明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



4年間隔月で表紙を担当した都営地下鉄のフリーペーパーだが、その間常に怯えていたのは篠山紀信撮影の薔薇十字社版男の死が出版されることであった。ちょっとでも本家より先に発表しなければ、人形作って何をしている?とかなり痛いことになる。人伝に孫が高校を出たら出版されると聞いた。フリーペーパーの廃刊が決まって真っ先に関の孫六の模造刀を入手。企画者の元薔薇十字社の内藤三律子さんにお会いし、こんなことをしたいとご相談した。趣旨が違うから、と快諾いただいた。そうこうして震災が起き、何しろ先に発表しなければの一心で震災でキャンセルになり、偶然三島の命日を含む期日の個展を開催した。寝床に本をばら撒き、寝心地を悪くして睡眠時間を削って望んだ。しかし時間はいかんともし難く、イメージのすべてを形にはできなかった。そして結局、男の死出版はガセネタであった。 そして降って湧いたような今回の椿説男の死である。おかげでやり残したイメージもすべて形にした。 コロナ騒動の中、個展決行は色々な意味を持つことになったが、決行は正解だったというのはここでもすでに書いた。ところが最後のオチが待っていた。 今日お出でいただいた三島のコレクターの方に伺って知った。篠山紀信の男の死が10月にアメリカで出版が決まり、すでに予約も受け付けていた。個展が延期になっていたらと思うと。没後50年の内の4ヶ月。タッチの差とはこのことである。お天道様は決して助けてはくれないが、私を見ているのは間違いないようである。
https://www.rizzoliusa.com/book/9780847868698/


6月7日まで延長。明日は休廊日です。






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私が意識して来たことといえば、余計なことは知ってはいけない、身に着けるな、学ぶべきことは必要になってからで充分。ということであった。最初期の架空のジャズマン、ブルースマンを作っていた頃は、楽器やスーツの形など、記憶にないこと以外は頑なに資料を参考にすることはしなかった。一度入った物は出ていかない。考えて見ると、学ぶということは、自分に備わっていないものを取り込むことでもあり、無自覚に学ぶことは危険が伴う。怠け者の言い訳のようではあるが。 今の社会は情報に満ちており、そこから自分を守るのは意識してそうしない限り無理であろう。 勉強したことといえば、すでに廃れていたオイルプリントに挑んだ時だったろう。あればただやりたくてやったことなので、画像が出た時点できっぱり足を洗った。 その後自作の人形を撮り個展をするようになり、だったらあれを、と再開し、個展を連発したのが2000年に入ってからで、少々早すぎて空気に合わなかった。その後古典技法をやる人口が増え、今こそあれを、と古典技法のグループ展に参加した。 あの時、熱に浮かされたように、面倒な技術に挑んだのは、最後、自分の作品をオイル化して終わるためだったのだ。と以来思い込んでいた。 ところが我が大リーグボール3号こと、石塚式ピクトリアリズムは、イヤに私の性格、その他に合った手法だ、自分で考えるとたまたま、そういうことになるのか?なんて書いていたのだが、オイルプリントの孤軍奮闘が遠因となり、作用していたことに気がついたのはつい今月10日のことである。どうしても表層の脳は気が付くのが遅い。

6月7日まで延長






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寒山拾得に髭を描かない、にはやはり理由がありそうである。あの独特のイメージ、髪はボサボサ服はボロポロで爪は伸び放題。なのに髭はないことがほとんどであり、仙人とは一線を画す。奇怪な童子じみたイメージに、髭を描かないことも貢献しているだろう。イカれた曾我蕭白ですら描いていない。最初からこの二人を手掛けるには作法のような物があり、それに準じるべきだ、とそんな気がずっとして来た。型というものは、そうするにはそうする理由がある。 本当のことなどどうでも良い、と言い続けてきた私が、実在した人物から説話上の人物を作ろうとしたとたん、型がある、先達に準ずる、などと言いだすのは、自分で言っていて、この期に及んで何をいってる、と思うのだが、例によって何故だかそう思うのである。 最近矛盾は矛盾として、そのまま解決せずに抱え込むことも有りではないかと思うようになった。作品における矛盾に耐えられずにグループ展の出品作を会期中に2度も差し替える醜態もさらした。 このモチーフも完成の暁には、何某かつかんで、初めから知っていたような顔をするのであろうか?最初から頭で理解できるようなモチーフは取り組みに値しない。開始前は、まずはこんなところであろう。





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2000年から続けていたホームページが消えてしまい。ここ四年ほど、振り返るにはこのグダグダしいブログを検索するしかない。友人が保存してくれているので身辺雑記くらいはいずれ復活させたい。画像は今の常識からすると軽すぎるし。 元々何某か更新しないとホームページは誰もみてくれない、とよく言われたもので、作品は一通り載せてしまえば、そう更新はできない。仕方なく始めたのがよく続いている。パソコンで書いていたときは、モニターのこのあたりまで、なんて書いていたが、スマホにしてからは、どうもさらにクドクドしくなり、字数は六百まで、と思っていたら、最近は下手をすると七百文字を超えてしまったりする。 しかし考えて見ると、作るときは頭を使わず衝動のままにやってしまうのだが、その割に、なんだか判らないがやりたいからやる、ではあまりにバカみたいでブログで言い訳しているような気がするが、それが結果的に私は何をしようとしているのか、について考える結果になり、飯沢耕太郎さんとのトークショーを改めて見て見ると、最初から自分が何をしようとしているか、知っていたかのような顔をしていた。 もっとも、完成した、といっているのに、私は何をしたくてこんなことをしているんでしよう、ではあまりに情けない。そう思えば、結果的に、自分自身納得して完成しました、といえるのであれば良かった、ということになるだろう。実はそんなスムーズには行かず、当てずっぽうだったり、グループ展の出品作を二度も差し替えたり、なんてドタバタしたことなどは、当ブログを読んで頂いている方々にバレてはいるけれど、読者数を考えると、たいして恥ずかしくならないという寸法である。
三島以外の出品作。





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自分の頭に浮かんだイメージを可視化することに成功したことにより三島関連の制作は終了した。これが現在の私の人生上の最突端といえる。本人がいうのだから間違いはない。それはそれとして、後に並んで出番を待つ鮫の齒のように次にすべきことがある。 本来個展の会期中なのだから、当ブログも三島について書くべきだろうが、悩み終わって作り終わって結果も出たので思う所が何もない。よって会期中にして寒山拾得のことばかり書いている。 仮に椿説男の死が会期延期になっていたならどうだったろう。ハードル間の距離を急に変えられたからといって勢いと歩幅の調整は効かない。個展を延期せざるを得なかったアーティストはどうなのかは判らないが、私には気分の切り替えは難しかったであろう。とりあえずはゴールを駆け抜け、おかげで新たな取り組みに気持ちの切り替えも成されている。私のような渡世は人と比べることも世情も関係なく、自分だけの世界で納得し完結できる所が何より良いところである。悪い所はというと、書いていたら字数が足りなくキリがないの書かないでおく。当ブログの唯一のルールは都合の悪いことには触れない、である。 寒山拾得に関しては会期が終わるまでは作り始めないことにしている。三島への義理立てもあるが、私のブログを長くご覧の方は、ご存知であろう。自分をわざと焦らして、弓の引絞り効果を狙い、集中力を高める、という姑息な手段をしばしば取るのである。明日27日は2時くらいまでには顔を出すつもりにしている。



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寒山拾得~描かれた風狂の祖師たち~展 図録栃木県立博物館を以前持っていたが引っ越しの際に置いてきてしまった。寒山拾得図はそれこそ玉石混交、星の数ほどあり親しまれてきたモチーフであることが判る。その分下手くそな物も数多い。しかしこの図録には名品が選ばれていた。こういう欲しい物が決まっている時はネットで探すに限る。必要でない物まで買ってしまうことは避けられる。断捨離を済ませた私としては余計な買い物は避けたいところである。ヤフオクで検索すると一冊あったが8000円もしている。この間まで持っていただけにそれは嫌なので検索して1500円でみつける。 当初から、といっても先日からだが、新趣向の寒山拾得を、とは考えないこと。先達の作って来たイメージから、逸脱しないこと。私の危険回避センサーがそう警告を発している。ただいつも作家を作るのと同様に、寒山と拾得、または豊干それぞれの声までが頭に浮かぶくらいには持っていって臨みたい。私の中では、コロコロとした童子じみたものから変化しつつある。童子とは言わなくとも、そんな印象があるのは、あれだけ髪はボサボサで爪は伸び放題の二人なのに、何故だが髭を生やした寒山拾得の記憶がない。そのことも図録で確認してみたい。その辺りが仙人の表現とは一線引かれているような気がするのだが。 


黒蜥蜴



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寒山拾得はいつものように和紙にプリント額装するとして、その全作品をインクジェットのロール紙を利用し、長尺の絵巻風にしてプリントしてみたい。そこには時間経過だって描けるだろう。寒山拾得、豊干、虎が寝ている四睡図や、様々な場面を並べたら良い。山中の様子も描きたいが、小川や湖水なども欲しい。そうなると未だ手を出していない水の表現が問題になってくる。陰影が無いということは反射や艶もないことになるだろう。行灯や蝋燭の炎は筆描きでなんとかこなしたが。円谷英二同様、水と火の表現には苦労することになる。 松尾芭蕉は芭蕉像だけでなく芭蕉庵も作ることになっている。かつてのジャズ、ブルース時代のように、人形作りが楽器や芭蕉庵に感心されてもしようがない。あくまで芭蕉像を引き立たせるためだけに作りたい。せっかくそこまで作るなら、芭蕉庵の芭蕉も写真作品にしたい。となるとカワズが飛び込む古池が欲しくなる。その時には水をどう描けば良いか打開策が見つかっていなければならない。芭蕉記念館の前に芭蕉の木もあるのだが、道路っぱたでまったく生気がない。それに引き換え、最近SNSで見た友人の工房に生える芭蕉の木が瑞々しい。あれを撮らせてもらう手もある。芭蕉庵に芭蕉の木がなければ絵にならないだろう。 また別な欲もあって、陰影を思いっきり出して、池も本物を使い、リアルな芭蕉と芭蕉庵も制作してみたい気もする。夜、燭台の灯りを頼りに句作に思いを馳せる芭蕉なんていうのも良いだろう。絵画とは違い、被写体を一度作ってしまえば撮り様は色々あるので妄想は拡がる。最近ジタバタしながらも気が付いたら思った物が作品となって目の前に現れる。何よりである。


6月7日まで延長

大鴉 エドガー・アラン・ポー


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ふげん社移転後、口明けの個展をやられた土田ヒロミさんがお見えになる。燃える金閣寺の三島の前で記念写真。ところがスマホを渡された私が、いくらツンツンしてもシャッターが下りず。仕方ないので私が構え、シャッターはたまたまいた知人に押してもらった。私はこの世にいるつもりでいるのだが何故だ? 制作に集中していると様々な偶然を引き寄せることがある。例えば泉鏡花の貝の穴に河童の居る事を制作していた時は、フクロウが登場するのだが、どこで撮れば良いのだ、と思っていたら、ごく近所に猛禽類カフェができる。こんなことは良くある。三島で凄かったのは、三島の個展会場を探していて、ある展示スペースを紹介された。良かったのだが、管理をすべて自分でやらないとならない。私の苦手なことで躊躇していたら、なんとそこの先代の社長が三島が市ヶ谷に持っていき介錯に使われた日本刀、関の孫六を三島にあげた人で、現社長が居合いをやっていて、17歳だがで切腹の作法を教えたという。地球上で、他にどこでやれば良いのだ、という話である。ところが三島にあげた刀があのような使い方されて残念だ、と報道され、残念とは何事か!という右翼の言いがかりで、商売にも差し支え大変だったそうである。そのせいで何十年も経っていたにも関わらず、何をやっても良いが、三島だけは、と断られてしまった。 今日もかなりな偶然を知った。寒山と拾得は実は文殊菩薩と普賢菩薩だということになっている。ところが個展会場のふげん社とは、社長が子供の頃、森鴎外の寒山拾得を読んだことで名付けたという。なので先日の飯沢耕太郎さんとのトークショーで、私が突然寒山拾得、と言い出したので驚いたそうである。写真関係者の口から寒山拾得はまず発音されることはないだろうから、そのいわれをどのくらいの人が知っているのか。 三島を終えたからこそ、私の中で寒山と拾得が大きくなってきた。ふげん社に最初にお邪魔したときに、三島を持っていなかったら、果たしてこんなことが起きただろうか。 私もこのようにはしゃいでしまうと、いよいよ寒山拾得で決めないと、かなり格好の悪いことになりそうである。東京でやるならふげん社で、といっていただいた。 






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寒山と拾得は、森鴎外によると痩せている、と書かれている。私はヤフオクで入手した中国寒山寺の土産物として売られている拓本を持っているが、伊集院光が自分にそっくりだと、集めたくらいで、二人はでっぷり太っている。さすがにもう、説話上の人物であるし、痩せていようが、太っていようが構わない訳である。夏目漱石の鼻が実はかぎっ鼻だった、といっては喜んだり、芭蕉は門弟の描いた肖像画だけを参考に、なんて律儀にする必要はない。 石塚式ピクトリアリズムの第一作、今回も展示している、三遊亭圓朝だが、これは鏑木清方作三遊亭圓朝像へのオマージュとしたが、当初、肖像画の傑作、圓朝像は、単に資料の一つのつもりだったが、これが私の知る限り写真で見る圓朝と顔が違うのである。これには悩んだが、これが清方の表現だと納得した。しかしこれは幼い頃から面識のある清方だからこそでのデフォルメであり、単に写真だけが頼りの私がそれをやる訳には行かない。そう思い敬意を込めて同じ構図にしてオマージュとした。実在者はもう辞める、と決めた原因の一つはこの時にあった、と今思った。 ところがもう律儀に実像に迫る必要はないのに関わらず、先日も書いたが、私が新趣向の寒山拾得像を制作しようというのは違う気がするのである。矛盾するようだが、むしろ先達の描く寒山拾得に準じ、写経でもするつもりで、その末席に座ることができれば成功ではないか?常日頃のモットーである及ばざるくらいなら過ぎたるたる方がマシも、人形を作り、写真に撮り石塚式ピクトリアリズム化できれば目的に達することになるのではないか。寒山拾得制作を前にそんな気がするのである。


鏑木清方作 三遊亭圓朝像へのオマージュ


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今回の個展が他の誰でもなく三島由紀夫だったこと、また三島でやり残したことがないこと、そしてコロナ以前とコロナ以後、と語られることになりそうなコロナ騒動。コロナの収束を待って、以前の状況に戻って欲しい、というのは当然私にもあるが、創作者としてはまったく別な観点がある。明らかに椿説男の死に辿り着く前と今では私が変わってしまっている。これは人に見てもらえない、来てもらえないで残念、会期を延期していたらどうだったか、などとは別な話である。ここが依頼されずとも長年勝手に作り続けてきた私の考え方だが、自分が変化することこそ生きていることであり、コロナ如きでそのペースを崩さずに済んだ、というのは後で効いて来るだろう。もちろんそれには、自粛自粛が嫌だった、というふげん社という会場有りきである。一昨年、三島で、というのが決まり、足が地に着かない気分で帰った。聞き間違えではないのか、と念のために昨年確認に来たくらいである。おかげて想いは吐き出せただろう。この渡世も長い、私には確信がある。寺山修司ではないが、百年経たずともその意味判る、だろう。



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昔から考えていたことだが、人間も自然物、草や木と同じような物であるから自分の中にすべて答えが備わっているのではないか。それに気付かないのは余計なことばかり考える頭があるからだと。経験上、頭を使って導き出したことにろくなことがなく、なぜだが判らないが、湧いてくる衝動のままに行ったことのほうが結果が良い。それに気付いてからは、見聞など広める必要も感じず、画廊や美術館にも行かなくなり、腹の奥底から湧いてくるものに耳を澄ませ、棚からぼた餅のように降って来たことのみ取り逃さないよう気を付けている。出無精の言い訳になってしまうのだが。 何十年も前から、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想、といっていたのは、比喩表現でも何でもない。もっとも私は絵描きではないので、最低限、外の世界の素材は必要であり、以前、海や空、水や火、地面や壁や、撮りためていたものである。ハードディスクの度重なる故障で殆どが失われ、また始めようと思っている。数年前から写真が残っているような人物は、新たに作らないことにしたが、それこそ既存の、外側の事象?を写真を見ながら制作するのはもう充分だと感じたからである。 大昔、楽器以外は写真などできるだけ参考にしないように制作していた時期があった。例えば人の耳は本当はこうではないが、そう思い込むには理由があり、本当のことを知ったら私の個性は失われてしまう。いかにもデッサンもろくすっぽしたことがないド素人の考えそうなことであったが、自分を外の情報から守り、余計な勉強をしてはならない。必要のない技術は身に着けない。このことは頑なに守って来た。しかしある時から実在した人物を作るようになり、色々な情報を取り入れてしまった。もう戻れない。 寒山拾得に何故惹かれるのか、自分ではさっぱり判っていないところが見込みがある。表層の脳で理解できるようなことは制作の対象としてはたいした物ではないから手を出してはならない。そして個展の暁には、熟考しながら計画的に事を進めたような顔をしている訳である。


潮騒より


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ここまで寒山拾得、寒山拾得と連呼してしまって良いのであろうか、新たなことというには、寒山拾得はなかなかハードルは高い。昔は友情を持って止めてくれる友人がいたものだが。 今回出品しているが、豊干がいつも乗っている虎を、まだ虎を見たことがなかった日本の絵師の虎にするため近所のトラ猫を撮影して虎にする試みはすでに成功しているし、松尾芭蕉は、これは豊干だ、と私がいえば豊干で通るだろう。先日書いたように、すでに寒山の住まう岩窟も作れそうである。となると仕込みはかなり済んでいると言えそうである。 今回あまりにマイナーで、出品しなかった船の挨拶という戯曲がある。ある海上保安庁の職員が、一人灯台守をしている。毎日汝の安全なる航行を祈るという国際信号旗を揚げている。そこへ突如怪しい密航船が現れ銃撃を受ける。日々日常に飽きていた男はその銃弾を待ち望んでいたかのように感謝して死ぬ。実に三島らしい作品である。幼い頃、家に突然神輿の集団が乱入し、庭を踏み荒らしていったエピソードにも、凶事を待ち望む三島の心理が現れている。現実には密航船も神輿の集団も現れぬまま、市ヶ谷のクライマックスを迎えた。何でこんな話になってしまったか、というと、寒山拾得に気が行っていても、何処かでそれを踏み荒らしてしまうような神輿の集団、一発の銃弾で粉砕してしまうような密航船などの禍事、凶事ならぬ新趣向が降って来はしないだろうか、と何処かで待ち望む自分もいるのである。

汝の安航を祈る 船への挨拶より

6/7まで延長





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新型コロナ騒動が、ある程度収束したとしても、様々なことが一変するだろう。寒山拾得に向かうにあたり、何某か作用することは間違いない。そう思うと、椿説男の死を延期せずに決行したことも、今年の後半作用してくるだろう。そのせいで今年の暮あたりは、予定外の妙な所に立っている気がする。そもそもいっぺんに2つのことに責任が持てない私は、三島を終え,返す刀で寒山拾得と行きたい。 インクジェットのロールペーパーは長辺はそれなりの長さが可能であろう。絵巻調で行くのはどうだろう。そこには月に虎、寒山と拾得、虎に乗った豊干、また豊干と虎と寒山と拾得が眠りこける四睡図の数メートルの絵巻。そこには時間の経過も詰め込まれ、それぞれのパートは、手拭き和紙に額装。 実は良くあることなのだが、今まさに書きながら思い付いたことを書いている。しかし、新たに作るからには独自の寒山拾得を、というのは危険である。人形を写真で、その時点でかなりなことをしでかしている状態である。自由なモチーフだと曾我蕭白などを見て勘違いしてはならない。能面師の謙虚さをもってあたらないと、寒山と拾得はゲラゲラ笑いながら、どこかへ去って行ってしまう気がする。




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思い残すことがない、というのは思っていた以上にすがすがしいものである。サーカスという作品の構想を練っていた時期があったが、空中ブランコ乗りの少女役が得られないままに終った。しかし椿説弓張月や、最終カット、とずっと考えていた市ヶ谷駐屯地の事件現場の三島が最後に観たであろう窓外に水平線、そこへ日輪が昇る場面も完成し、すっかり溜飲を下げることができた。そう思うと過去のジャズ、ブルースシリーズも初出版となった江戸川乱歩も、やり尽くした感はない。昔、パワー不足で使わなくなったパソコンを久しぶりに開けてみたら、江戸川乱歩の出版に向け、青銅の魔人、パノラマ島奇譚その他、途中まで手掛け完成に至らなかったデータが見つかり、まるで借金とりに追われ、慌てて夜逃げしたかのようなであった。そう考えると、開催中の椿説男の死はやり尽くした感に満たされている。今回DM、ポスターになった三島を眺めると、かつての任侠映画ではないが、我慢に我慢を重ね、堪忍袋の緒が切れて討ち入りに至り、背なで泣いてる唐獅子牡丹。それというのも、自粛自粛の世の中で、構うことネェやってしまいな!という、ふげん社あってのことである。人は来ないだろうが、見ている人は見ている、との飯沢耕太郎さんからのメールも染みる。 私の創作行為とは、頭の中のイメージを可視化し、やっぱり在ったと確認する行為であり、世界がどうあろうと、自分次第でそれだけは遂げることができる。三島には決行が似合うといったのも、まんざら冗談ではないのであった。



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一昨日月一のクリニックへ。マスクがない方は一つ百円で。 一昨年あたりは通院をサボりまくり、薬も飲んだり飲まなかったり。いつ死んでもおかしくない、といわれていたが、引っ越し後、三食食べて規則正しくしていたら、数値が改善し、何をしたのか聞かれる有様で連戦連勝。ところが好きでやっているとはいえ、私にしては数年越しの三島由紀夫は覚悟がいった。制作には性能の悪い頭を使ってはいるようで、甘い物が欲しくなる。買い物ついでに、それまで食べようと思ったこともなかったカルピスのマシュマロ、またドーナツ、アンドーナツを買うのがちょっとした習慣になってしまった。その成果?がしっかり出て、数値が数ヶ月ぶりに後退。エルビス・プレスリーによって得たドーナツの教訓が無駄となった。 ここで改めて目標を掲げる。寒山拾得を完成させるまでは、クリニックをサボることなく、交通事故には気をつけたい。今回はコロナも加えておこう。 寒山拾得は必ずカラーで行くべきだと思う。禅画由来なだけに水墨画的に描きたくなるかもしれないが、全てカラーで行く。 良く思うのだが、写真が発明された当初から天然色だったらどうだったろうか。せっかく色彩があるのに、わざわざモノクロにしただろうか?モノクロで始めてモノクロの良さを体験し、知っているからモノクロームの愛好家がいるので、発明当初からカラーであったら、果たしてどうだったろうか。せっかく在る陰影を削除する人間もいるから好き好きだろうけれども。

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