明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



臍下三寸辺りの自分の感じるままに制作していると、いつの間にか想定していないところに立っている事がある。結果はその方がいいので、なぜそうなったのか、性能が今一つの頭で後から考える。  昨日書いたように、陰影排除により自由を得るのと引き換えに、質感描写はあきらめていた。リアルになるのでやっていた肌の下塗りも、陰影を排除すると、見た目と違ってただ汚れに写るので一色のベタ塗りにしたし、肌の艶もNGなので、40年磨いて来たのも止めた。なのに立体間を意識した蘭渓道隆の肌が、アクリルガッシュの艶消しの肌と違って生々しく皮膚感が出た。なぜそうなるのか私には判らない。構図など自由に描け、なおかつ人間的に写るとなればいう事がない。こんな時、まずは田村写真に走るのを常として来たが、厚木に移転してしまったし台風だし。たまたまでなく、再現性があるのだろうか。無学祖元に着彩し撮ってみる。


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先日来、撮影法に少々手心を加えた。同じことをしている人がいないので書くのを止めたのがこのことだった。私の作品の一番の特徴は、自ら作り出した陰影、つまり立体像を被写体にしていることであろう。ならば、と立体感を意識してみたのだが、どういう作用か蒙古兵の鎧は革に覆われているように見えるし、蘭渓道隆は妙に肉々しい皮膚感である。実は陰影を排する段階で、自由と引き換えに質感描写は諦めていた。それにしても質感と立体感は異なるジャンルだろう?実物が粘土感まるだしなのに、なぜこうなったのか、今の私には判っていない。もしこれが次の段階へ進んだ、大リーグボール3号改、あるいは4号ということにでもなれば、例によって初めからこうするつもりだった、ということにする。



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一日  


坐骨神経痛の激痛で、3週間寝たきりでいた。幸い痛みは消えたものの右膝に力が入りにくく、階段も今のところ上りは一段づつで、右膝をかばうせいか、左膝が痛くなり腰痛も。 私のような渡世ではスポーツ選手と違い経験を重ね生きるほど作品は良くなるだろう、と単純計算し、足腰立たなくなった時に備え、空や海、地面、壁、まるでノアの方舟に画像データを積み込むかのように集めた時期があった。ところが〝念写”がこうじて『蘭渓道隆天童山坐禅図』が完成しているのに実写の滝が役不足だ、と作り物に入れ替えようか、という有様である。やはり考えるな感じろであり、頭で計算し、企んだことはハズれる。 月一のクリニック。おかげで10年以上風邪をひいていない。椅子に座らりっぱなしだと、てきめんに脚が浮腫むので利尿剤を処方してもらう。テレビの台風情報。爺さん達、船や田んぼの様子なんか見に行くなよ、と思う。

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蘭渓道隆三作目完成。ルーター故障でスマホでモニターを撮る。遠くの赤富士を眺める葛飾北斎と違って、すぐ後ろのせいで、ビャクシンの樹を眺めている感じにはならないが、七百数十年前に、自ら植えた樹と共にこの月日を想う、というイメージ作品なので、問題はない。これで滝を作って実写と入れ替えれば、蘭渓道隆3作完成ということになる。次は円覚寺の開山、無学祖元の2作に行くか、悪天候の中の半僧坊か。無学祖元2作のうちの1作、蒙古兵とのカットは蒙古兵が画面上にすでに居るが、しばらく真面目に蘭渓道隆取り組んでいたので、雷鳴轟く帆柱の上に立ち、呪文呟く天狗的人物、というのを先にやりたい気もするが。最近は念ずれば写るので、慌てることもない。 集中力は小学生時代から衰えていないものの、身体がそれに対応出来ず、飲酒によらないと取り除けない何物かに対処し〝ピストルに撃たれたように“と称される寝入りの良さで寝る。


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午前中、合掌する蘭渓道隆を夕方着彩し、夜になり撮影。3作目、最初にイメージしてからずいぶん経っている。これだけ準備に時間をかけると、さすがに引っかかる場面は一つもなかった。適当に描いたスケッチが、以後超えられないことがあり、可能性を減らす気がして何十年もアイデアスケッチなどしなかったが、これもやり方による、これからは場合によっては描くことにした。 陰影のない絵画を立体化する時、もっとも有用なのは人間のディテールに対する記憶だと改めて。七百数十年前の個性的な面相を、現在感じられるのも、特に臨済宗が克明な肖像を残して来たからであろう。

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ビャクシンの樹と蘭渓道隆。写るところしか作らないので完成は早い。前面に夢中になってほとんど出来てしまい、慌てて後ろを作ることなんてことを繰り返しだせいで身についてしまった独学我流者のあまり自慢にならないことであるが、これが一眼的撮影専用の造形を可能にした。被写体制作と撮影の二刀流ならではで、普通に作った物を撮影したのとは一味違う撮影結果を得られる。被写体を公開しなければ、その効果のほどは私にしか判らないだろうけれど。それに数度も振れないほど冷酷に、写らない所を作っていないのに、後から後ろを作り足すことも可能である。なんといっても、依頼仕事の場合の制作時の少ない場合に効果を発揮する。そう考えると残る時間を考えると、今後写る所だけ作ることが多くなるだろう。

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月下達磨図、蘭渓道隆面壁坐禅図は仕上げも終わり完成。天童山坐禅図は滝を残し完成。無学祖元と蒙古兵の蒙古兵仕上げして完成。無学祖元を着色し完成するか、考えたが、蘭渓道隆とビャクシンの樹の蘭渓道隆のポーズ違いの制作を、明日始める。赤富士と葛飾北斎で試した、見上げているが赤富士は背後にある。というのをふただび。日本人は主人公の想い、心情をよく背景に托す。これも陰影がないからこそである。おかげで蘭渓道隆はビャクシンに隠れることがなく真ん中に大きく、その後ろに画面一杯にビャクシンの樹。見せたい部分を出来るだけ大きく描きたい。蘭渓道隆は上半身だけの予定なので、人間大より大きくなるだろう。これに円覚寺開山無学祖元の2作品と、雲水姿の一休宗純。

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昔の作品がフェイスブックで流れてくると、黒蜥蜴役の女性の30センチ前に人形置いて二人が並んでいるように見せたり(私の大リーグボール1号)真昼間撮った室内の床に反射した光を、夜の暖炉の明かりに見立ててエドガー・アラン・ポーを配したり(2号)昔からイメージのためなら、どんな卑怯な手でも使うぜ、なんていってきた私であったが、挙句は掌に乗る石ころで中国の仙人が住まうが如き山まで捏造したり相変わらずである。私は思いついた時、いかにも思いついた、という顔をするらしい。母がよくいっていた、台風の幼稚園の休園日、佃の渡し船の絵を描いていて、煙突だったかに東京都のマークが描いてあり、同じものがあった、と止めるのも聞かず台風の中、マンホールの蓋を見に行った。その時もそんな顔をしたのだろう。思い付くのは一向に構わないが、私の大リーグボール1号だ2号だ3号だ、とモノになるまでいい加減時間を要すのだから、4号はもう止めてくれよ、とこれは本気で戒めている。


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最近、撮影に多少工夫を加えている。例によって人に話して通じるようなことではないので書かないけれど。わざわざ立体という陰影を作り出しておきながら、あえてそこから陰影を排除する。残り時間も少なくなりつつあるのに、私のような病的な面倒臭がりが、こんなことを始めた。臍下三寸辺りのもう一人の私の本意に迫りたいと考えている。 雷鳴轟くシナ海の船の帆柱の先端に立つ半僧坊。中国からの帰路、禅師の乗る船を博多まで導く。まさに道開きの猿田彦が原型だろうという場面である。不穏なムードの背景は既に出来ているが、そこに稲妻を描く練習をする。小学校の時に描いたキングギドラが口から吐く光線、あるいはメーサー砲の要領である。 明日、粘土が届くので、建長寺のビャクシンの樹を見上げ、この七百数十年を想い合掌する蘭渓道隆を制作する。

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元寇  


無学祖元に刀を突きつける蒙古兵完成。蒙古兵の鎧には革が多用されている。主役の無学祖元の着彩を済ませ、撮影すれば完成である。無学祖元の場合、円覚寺に残る木像が圧倒的で、いつものように、他の資料を探索しよう、という気がまったく起こらなかった。説得力というのはこうした物だろう。横顔なども判るので完成も早かった。来日前後ということで多少若さを意識した。名場面の割には視覚化された形跡がない。ならば私が、となったわけだが、刀を向けられながら平然と漢詩を詠む禅師、その姿に蒙古兵は退散する。できればこの時禅師が詠んだ漢詩を真ん中に配したいと考えている。 Facebookで“せつな糞 せつない時に出る糞のこと“に本日最も感銘を受けた。飲み屋で知り合いに、志ん生がビールはションベンになるだけだが、日本酒はウンコになるといった話をしたら「それ本当。もうどうでもいいやってなっちゃって酒だけ飲んでたらウンコだけは出た。」といってたのを思い出した。
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寒山拾得以来のシリーズでは人形であるし絵画的ではあるが写真であるし、なのであえて古来からのスタイルを踏襲してこそ面白い、と考えてきた。おおよそ長焦点レンズ的である。しかし曾我蕭白のまるでオーパーツの如き超広角レンズ的『石橋図』の表現には、そんな私を嘲笑うかのようである。以前つげ義春トリビュート展で、当時は陰影を排除するだけでなく、古来の日本的遠近法にも挑戦したが、さすがに写真となると無理があり、バラバラにして組み立てるしかなく、これは私のイメージしている行為とは違うと断念。会期中に2度、作品を差し替えるという失態を演じた。 蒙古兵に喉元に刀を突きつけられ平然としている無学祖元。喉元に焦点を当て、蒙古兵の表情を広角的に、など考えないでもないのだが、果たして面白いだろうか。曾我蕭白も超広角表現を思いついたものの、この表現は絵には合わない、と一点で止めたのかもしれない、と思ってみたり。



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蘭渓道隆最後の一点は、現在の建長寺の「ビャクシンの樹にこの七百数十年を想い合掌しているというイメージ作品で、背景はすで決まっている。これは国宝の頂相に近い横顔を向ける予定だが、合掌するポーズを作らなければならない。この一点用なので写るところしか作らない。 雲水姿の一休像、まさに小学生の私のイメージした姿である。竹竿に骸骨はすでに作ったので、朱鞘の竹光の大刀を持たせるつもりだったが、はるかに知られたエピソードでありインパクトもこちらの方がある。 今年は元寇750周年ということで、日本各地で記念イベントが開催されるそうである。無学祖元が開山となった鎌倉の円覚寺は、敵味方双方の犠牲者を祀る目的で創建されている。坐禅する無学祖元に刃を向ける蒙古兵は随分前に完成していたのでまずは撮影しておきたい。

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寺の天井画の雲龍図は、法の雨を降らせるということだと知って『蘭渓道隆面壁坐禅図』でやってみようと考えたが、いかにもくどい。背景の山の上にいるはずが、すぐ頭上に小さな龍に見えてしまうので、やめたのだが、雨を降らせる雲があれば、違って見えるだろう。結局龍を加えた。頭に浮かんだものは人間は作るようにできているらしい。浮かばなければ作る必要はないのだろう。蘭渓道隆最後の一点は、現在のビャクシンの樹にこの七百数十年を想い合掌しているという作品で、背景はすで決まっている。これは国宝の頂相に近い横顔を向ける予定だが、合掌するポーズを作らなければならない。この一点用なので写るところしか作らない。


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人形制作は、頭部制作はあぐらをかいて、全身像、画像制作は椅子に座って制作するが膝から下が浮腫んでしまう。ここ数日徹夜までしてしまうと、まるで博多人形の金太郎の如き有様である。これは母が全く同じであった。なので靴やサンダルが入らなくなり骨折者用のサンダルを入手したくらいである。未だ展示のスケジュールが決まっていないので、徹夜する必要はないのだが、普段グウタラしているのに制作となるとせっかちに変身し、早く見たくて仕方がない。今回は被写体制作に時間がかかり、空腹感が募り、ご馳走にかぶりつくようにして連休中に3作品が早々に完成した。『蘭渓道隆天道山坐禅図』(部分)イメージそのままで、私の念写は無事成功した。しかしこの能力を得るため何十年もかかるものなら、真面目にスプーン曲げから練習した方が早かったんじゃないか、という話である。後日、以前考えた方法で、滝は作り直すかもしれない。”ここまでやっておいて、何も本当に撮影した滝を使うことないだろ?”



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『蘭渓道隆面壁坐禅図』完成。坐禅は視線を前方に視線を落とすようにするそうなので、その辺り工夫を要した。予定どおり坐禅窟の入り口開口部を光背に見立てたが、はるか遠方上空に龍が浮かび、それが禅師の頭上から法の雨を降らせているように見える、と思ったが、そもそもクドくやり過ぎか、と思っていたところに、やってみると頭上に小さな龍が浮かんでいるようにしか見えない。陰影がなく平面的なので、こんな時は距離感が出ない。龍の法の雨は別の機会に。『蘭渓道隆天童山坐禅図』はほとんど背景は出来ているつもりだったが、気が変わってきて、当初、ポイントとするつもりで石質にもこだわった岩を削除した。お約束の滝に松の枝。 しかし松は盆栽だし、岸壁は石ころだし、人形だし写真だし。オーソドックスにやる方が面白いだろう。これを2メートル超のプリントに。大好物の甘美な孤独感。


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