私が容易に写真を信用しないのは、ただのシロウトの黒人を作ってしまったロバート・ジョンソンの一件が大きいが、昔の写真館は修正の技術がうりで、職人は修正の腕さえあれば、全国鉛筆一本で渡っていけた。よって同じ人物でイメージの異なる肖像写真が存在することにもなり、同じネガを使用してさえ、複写、修整のくり返しで多くの場合、別人になってしまう。私にとっては迷惑な話で、現に制作中の人物は同一のネガから発した、異なったイメージの肖像が数種存在し、その中から人物のイメージを嗅ぎ取っていかなければならない。夏目漱石を制作したときは、肖像写真のまっすぐな鼻筋に疑いを抱き、後にデスマスクをみて、その見事な鷲鼻に呆れたものである。肖像だけでなく、時にプロパガンダに利用するためなど、常に手を加えられ続けてきた写真だが、近頃は写真の世界もすっかりデジタル化し、カメラマン自らがデジタルによる修正をすることも多く、時代を恨むアナログ出のカメラマンは多いことであろう。(おおかたのカメラマンは絵を描くことは不得手に違いない)
報道における写真の重要性はともかく、本来、光画と訳すべき写真は、発明の瞬間から真など一度も写したことなどない、というのが本当のところであろう。しかし写真嫌いだった私が、写真を面白く感じたのは、まさにこの点であり、リアリズム写真の世界から疎まれ、廃れていった、かつてのピクトリアリズムを知ってからの話である。そして、いかにも真実を写すもの、という錯覚を利用し、もっともらしい嘘を描くのには最適と、写真作品を制作し、今に至るわけである。 だがそういいながらも、実験的にリアルに制作した古今亭志ん生のように、ホンモノとまごうが如きに作るのは本意ではない。私がすべて作った、といいたがりの私としては、亡くなった俳優の峰岸徹さんのように、「なんだ志ん生、あの店に来たのか」と思われては、泣き笑いのような状態に陥るからである。
01/07~06/10の雑記
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