出したのだが。 計三期の芭蕉庵、茅葺きより原始的で費用もかからない板葺きがあってもおかしくはない。しかし草庵のイメージといえば、茅葺、藁葺きではある。イノシシが出て廃村になった村で茅葺きの家に住んだこともあるが、刈り込まれた断面に厚みがあった。しかし後世に描かれた物てはあるが、そこに描かれた多くの茅葺きは、茅を集めてただ被せたような、ヅラを被せたような、キチンと刈り込まれた茅葺きではなく、素朴な、如何にも草庵である。これならば可能であろうと判断した。 数々の芭蕉庵の図で、承服出来ないのが、四角の箱を地面にただ置いたような庵が多いことである。当時の海辺の湿地帯である深川において、床下に湿気の逃げ場がなく、まして台風時などこれではひとたまりもない。台風のたびに水が出た昭和三十年代、葛飾区某所生まれの私からすれば、深川に来たこともない地方の絵師が後年想像で描いたとしか思えないのである。 着彩を進めながら屋根の大改造に着手。本当に良いのか?

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





※ これは下書きまで書いた昨日のブログである。私がかつて“注ぎ殺し”と命名した人等と飲みジャケットと共にスマホを忘れて帰った。あの男に色の無いアルコールのボトルを任せたら危険なのである。

タイトルの句は芭蕉が奥の細道に旅立つ前後に書かれたといわれている。それはともかく。未だどこかで草庵=茅、藁葺きの東屋、というイメージが引っかかっている。すでに板葺きで完成に向かっているのに。もっとも草庵といっても、慎ましやかな小屋ということで、バカ正直に草葺きにこだわることもないと思うのだが。板葺きの方が金がかからずプリミティブだろう。茅葺きは田舎に行けば未だにあるが、板葺きに重しの石コロなんて家はそうそうないだろう。しかし門弟が肖像画を複数残したおかげで実像にこだわった芭蕉本人はともかく、芭蕉記念館という施設の性格上、パブリックイメージも尊重すべきか。 今年制作の芭蕉の坐像をこちらを展示する深川江戸資料館に見学ついでに届けた。漆喰作業も佳境となる。外出時は乾かすため常に扇風機全開のまま。芭蕉庵に関しては時期により三軒の存在が確認されているものの、正確な情報はない。後年描かれた庵も、茅葺きは多いものの板葺きもある。 余計な創作をせず、芭蕉記念館を訪れる方々の想像の余地を残す方向を考えたいところである。出立後、庵を譲り渡した人物は判っている。私のイメージとしては、旅に向け荷物はすでに整理され、室内はガランとしている。愛用した文机と、煙草盆、門弟が師匠のために米を持ち寄り貯めたというヒヨウタン。ついでに後に発見される石蛙も。(これは後年の作のような気がしないでもないが)ポツリと残されている。いずれも愛着あっても旅には持っては行けない。”立つ鳥跡を濁さず何を残すか“そんなことを考えながら寝転がって下から芭蕉庵を眺めていて、軒下に残された燕の巣というのはどうだろう。

 盃に泥な落しそ村燕

 壁土の家する木曾の燕哉

 煤ぼりて埃たく家になく燕

先ほどまで外で広瀬すずが俳句ドラマ?かなにか知らないが記念館のすぐそこでロケをしていたらしい。板葺き、茅葺きなんかで悩んでないで、とっとと早く来れば良かった。という話しである。

※ 一晩経って着彩を開始した本日。この後に及んで茅葺きに変更方向に傾いている。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


草庵  


芭蕉庵の事をよく草庵というが、本来、茅、藁葺きの庵の事をいうらしい。高さ70センチとなるとそれなりのリアル感が必要となるが、縮尺に合う素材がなく、板葺きにする。全部で三軒が確認されており、板葺きがあってもおかしくはない。ただたかだか十畳程の平屋に、ここまで堅牢な屋根裏が必要なのか、という懸念があった。本日、元大手ゼネコン部長のMさんが、用事ついでに産経新聞の石原慎太郎の三島由紀夫に関するインタビュー記事を届けてくれたので、見て貰った。おそらく学生時代には建築模型など作っただろう。するとこれでおかしくないということで安心する。むしろ強度を心配されていたようだが、事前にアドバイスを貰っていたので、屋根、本体共に、ひっくり返しての作業も可能である。ついでに今はなき木場の酒場『河本』の解体現場から救い出したカウンターを見たいというのでサーフボードを自慢するサーファーのように披露。 石原慎太郎のインタビューは良かったが、小学生の時、母が隠していた『スパルタ教育』を母より先に読んでしまって以来の石原嫌いである。初対面で「思っていたより小さいですね。」なんていうか?三島と逆にデカいことが悪い作用をしている。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日のブログで、三島の命日11月25日がすでに過ぎてしまったつもりでいた。数字に弱い事もあるが、むしろ全方位的方向音痴のせいだろう。1年に1度、これから暑くなるのか寒くなるのか一瞬考えることがある。 芭蕉芭蕉庵制作も、頭を使う場面もなくなってきた。仮に屋根を乗せてみて、開口部から屋根裏を眺めてみている。丸太を削り出した、という設定の梁を見ていると、二十歳で住んだ、岐阜の瑞浪の屋根裏部屋を思い出す。やたら寒く、水道を夜中の間、少し出しておかないと水道管が破裂する、といわれていたが、つい忘れて破裂してまった。大家の婆様には近所に住む恋人がいて、電話で相談すると「とりあえずジャガイモを詰めろ。」といわれていた。 ここまで来ると、自然と寒山拾得のことが、忍び寄ってくる。しかしこんなモチーフに浸りきりになると、ますます浮世離れが助長され、戻ってこられなくなるのではないか?なんて一応、危機感を感じている風を装おってみたりして。もうすでに、友情を持って止めてくれる連中もいなくなってしまった。もっとも、時に寝床に本を撒いて寝心地を悪くし、何年もかけて、三島由紀夫が様々死んでいるところを描いてしまった人間に今さら何と声をかければ良いのか。もはや処置無し、というところであろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ようやく屋根裏の構造部分が小屋の上に乗る。下から覗くと屋根裏調である。ただこれは屋根が乗っていないからそう見えるが、屋根が乗ってしまうと結構暗くなるだろう。天窓を作る訳にも行かない。しかしこれはもう私には関係のない事である。 全体を把握しつつ事を進める。これこそが私の苦手とする所である。なので一歩進んで二歩下がって、すでに作った部分を剥がしたり、新たに思い付いて柱を切ってしまったり。しかしこういう試行錯誤は、必ず結果として滲み出るはずだと考えている。そうでなければやっていられない。 制作工程において不都合が起きるのは、昔目指した陶芸作家が向かなかった大きな理由がこれなのだが、全体を把握しつつ事を進める、ということが苦手である。目の前の、手の届く範囲の事しか責任が持てない。 『寒山拾得』は、先日拾得に持たせるホウキの素材を見つけた事で、ここからスタートさせるのも悪くないな、と考えている。水槽の中に入れておいたミニチュアのホウキは、金魚に喰われて柄しか残っていない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





屋根の構造部分をおおよそ作る。組み立ては明日に。今のところ屋根がないし、正面も板戸を外して立てかけているという想定なので、今のうちに内装の下地部分に手加える。電灯があるわけではないので、解放部分を多めに取らないと、室内が暗すぎてしまうだろう。 ブログが建具屋のブログみたいだといわれるが、これは仕方がない。11月25日の三島由紀夫の命日だが、気が付いたら過ぎていた。この十数年の間で初めてだが、三島に見せてウケることしか考えないで制作してきた『三島由紀夫へのオマージュ男の死』だが、常に作者にウケることが頭の隅にある考私だがだが、こと三島に関しては、個展で見ていただく方々のことは一切眼中にない、という、私にしても前例のないモチーフである。もっとも、このテーマでは観客に対してサービスのしようがない。本家篠山紀信撮影の男の死の出版の噂の影に、怯えながら一日でも先に、と制作してきた成果に、一つ呆れて下さい、とでもいえば良いのだろうか。 あえてもう一作品といわれれば、三島らしくて好きな小品『サーカス』を手掛けてみたかったが、空中ブランコ乗りの娘役を探しているうに手が回らなくなり断念した。前回の男の死では思い付くこともなかった『椿説弓張月』は陰影のない浮世絵調で石塚式ピクトリアリズムをもって取り組まなければ実現不可能で、特に三島に見て貰いたかった。ニューヨークで出版された篠山版男の死は、未だメールで送っていただいた数カットしか見ていないが、痛ましくて可哀想で、他のカットを見たいという気に今だなれないでいる。宮崎美子のカレンダーは今すぐでも見てみたいものだが。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


定規で線を引いたり、板を真っ直ぐ切ったりするよりも、一本一本削り方が違う丸太を作っているほうが面白い。大小8本。これを使い、屋根の構造部分を制作。板葺き用の材料も届く。これで予定通り行けば、明日中に屋根の構造部分が完成する予定である。あくまで予定だが。 先日寒山拾得の拾得が持つホウキの材料を見つけた。イメージとしてはあくまでも製品臭くなく、拾得が拾い集めた小枝をただ束ねたかのような、とても実用になるとは思えないような、持ち主がホウキのつもりでいるからホウキなんだ、というぐらいの物をイメージしていた。ホウキといえば、レレレのおじさんとバカボンのパパを並べれば、そのまま寒山拾得になる。赤塚不二夫は改めて凄い。 ウチの寒山拾得水槽は、豊干の虎役の朱文金と二匹のアイアンコメツトをベランダに移したおかげで、スカスカに見える。数年ぶりにらんちゆうの愛好会で審査員までやった幼馴染みを、金魚の話をしたいがために呼び出し再会したが、金魚の話をしていて、小四の時に、我々が遊んでいて遠出したら江戸川の養魚場に辿り着き、ただ水田に沢山の金魚にしか見えなかったが、おじさんに物凄く怒られて逃げたろう。我々は何をしたんだ?といっても彼は覚えていなかったが、子供の足を考えると今でもある某養魚場だろうといっていた。今でこそ専門家みたいに色々アドバイスしてくれるが、教室の金魚が病気になり、ビタミン不足だと聞きかじり、お前水槽にレモン搾ったろう?といっても本人覚えておらず。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2度も出かけながら、余計な買い物をしていて閉まってしまったりして、買いそびれた梁に使う材料をようやく入手。ついでに、寒山拾得の拾得が持っているホウキの材料も見つけた。製品臭いホウキではなく、実用としてはどうか?というくらい、ワイルドなホウキにしたかった。 今思うと、屋根をあのまま作り続けていたら様子がちょっと違っていただろう。かえって後回しになって良かった。昔、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』を制作して以来の屋根裏である。今回は、乱歩が覗いた節穴があるような天井はない。屋根裏には、なんといっても荒削りな太い梁がウネウネしていなければならない。しかし、ようやく、という気持が出たか、ウネウネし過ぎ、自然薯のようになってしまい修正する。いつになく直線ばかり扱っていると少々イライラしてくる。ようやくフリーハンドで大木を削る。真ん中を通る太い丸太に、それを背骨としたら肋骨に当たる丸太が左右に三本づつ。 予定が変わったが、明日こそ内外の壁に塗る漆喰を作ろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ