明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



この間、夜中に寝ていて、突然胃液が上がって来る、という異変が起きた。七百数十年前に渡来した僧を作ったが、通常であれば、その生い立ちから調べ、作家なら作品を読むのだが、私には何が書いてあるのかわからない文献ばかりで、今までのようにはいかなかった。最低限ここまでは触れておきたい、というところに達していないせいで、あんなことになったのだろう。頭ではそこまで意識しているつもりはなかったが、ヘソ下三寸のもう一人の私が、頭で思っている以上に気にしていたらしい。いつもは一方的にけしかけるくせに、案外ナイーブである。単に警告だったか、スッキリしてすぐ寝たが。そうこうして資料が一冊届いた。これがあれば、胃液の逆流だけは避けられそうである。 しかしものは考えようで、40年以上やってきて、胃液を吐くようなモチーフに出会う、というのは幸せかもしれない。と、しおらしいことをいいながら、本音は吐いた胃液の分量以上の快感物質を溢れさせずに済ます訳にはいかない。

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日本人で最初に影を描いたのが英一蝶とは。そのくらいやらかしても不思議ではないが。太鼓持ちで絵師というのもユニークだが、何かが過ぎて島流しになる。流された島でもずいぶん絵を描き、稼いだらしい。私には呆れついでに笑わせたい、というところが押さえがたくあるので、一蝶のユーモアが好きである。往来で、酒屋の前で酔い潰れている『一休和尚酔臥図』 を見て、一休を酔い潰れさせても良いのか。とすでにシャレコウベを竹竿に掲げた一休は作ったので、京の街を〝御用心“と歩き回ったその晩、シャレコウベ枕に酔い潰れてもらった。背中の火焔を濡れないように傍に置いて滝に打たれる『不動図』も取り掛かる寸前まで行きながら、絵に見えるといってもこちらは写真。水の表現に打開策がなく保留中である。 制作中の雲水姿の一休の足元に、犬や乞食や夜鷹を配したいというのも、犬や馬、芸人や武士までもが、ある屋敷の軒先で一緒に雨宿りしている『雨宿り図屏風』の影響である。島流しから許され身を寄せた一蝶寺は江東区内にあり、松尾芭蕉との交流があったという。

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日本人が初めて影を描いたのは朝暾曳馬図(ちょうとんえいばず)」で川面に映る影を描いた英一蝶だという。 小学校低学年の頃から、子供の絵じゃない、とことあるごとに言われ、みんな出品するコンクールに、私の絵だけ出すのを忘れた、と担任にいわれたり、ロクなことがなかった話は何度か書いた。その発端が、図工の時間に遠足の絵を描く授業で、池に浮かぶボートに水面に映る影を描いたことだった。廊下に張り出された絵を見た隣のクラスの担任が、なんでここに影を描いた?といい出した。周りがマッチ棒のカカシのような絵を描いている中、子供の絵じゃない。といわれ続けることになる。そんなこともあってか、中高と美術部にも入らず読書に熱中し、制作を始めるのは、工芸学校に入ってからである。 それが今は写真から陰影を排除し、太鼓持ちでもあった英一蝶の『一休和尚酔臥図』をヒントに私なりの酔臥図を制作し、同じく一蝶の、背中の火焔を濡らさなよう傍に置いて滝に打たれる不動明王を作る気でいる。奇縁である。 最後に目出たい話をすると、名前こそ変わったが、その小学校を出た柔道百キロ級のウルフアロンがパリ五輪出場を決めたようである

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〝太陽一灯の一神教の世界と違って、便所にまで神様が居る日本では陰影など出ない“ 10年近く陰影を排除した手法をやっていると、かつての日本人が、何故陰影を描かなかったか、今は理解できる。袖から金の龍が顔を出す人物に、現実であるかのような陰影を与えたなら、今はむしろ、不純な行為に思える。袖から金の龍が顔を出す人物を描きたければ陰影など描くな、という話である。 96年『ジャズ・ブルース人形と写真展』 (SPACE YUI)初めてギャラリーで、人形を被写体として写真を発表した。ある編集者が、被写体が目の前にあるのに、写真は人間を撮った物だと勘違いした。現実を模倣したい訳ではないのだ。 思えばここから、まことを写す、という意味の写真という言葉に抗い続けることとなった。そして長い旅路の果てに〝まことを写さない写真手法“に至った。 私はすでに結論を出したけれど、AIの発達により写真家は、これからまことを写すという意味を問われることにるのではないか。

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雲水姿の一休宗純。竹竿にシャレコウベ。小学四年で母にせがんで買ってもらった大人向け『一休禅師』のイメージがまさにこれである。門松が目出度くもあるが、目出度くもない。初めて聞く言葉に妙に感心した小学生であった。19歳の工芸学校の頃、好きになった河井寛次郎の『鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥』を知った時も、最初に門松は〜を思い出した。 中年、老人専門作家である私が、作るべくして作った人物といえるだろう。『狂雲集』は一休の『仮面の告白』だと考えているが、今後『狂雲集』方向に走ることも、さらに寒山拾得の風狂方向、はたまた、隣に一遍上人を並べて個人的に一人喜ぶのも一興である。 足元に犬の件は、実は古い犬種らしい芝犬であれば室町時代もクリアしそうである。展示場所を選ぶだろうが、隣に乞食、しどけない夜鷹を並べたバージョンも、見せられる方々にとってどうかは判らないが、少なくとも作る立場としては大ご馳走である。

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2016年、手元にある展示出来る物を出来るだけ展示しようと試みた『深川の人形作家 石塚公昭の世界』(深川江戸資料舘)は中締めと考えていた展覧で、その時点で展示出来る物は全て展示し、スライド上映による朗読ライブも開催出来た。さらに初めて2メートル超のプリントも展示したが、初めて人間大、あるいはそれ以上に拡大された連中と対面した私は、突然楽屋に香川照之が尋ねて来た猿之助の如き状態であった。拡大することによって、無意識下の、へそ下三寸のもう一人の私の〝真意“が露になったのではないか?というのが昨日立てた仮説である。 当時母と同居しており、会期終了後、毎日、図書館に逃避したものだが、何故か浮世絵、かつての日本画ばかり眺めていた。これもヘソ下三寸が勝手にした事で、なんでこんな物ばかり眺めているのか、表層の脳は首をかしげていた。ここから写真から陰影を排除するという〝私の大リーグボール3号“こと石塚式ピクトリアリズムの開発となる。本家『巨人の星』では一番面白いくだりではある。


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仮説  


蘭渓道隆の数体の木像は、年代こそ違うが、亡くなった以降に作られた物なので、大雑把にいえば、七百数十年後に作る私と条件は一緒といえるだろう。生前唯一描かれた肖像画が、実像にもっとも近いとするなら、立体化して正面向かせ、人間大に拡大するだけで、充分作る意味がある。と私は思うが、唯一判ってもらえそうなレントゲンまで駆使して調査をした研究者の方にはどう映るだろうか。 もっとも、数センチの頭部が人間大からフットボール大まで拡大プリントされた時、生き別れた息子が突然楽屋に訪ねて来た歌舞伎役者のような状態になったので、どんな人物として私の前に立ち現れるのか、作った私自身、予想が出来ない。初めて長辺2メートルに拡大した16年の『深川の人形作家 石塚公昭の世界』の会場で、私はここまで作ったつもりはないが?と独りごちながら、不思議な気分でその表情を眺めた。そこで今回、密かに一つの仮説を立てている。あれがへそ下三寸のもう一人の私の意思が反映された仕業だとしたらどうだろう。 仮説通りの結論がもたらされたら、それが禅宗の高僧の制作によって導かれたとしたら、あまりに出来過ぎた話ではないか?




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作家シリーズの頃、文学研究者は多いが、私ほど、作家の面相を穴の開くほど見詰める人間はいないだろうと思ったものだが、完成間近の大覚禅師こと蘭渓道隆に関し、私など足元に及ばない程見詰めたであろう人がいる。各地に数体ある蘭渓道隆像を調査し、場合によってはレントゲンを当て、内部に納められた物を調べる。そのレポートのおかげで、生前描かれた国宝の肖像画が、もっとも実像を伝えている、と判断し、その肖像画だけを参考に制作した。その研究者の方に参考になる話でも伺えたら、と思い、個人情報の扱いにうるさい昨今だが、ダメ元で国立博物館に蘭渓道隆を作っている者ですが、と少々怪しいが他に言いようがなく、問い合わせしてみた。さすがに時間がかかったものの、本日アドレスの返信が届いた。 ところで今年最初の元寇(文永の役)から七百五十年目なんだそうだが、昨日、あろうことか、私の作った蒙古兵が、鎌倉建長寺の門をくぐってしまった。だからどうだ、という話ではないけれど妙な感慨が。

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写真を始めて以来、まことを写すという意味の写真に抗い続け来た。写真、西洋画になく、浮世絵、日本画にある自由さを写真に取り入れられないか、その自由を阻害しているのは陰影ではないか?と考え被写体から陰影を排除する手法を始めて10年ほどになる。最初のカットは三遊亭圓朝であった。蘭渓道隆の制作により、ゴールが近い気がしている。相変わらず表層の脳ミソは性能が悪い。何故そう思うのかは理解していないが、ヘソ下三寸に居るもう一人の私は確実にそう考えているのが判る。 一昨年の寒山拾得展の流れから、昨年、急遽ハンドルを切り、名前も知らなかった無学祖元、蘭渓道隆を制作することになり、その結果、高僧を描いた頂相絵画、頂相彫刻は、肖像画、肖像写真、人形、彫刻、私のイメージする人像表現の究極と思うようになった。幼い頃、百科事典ブームでウチに着た中井英夫が編纂していた百科事典の別巻の東洋美術で、鍵っ子だった私は、それらのリアルさに、畳に寝転がって飽きずに眺めていたのを思い出す。あそこから始まっていたのは間違いない。七百数十年前に描かれた斜め45度を向いた蘭渓道隆像に正面を向かせ、人間大に拡大して観たい。これがもっか一番の望みである。
三遊亭圓朝 鏑木清方へのオマージュ

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大覚禅師こと蘭渓道隆の頭部、最終仕上げ。今まで肖像画しか残っていない人物を作ったのは松尾芭蕉と葛飾北斎、臨済義玄。松尾芭蕉は門弟の描いた作品、臨済義玄は中国で創作され、伝来した肖像画、北斎は自画像を元にした。いずれも線描で描かれており、立体感など、こちらの解釈で作れることもあり楽だったが、国宝でもある蘭渓道隆の肖像画は、迫真の描写で描かれている。とはいえ陰影はないから立体感を想像して作らなければならない。場合によって、鼻毛や耳毛まで描かれる頂相画は、その存在理由、役割を考えると、単なる肖像画とは違う。それを実感しながらの制作で、時間もかかった。 写真を始めた当初から、まことを写す、という写真というものに、抗い続けて来た。何故そこまで、と頭では思わないでもながったが、へそ下三寸のもう一人の私が収まらなかった。蘭渓道隆の肖像画は、法衣や手にする物など地位を表す物はあるものの、背景には何もなく、陰影(ライティング)による創意工夫の余地もない。まさに人物そのもの。 陰影を排除する手法を始めて、原点の人形制作に戻った心持ちになったが。完成直前の蘭渓道隆を前に、私の写真に対する抗いも最終局面を迎えている気がした。

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昨日は朝から食欲がなく、胃の調子が良くなかった。いくらか寒気もする。風邪など何年もひいてないのだが。早めに寝ていたら突然胃液が上がって来て目が覚めた。出してしまったら、朝には治っていた。なんだったのか。仏罰という言葉がつい浮かぶ。着彩の続き。達磨大師の赤が、どちらかというと腰巻きの赤そのもので、これで良いのかどうか。蒙古兵完了。一休宗純は、残るは草鞋の紐。無学祖元の膝上の鳩は、円覚寺の木像の椅子の背もたれには2匹刻まれているので、それにならって一匹増やすことにする。無学祖元と蘭渓道隆は今週中に着彩まで、と思ったが、僧衣というものは、好き勝手に塗れるものではない。地位により使う色が決まっている。蘭渓道隆は肖像画に使われている色を使いたいが、図版により色が違う。無学祖元は、参考にした円覚寺の木像は真っ黒で、そもそも不明である。とりあえず頭部と手だけ着彩し、衣の着彩は後日ということにする。

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着彩を開始する。達磨大師は『慧可断臂図』で白い法衣を着せたので今度は赤にしようと思ったが、月下の達磨大師ということで、白のほうが映えるか、と思ったが、同じようなモチーフで月岡芳年の達磨図『月百姿 破窓月』がある。これも旧来の達磨大師とは趣きを変えた赤い達磨大師で、対抗心が湧いて高崎のダルマぐらい赤くした。雲水姿の一休宗純は、肩に酒の入った瓢箪を肩に、網代笠と髑髏を掲げた竹竿を持つ姿をようやく見た。写真作品としては、正装ではあったが、すでに竹竿に髑髏は一度作ったので、写真作品としては朱鞘の大太刀 を持たせる予定である。臨済義玄を塗り直した。 無学祖元が来日前、寺が元寇に襲われ、一人坐禅中に、喉元に剣を向けられながら、動ぜず。漢詩を詠んで退散させた、という故事から。名場面の割に視覚化されていないようなので、蒙古兵も作った。

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予定としては、次も寒山拾得を推し進めるつもりでいたはずが、本格的禅を日本に伝えるために来日した渡来僧を2人作ることになった。大覚禅師こと蘭渓道隆の立体像は、私の知る限り建長寺に2体、他2体ある。いずれも亡くなった後に作られているが、建長寺の2体を含め、いずれも顔が別人のように違う。数百年間に及ぶ伝言ゲームのようである。まさにドラマ『ミステリと言う勿れ』で菅田将暉の久能整君がいっていた、人は主観でしか物事を見ることは出来ず〝真実は人の数だけある“である。そう思うと、生前描かれ、本人が賛を書いている、本人お墨付きといえる国宝の肖像画が最も〝事実“に近いはずだと思えた。だとすると、それを立体化し、正面を向かせることが出来れば、蘭渓道隆の死後七百数十年ぶりに、真正面の顔を見られるのではないか?もちろんこれも私の真実に過ぎないけれど。そうこうしていたら、昨年、横尾忠則さんが、まさかの『寒山百得展』で風狂の精神を実践され。私の寒山拾得の続きはまたいずれ、ということに。


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私が死の床でアレを作れば良かった、コレを作るんだった、と後悔に苦しむのをことさら恐れた理由が、死にそうだった父が退院して来たら、スポーツ新聞広げて水戸黄門を観ていてショックを受けたのが原因だと昨日書いたが、これは間違いないだろう。年齢と共に気になって来た。私の場合、作りたい物がまったく途切れずに常にある。ということは、死の床で、作れなくなった時も、何かはある訳で、それを想像してはウンザリしていた。父はどうだったのだろう。 しかし考えてみると、ほとんど外に出ず作ってばかりいる私は、人には退屈な生き方に見えているかもしれない。頭に浮かんだイメージが形となって目の前に現れる快感がどれほどのものか、これは私にしか判らないことであろう。大谷がパスタに塩のみと聞いて「人生つまんなくね?」 といった選手がいたらしいが、わかんねえだろうなあ、と大谷は思ったろう。 父と共通の話題はプロレスだけであった。ありがちなことだが、保守的な父はジャイアント馬場を嫌い大の猪木ファンだった。これもありがちなことだが、私は好き勝手な猪木を嫌ったのだが、父はそれを知らずに死んでいった。

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ペーパーをかけながら、きっと来年の今ごろも、まさかこんなものを作るとは思わなかった、といっているんだろうな、と思った。行き当たりばったりの、とんだ風船野郎であるが、長い予定など立てず、目の前の、今作るべき物を作る。これこそが死の床で、アレを作りたかった、コレを作るんだった、と後悔に身をよじる可能性を低めるコツである。何故これほど恐怖を感じるのか。理由に気が付いた。 亡くなった父が、何度目かの入退院を繰り返していた時、今回も危なかったが、ガリガリになりながらも、なんとか退院をして来た。夕方、実家に帰ると、父はスポーツ新聞を読みながら、水戸黄門を観ていた。その姿にショックを受けた。この期に及んで他にすることないのか?! しかしそのおかげかどうか、本日が人生上の最突端だと思えている。何が良いといって、過去のあらゆる失敗、間違っていたであろう決断も、今に至る一要素であると思えることである。制作することにより湧き出る、例の快感物質に単に酔っているのであろうか?

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