明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



死の床で、あれやこれを作れば良かった、と身をよじり苦しむことを若い頃から恐れていたので、先の制作のことは、せいぜい3作程度にして、それ以上のことは考えず、途中挫折の可能性を低くする策を講じることにしたが、浮かんでしまうものは仕方がない。腹が減りゃ食いたいものが浮かぶのと同じで防ぎようがない。 私の描いた絵図。雲水姿の一休和尚を完成させ入院。入院中一休の『狂雲集』を読む。一皮むけた顔して退院。次の段階の制作へ。奮闘努力の末、ここに至ったのはあの時入院したおかげである。と遠くを見る目をし、己の不摂生をノーカウント化。



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一作づつイメージの最終チェックをしている。本日は一休宗純。何順目だろうか。小四でねだって買ってもらった大人向けの『一休禅師』。子供ながら感銘を受けた竹竿にシャレコウベ掲げて正月の京の街を歩き回り〝門松や冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”の一休がいよいよ目の前に現れる日が近い。その一作のつもりが、ある日、江戸時代の英一蝶の『一休和尚睡臥図』を見てしまった。道端で酔い潰れた一休を軒先の家人だか通りがかりの男が心配そうに見下ろしているのが可笑しい。室町時代の一休に対し江戸時代の一蝶と私、大した違いはない。私が一休を酔い潰すとしたら、と考えたのが、昼間竹竿にシャレコウベで歩き回り、くたびれてムシロをかけてシャレコウベ枕に寝てしまう。という、門松や〜の連作である。風狂の人一休にはこのぐらいのことをしてもらいたい。胸元にはシャレコウベにまとわりついていたカラスが止まっている。出来るだけ堂々と。最前に配したい。傍らには酒が入っていたであろう瓢箪が一つ転がっている。 芸人でもあり島流しにもあった英一蝶のユーモアは実に私好みである。滝に打たれている不動明王が、濡れないよう背中の火焔を傍に下ろしている。今回は我慢したが、これはいつか必ず手掛けたい。酉年の守り本尊は不動明王である。物心つく前に、迷子避けに住所と不動明王が彫られた小さな小判型プレートを首から下げていたのを覚えている。今はなき町名であった。



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なぜ一休和尚を作ることになったのか、もはやブログを読み返すしかないが、子供の頃に『一休禅師』を読んで、印象的な面相と”門松は~目出度くもあり目出度くもなし“にいたく感心したのを思い出し、ついでに工芸学校の頃、一番好きだった陶芸家、河井寛次郎の“鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥“にも感じ入ったのを思い出した。私は一点だけ凝視してしまうところがあるから、こんな客観的な見方に感心してしまうのかもしれない。この頃は、禅宗でも特に臨済宗が、先達の肖像を残す習慣があったのを知らなかったから偶然にも、寒山拾得と同じ、一休も臨済宗か。と思ってしまったのだろう。今となっては、そんな思い込みのせいで、一休禅師が酔い潰れているところも作ることになり、実に良かった。やはり成り行きに身を任せるに限る。しかし考えてみると、寒山拾得も一休も、風狂という肝腎なことを象徴するモチーフである。その点を忘れてはならないだろう。



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転がる石に苔生えず、とはいうものの、またしても行き当たりばったり、まさかの一休が正月早々、道端で酔い潰れているところを作る気になってしまっている。成り行き任せも加速している感があるが、東洋絵画には、我慢するにはあまりにも面白いモチーフに溢れている。何より今に通ずるユーモアがある。 ところでせっかく一休を道端で酔い潰れさせるのであれば、門松の傍らで、と考えた。しかし一休の時代の門松はどうも今の門松とは違うようで、斜めに切った竹は徳川家康以降で、庶民は竹の代わりに笹を使っていたようである。 酔っぱらいのデータは頭の中に膨大なストックがあるが、いささかデータに品がない。そのまま使っては禅師に失礼過ぎる。穏やかに地べたに横たわって貰い、その代わり野犬にクンクンさせたい。当時の京の街には行き倒れを見付けようものなら喰ってやろうなんて犬がいくらでもいただろう。この『一休和尚酔臥図』は副題を一休作の”世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬのを待つばかりなり“ にしよう。

 



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曽我蛇足が描いた一休の斜め視線、珍しいが、これが実に一休らしい。特にしやれこうべを掲げて”門松や目出度くもあり、目出度くもなし“の、ただ目出度い気分の世間に異を唱える一休には相応しい。全身像にしようと思っていたが、腰から上、竹竿の先のしやれこうべまで、背景はなし。足下まで描く必要はないだろう。 ねだって買ってもらった大人向けの『一休禅師』小学4年にもなると、大きな活字と子供向けの挿絵に拒否反応が生じて来た。大人だろうと子供だろうと見える物は同じだろう。それを子供向けの挿絵にするのが、私には“余計なお世話“であり、未だに童画的な物に拒否反応がある。 子供の私が筋肉を描いているのに大人が何故描かない?!子供のままにしておいた方が大人には都合が良いのだ。そこに気が付いていたので、ずっと息を潜めて小学時代を過ごした。そう思うと一休の“門松や冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”にことのほか私が反応したのは、それが本当のことだったからであろう。この期に及んで良く出来た再会である。


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考えてみると39年前の個展デビューのジャズ、ブルースシリーズ、次の作家シリーズ、そして制作中の作品。それにつれて、話相手は減って来ている。今回のモチーフに至っては周囲も、よりによって感が際まり、当ブログは、一人ごとをいっている有様で、ブログというより、個人的な忘備録、メモの様相を呈している。思い付いたことをダラダラ書いているが、予定していなかった地点にたどり着いてしまい、何故私はここにいるのか、その謎?を後々検証するために必要になる。無計画ゆえであるが、そんな状況とは裏腹に、制作上の充実感は高まっている。ネタはどうやって考えるのか?の問いに“エアコンぶんぶんお姉さん”も「考えている時の人間は、面白いものから遠ざかっている、という判断の元、何も考えずに作ってます。」といっていた。 頭に浮かんだイメージはどこへ消えて行ってしまうのか?と不思議だったのは小学生の低学年の頃だったが、親にねだって大人向け一休禅師を読んだのは4年生だったろうか。あの頃の私に、消さずにとっとくことが可能になったぜ、と言ってやりたい。

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現在制作中のモチーフは、日本人は一休宗純ただ一人の可能性が出てきた。後は中国人で、さらにインド人を一人作ろうとしている。 禅宗には高僧を木像や肖像画にして残す、という習慣があり、おかげで、間違いなく一休はこうだったろう、というリアルな姿を知ることが出来る。中でも曽我蛇足は、一休に画を教え、一休から禅を学ぶという間柄で、その肖像画に一休自らが賛を書いた、つまり本人のお墨付きという訳である。 蛇足の一休像は何作も残されているが、中には冴えない作品が混じるな、と思っていたら、蛇足は時代ごとに何人もいて、一休と親しく交わったのは墨渓という人だったようである。一休と共に臨済義玄像でもお世話になっている。となると、墨渓作を写した他の蛇足は私と条件は一緒である。そういえば曽我蕭白も蛇足を名乗ったことがあるというのを何かで読んだ気がして来た。 二メートル超はあろうかという赤鞘の大太刀を傍らの肖像は残っているが、それらはおそらく本人を目の前に描いているが、私が作ろうとしている、竹竿にしやれこうべの画は残されてはいない。だからこそやりがいはあるものの、実はあれは実話ではない、なんてことが露見しないことを祈るばかりである。事実とするなら一休いくつの時のエピソードか調べる必要がある。下手くそ蛇足も含め、若い頃から禿げて行き、老人とななった肖像があるので、おおよその経年変化は想像ができるからである。唯一の日本人、さらに小学生の時のイメージもある。こだわりたい所。


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一休に髪の毛を試しに粘土を“ちねって”みた。実にむさ苦しく要散髪だが、小学生で読んだ『一休禅師』のイメージそのものとなった。 私が二十歳で岐阜の製陶工場で食器を作っていたとき、そこは配送センターの一角だったのだが、夫婦で働いていた加藤さんそっくりである。当時も一休そっくりだと、社内旅行のバス車中の写真があったのだが、自分の子供時代の写真アルバムを引っ越しの際に忘れて来たのに、そんな物がある訳がない。その旅行は越前方面で、原発に、もんじゆ、ふげん、と名付けたらしい永平寺にも行った。 一休を作っているのか加藤さんを作っているのか区別が付かないが、山の中の工場で、街に下り、夕方になりようやく帰宅する20代の若者を見る、というような環境で、金歯をむき出しで笑うおばさんである、加藤さんの奥さんが次第に可愛く見えてくる、という怪現象を経験したのを思い出すのであった。。


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一休が竹竿で掲げるしやれこうべ完成。昔、頭蓋骨のプラモデルを作り、一晩かけて塗装をやり過ぎてしまい。しやれこうべの佃煮になってしまった。当時はそこらにうち捨てられたり、軽く土をかけられただけなんて死体が多かったろうから、新鮮な白骨で良いだろう。やり過ぎは我慢しよう。 アポロ11号の乗組員の食事メニューで何だろう?と思って以来ようやく食べたオートミールは、朝食はだいたいお粥にして食べているが、金魚にやったら喜んで食べる。 それにしても連中は良く動く。何か理由があって、振り向いたり上行ったり、下行ったり方向転換しているのだろうか?もっとオートミールくれ、とこちら見ている金魚が、何でしやれこうべなんか作ってるんた?という顔するので、いや私にだって一応理由があるのだよ。

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複数の頭を同時に作り進めるのは、順ぐりと何順もしながら仕上げて行けるので良いことは判っていたが、10個もあるなんて初めてである。毎朝、本日のターゲットを決める。本日は一休宗純。臨済宗、風狂つながりで、つい手を出してしまったが、子供の時に読んだ伝記で感心した門松や、の“目出度くもあり目出度くもなし”から寒山拾得の ”笑いであり笑いでない“謎の笑みに思い至り、ようやく寒山と拾得の頭部制作に取り掛かれた。 一休の肖像画は数々描かれているが、中に赤鞘の長い、佐々木小次郎どころでない太刀を傍らに置いたのがある。何だろう、と思ったら、竹竿にしやれこうべだけでなく、こんな物を持って人々を驚かせていたらしい。そんな物もいずれ手掛けてみたいものである。 写真を初めて発表した時に、ある編集者が、被写体を目の前に置いてあるのに実写と間違えた。そんなつもりではない、と翌年作家シリーズに転向した。作り物にしか見えないよう、元々嫌いであった私小説家は避けたが、それでもリアル方向に行ってしまいがちであったが、陰影を削除する手法に至り、またここへ来て、実写と間違えたら、間違えた方が悪い、というモチーフにようやくたどり着いた。



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仙人をあと二人ぐらいは、と思うのだが、これぞというターゲットが見つからない。その間、出来ている頭部の仕上げを進める。禅宗には、高僧を絵画や像として残す習慣があったようで、そのため後年想像を交え描かれた物と違いリアルな肖像が残されている。一休宗純もその一人で、有名な、ジロリとこちらを見る肖像画は、肖像画の傑作鏑木清方の『三遊亭圓朝像』に匹敵するだろう。同時にもう少し後年を描いているのか、いくらか歳を経たような木像があり、現在は痕跡しかないが、髭や髪など、本人の物を植えていたそうである。私も当然この二点を参考にする訳だが、年齢も違い、その違い見比べながら落としどころを模索している。 この一休は、竹竿にシヤレコウベ掲げて立つ姿しか予定していない。日本画のような無背景を考えているが、余裕があれば京都の街を背景に、というのも考えても良いだろう。小学4年頃、伝記を読んで私の頭に浮かんだ一休が目の前に現れる訳である。「あの時頭の中に在ったのはこれだよな?」



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