明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

難問  


鯉に乗った琴高仙人は水面からジャンプしている所、または鯉の半分もしくは全面が水面下にあり、仙人の上半身だけが水上にあり、等々頭に浮かぶのは良いが、それを可視化する生身の私は大変である。人は頭に浮かんだ物を作るように出来ている、という養老孟司のいう仕組みに苦労させられることになる。『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)ではマンションの駐車場で撮った人達を房総の波打ち際に立たせたりもしてきたが、石塚式ビクトリアリズムの場合は陰影がない、それは同時に反射や艶もない、ということである。蝋燭や人魂の火は、筆で描いた物を使うという奇手でしのいだが、水に関しては策がない同じように水や火で苦労したであろう特撮監督円谷英二に相談したいぐらいである。連合艦隊の空撮の海面はこんにゃくを流し航跡は筆で擦ったらしい。石塚式の最後に立ちはだかる難問が水という訳である。北斎のように日がな一日海辺の波でも観察すべきなのか?いやなこったである。線と、水の屈折でなんとかならないだろうか。
 


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コメント
 
 
 
Unknown (市山貴章)
2021-11-25 08:55:10
サランラップも案外と使えるよ😁
舞台で血だらけの🩸場面に身体にサランラップを貼り付けて色付けしたらリアルだと
好評でした。しかし波、水面となると
違ってくるので如何なものか? 一考
 
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